か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

クルーザー、まだまだ暑くて気違いが出る   16

2018年08月29日 | あそび

引用開始

<福岡海保>渡船転落の男性、2日後救助 泳いで無人島へ

 福岡海上保安部は29日朝、福岡市沖の博多湾の無人島・端島(はしま)で福岡市東区の会社員男性(53)を救助した。男性は2日前に市営渡船から海に転落し、泳いで端島に渡りついていたとみられる。男性にけがはないという。(毎日新聞)

 

落水者本人は遊覧船に乗りたかったようだし、ほろ酔い気分でもあったようだ。しかしなぜ渡船は乗船者と降船者の数を確認しなかったのだろう。

落水者の責任ばかり問題にされるが、海に落ちるということはものすごい孤独感と戦うことになる。たしかにみだりに席を移動すると重心位置が狂い燃料を食う。それが半端ではない。一日で数十万円はすぐ違ってくる。僕の船はいらないものは何もないが各自乗員が自分の位置を決めたら自動で船の水平がとられる。だから動いてはいかんのだ。

航海中、公海上では船長に裁判権と警察権がある。だから命令に従わないと海に落とす。公海上では勝手に位置を変えると全員が危ない。出航前に必ず注意する。それを破ったら仕方がない。

今回の落水者を出した渡船は大型になったのでそこまで神経は使わない。

天候が変わるときは一度も潜ってない時でもそのまま帰る。

海で死ぬのは溺れて死ぬ人もいるだろう。低体温もいるだろう。でもそれらは例外だ。寂しさで死ぬ。帰港するより海が荒れるのがはやかったことがある。そんなにいつも正しい判断は無理だ。僕自身吐くのをやっとこらえた。船長が吐いたらシャレにならんだろう。

ゲロの中で僕は天に誓った。どうぞ僕からエロ本を取り上げてください。エロビデオは二度と借りません。やることばかり考えて人生を過ごしません。・・・

だから死ぬのは構わないからここで死ぬのだけは嫌です。何とかここで殺さないでください。・・・

海はさみしさで死ぬ。孤独に打ち勝った人だけが生きる。まるで人生だ。僕は海の孤独には到底勝てない。灯台島の周囲は浅いので船は警戒してあまり通らない。運よく遊漁船に見つけてもらったが、酔っ払いが島にたどり着き助けられただけの話では決してない。

3時間、3日・・・漂流者の死ぬ時だ。だからこそ、この3の倍数を乗り越えよと漁師さんから習った。

志賀島の島陰にはいるとピタッと静かになった。


ウソはしきりと絶叫する 45

2018年08月23日 | 韓国

前回の続きから


朝鮮の国家イデオロギーである性理学(万有の「理」と人間の本質である「性」、朱子、訳者注)によると百姓があまねく良い暮らしができる「均」の状態を理想としていた。孔子が論語で述べた「国を治める人は貧しいことではなく均等でないことを憂いた。」(有國有家者 不患貧而患不均)という言葉がまさにそれだ。すべてのものが等しく生きること、そのような集団的生存倫理に忠実である経済のことを人類学者たちは道徳経済(moral economy)という。世界のすべての前近代的社会がそのような道徳経済に属していた。反面、近代の市場経済が成立するためには道徳経済に代わって個人の営利追及を正当化し生産の効率性を求める経済倫理が成立する必要がある。西欧ではまず最初に英国がその変革をなし。アジアでは日本が18世紀を前後してその段階に至ったと評価されている。残念ながら朝鮮ではそのような近代の経済倫理が発達しなかった。道徳経済の集団的生存倫理が依然として強固であったなか人口増加と環境破壊という未曾有の挑戦をうけ朝鮮王朝は合理的な対応に失敗してしまった。
              出典 <時代朝鮮>2005秋、冬通巻30号
 

 

Ⅳ まとめ   「青年たちよ、古い歴史観を捨てよ」
                 ソウル大教授の見解 イヨンフン教授
 

この文で私はまず韓国の若者たちが精神的に自由であり自律的な文明人の観点から、しかも一つの社会の統合体として国家が失敗をしてしまった原因が何だったのかという文明史的観点から、今から100年前に存在していた朝鮮王朝の滅亡という歴史的事件に接近する必要があることを強調してきた。しかるのち、当時の高宗と執権勢力がとった盲目的な反日外交が想像もできなかったほどの一大災難をもたらしたし、そのベースには世界文明の中心を中国と朝鮮においた道徳主義的世界観が土台にあったことを指摘した。さらには経済体制の長期変動という観点から朝鮮の経済は集団的生存倫理に基礎を置く道徳経済であり、その経済倫理の行き過ぎた頑固さが人口増加による環境破壊の危機を克服できなかったことも指摘した。

要するに道徳的世界観と道徳的経済倫理の「道徳」、それが問題だったのだ。「道徳」、まさにそれが朝鮮王朝の外交と経済を失敗させた。朝鮮人の精神が曇ってしまったのもそのせいであり、文化が沈滞したのも、非道徳的に争ったのも、まさに「道徳」のせいだった。もちろん人間はパンのみにて生きているのではない。近代の文明人が人は生まれながらに誰にも渡すことのできない天賦の権利を持って生まれてきたという最高の普遍的な道徳を発見した。そのような近代的道徳をどうこう言うのではない。朝鮮王朝を失敗させた「道徳」はそのような近代的道徳ではない。そこでの「道徳」は「われら」が文明の中心であり、少しは貧しいかもしれぬが「われら」みんな飢えることのないのが文明なのだという閉鎖的なまた集団的な生存倫理の前近代道徳」なのである。

