<前回のつづき> 毎月20日発行
このような論議にはさして重要性はない。戦後朝鮮の処理問題に関し重要な点は連合軍が1868年以降取得した日本の領土を没収するという合意をしたことである。これは戦後国境設定においてドイツはもちろんほかの国家においても戦争直前の国境線に回帰したことと比較するなら日本に対しては非常に差別的な処置をとったことがわかる。80年前の国境線に回帰するという決定はいくら敗戦国だといっても国際的戦後処理慣行とはかけ離れている。明治維新以後、日本はまず北海道を占領し以後沖縄など日本列島南端の島を占領したのである。しかしサハリンと、朝鮮半島、満州などを統合して日本の領土は次第に拡大してきた。沖縄に対しては敗戦以後グアム、サイパンのような米国領として維持されてきた。しかし、アメリカは1976年、沖縄を返還し北海道はもとより分断されていなかった。
1931年以降、事実上日本の領土になった満州に対してはすでに国際連合でその正当性を認められなかったので入戦後日本は満州をはじめ1930年代以後取得した海外領土を放棄するにあたりとくに意義はなかった。しかしながら、すでに国際的承認を受け正当な手続きを踏んで日本の領土に統合された沖縄をはじめ台湾とサハリン、クリル列島、南洋群島(ミクロネシア)などの領土に対しては敗戦を理由にこれらを日本から切り離すという発想は正当性を欠いは処置であり、歴史を無視する戦勝国の別の意味での侵略にすぎないのだ。
連合軍との合意によってソ連は1945年8月8日、日本に対し宣戦布告をすることで日ソ不可侵条約を自ら放棄した。欧州から極東に移動したソ連軍は1945年8月9日満州と朝鮮半島に進撃を開始した。優勢なソ連軍の火力の下、日本の極東軍は次々に壊滅した。ソ連軍は日本が無条件娘往復をしたのちにも続けて進撃し8月26日には朝鮮半島北部の平壌に入城することができた。しかし、すでに米国とソ連は38度線を境に分割統治を約束していたのでソ連軍は38度線で進軍をやめた。1945年9月8日、ハージー中将が率いる米軍第24軍団が仁川に上陸し9日にはソウルに入り朝鮮総督府を占領しすぐさま38度線以南に軍政を引いた。
人民は弱いものでいつでも勝利者の側につく。長い間日本に同化して日本人として生きてきた朝鮮人は戦争により日本がいなくなるとあたかも自分たちが日本人ではなかったかのようなふるまいをした。このような流れは天然病のように広がり、すぐさますべての人が隠れていた独立運動闘士として日本の統治に抵抗したのだと主張し始めた。文字通り「世の中が変わった」のだ。すぐさま米軍とソ連軍が進駐し朝鮮人たちはソ連国旗と星条旗を持ち歓迎した。彼ら戦勝国の軍隊は銃弾の洗礼と略奪、強姦で応えた。
(日本)列島に進駐した軍とは異なり朝鮮半島を占領した米軍は大陸につながる日本列島を占領し日本軍を武装解除するという使命を帯びていた。そこにいたのは極めて残酷で野蛮な軍人たちだった。朝鮮人と日本人を見分けることができずこの地が朝鮮であるという認識もなかった。彼らには朝鮮半島とはそのまま日本であるというだけの話だった。彼らは勝利の陶酔感に酔い直ちに復讐をはじめこの過程において手当たり次第に人を殺し建物を破壊し婦女子を強姦した。とくに朝鮮半島北部においてはソ連軍の略奪と強姦が頻発したため女性は外出をしなくなった。表に女性がいなくなるとソ連軍は家宅捜索をし強姦した。この時朝鮮人はコジェンイ(股下の幅が広いズボン用の下着。肌着の上に着る。(訳者注))というものを作り女性に着せたのであるが、これはスカートの下に短いズボンをはくようなもので、このごろ見るようなものだ。しかし、コジェンイをはいていても家の中に入り込み女性をかっさらい強姦する占領軍を前にしては防ぐ手立てにはならなかった。
以後朝鮮半島は共産陣営と資本主義の陣営による体制競争の展示場と化した。朝鮮半島の南も北も掌握した米ソの代理人たちは政権を維持し彼らの宗主国からの歓心を買うため競争して極端な敵愾心をあおり人民を洗脳しはじめた。その結果、1950年以降3年間惨劇の戦争がはじまりもしたし、本格的な戦争に至る前にも韓国は事実上左翼右翼の洗浄だった。理念の対立で多くの大量虐殺事件もありそれにより数十万名の善良な住民が死んだ。
<次回用メモ>
[1-2] 상처뿐인 해방-일본의 패전과 한국 p39
の10段目[ 반일 세력의 정권 장악 ]から