何年か前から、特にこの政権が樹立されてから、「われら」もしくは「われらだけ」というとんでもない集団倫理が政治において、南北関係において勢いを増している。文明史の視角から見るときそのような集団主義がいかに不吉な兆候であるのかを韓国の若者につたえたくてこの文を書いた。くり返すと、今から100年前朝鮮王朝が滅亡したのはまさに「われら」という集団的生存倫理のせいであった。

 

© からけん

次回用メモ  <시대정신>2005가을,겨울 통권 30호


キティ ハーモニー みんなを連れて  2

2018年08月17日 | あそび

耳鳴りがするほどの子供の声も、シーンとした家に帰ってみるとなんだかとっても良い時間だったような気がする。父親が言っていた。家に子供の声がすることはいいことだ、と。子供が小さい時同居していたが彼はとても喜んでいた。

 

技術将校だった彼は理系特有の極端な口下手で、戦後は損ばかりしていた印象がある。子供の僕には確かなことは分からない。

今その気持ちはわかる。子供の声がしない家は死んだような静けさだ。

でも最近の子はゲームばかりするのかな。別に悪くないがせめて現物の木切れとかボールとか積み木があればなをよく、そうして現実世界で遊ぶのもいいことだというのをわからない子供はかわいそうだ。

天皇家のだれかが子どもに積み木を買ってやった。たかが積み木だが実によくできていて思考力が煉られる。僕も子供のころ遊んだ。5歳までとなっているが僕は小学3年まで遊んだ。僕はこれで頭がよくなったと言い切ることができる。レトリックですけど。

10万円の積み木が高いからと子供に無関心で、カネはビール代に消え愛されない子供は思考力を失う。そんなぐうたらの家庭では、積み木があってもなくてもどうせ子供はやがて親のような親になる。

ポイントは何かというと、丁寧に試行錯誤を繰り返しゆっくり深く物事の本質を考えようとする子供になってほしいという願いがこの積み木にはあるということ。そのためのものすごい工夫があるということだ。

 

文を読むということも同じことが言える。読みが浅い人とは議論が成立しない。また量が足りないと語彙が不足し一定以上の思考ができない。同じことばかり聞かされて苦痛だ。フラれた男にいつまでもすがる女のようにくどくしつこい。なぜ東大が日本史と世界史の両方を課すのか、物理と化学の両方を。

東大は国語力の重要性を自覚している。

近所のおばさんが先生をやめて自宅を改造し鶴〇文庫という名前の小さな図書館を作った。おばさんは控えめだが子供たちが本の世界の素晴らしさを知ってほしいと願っておられるようだ。

最近はだんだん子供が読みに来なくなりました、と言っていた。豊かな語彙力は自己表現の豊かさにつながる。頭が残念な水準の人は語彙が少ないので同じことを繰り返し言う。語彙力と読解力は自分の中に正しく正確な概念を形成するのに役立ち、間違った理解をして錯乱することもなくなる。

 

積み木にしろ本にしろ、抽象力のある人は今何の話なのかわかると思う。それこそがポイントだ。ゲームには絶対ないものだから。


キティ ハーモニー みんなを連れて

2018年08月14日 | あそび

夏は意外と遊べない。これを言うと貧乏人の方が火を吹いてイラっとするだろうが、ザマミロと思うとゆがんだ楽しさに浸れる。

馬は夏には弱る。僕の10倍ぐらい金持ちで仕事をしてない人は5,6頭持ってきちんと手入れをして馬が実に美しい。それらをローテーションして乗るからいつでも乗れるが僕はちょっと乗ったら馬がきついそぶりをする。馬事公苑に佳子様が来て挨拶をしたそうだ。東京に住みたいが僕の資力では無理だ。馬をやめればいいがそれは死んでも嫌だ。そのうち馬場馬術の良さを言います。

クルーザーと書いただけでもうイラっとする貧乏人がいるが、まともな読者がちゃんといてそんなこと超越している人がいるのはgooの特徴じゃないかな。コメントか何かに、こいつなかなかやってるなと思える人がいて以心伝心、楽しさが伝わる、いつかお会いして語り合いたい。クルーザーもそのうち良さを書きます。

いずれにせよ夏にできるものではない。暑い。

 

ハーモニーランドに10人も連れて行った。やせ我慢してカネを払ったが、なかなかの出費だった。最後にみんなステーキを食ったので気絶するような出費になった。最後に子供がありがとーっと叫んだのでずいぶん気分が落ち着いた。玉の湯に寄った。昔の方がよかった。商売っ気が出て困る。夜の露天はいい。

よかったのはここにはさすがに朝鮮人はいなかったこと。流石に無理だろう。あと2年だな。シーンと静かだが家と同じだ。

あとはキティちゃんの写真を並べます。時間のある人だけ見てください。