か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ノモンハン事件

2020年08月15日 | 東洋歴史

<引用>

「君は日本軍をどのように評価するかね」(スターリン)

「われわれとハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。とくに接近戦闘でそうです」と私は答え、さらに「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。

若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降らず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです(後略)」(『ジューコフ元帥回想録』)

<引用ここまで>

<さらに引用>

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国モンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に、満州国を実質的に支配していた日本大日本帝国)と、満州国と国境を接し、モンゴルを衛星国としたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍モンゴル人民軍英語版の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍ソビエト赤軍戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

                                wiki

<引用おわり>

 

そして大日本帝国陸軍は大敗北を喫した。いまだに1万人の日本兵の骸骨が風雨にさらされている。2万人が不具者になりさみしく死んだ。

 

軍楽隊も幟も万歳の歓声もなく不毛の土地を取り合って日ソ両軍が宣戦布告もなく激突した。

その大衝突の前にも小競り合いは続いていた。小松原師団長は敵を侮りあいまいな情報や架空の情報を狂信し楽観的に戦局を解釈した。

小松原は、「うまくいけば私の手柄、失敗したら部下のせい」にするつもりだからこんなおいしい話はない。

 

彼は、この姿勢で一貫していた。この卑怯な態度は彼だけがとった態度ではなく、思想傾向として軍部、国内の言論、政治、学校、会社、…いたるところに蔓延していた。

この宣戦布告なき現地軍の独走を、国家として制御できない小日本は政府内部で責任転嫁するか見て見ぬ振りに終始した。

 

国民が軍を統制してない。軍が国民を統制している。

 

これが軍国主義でなくてなんだ。

 

 

どこの家庭も戦前はそうであったように私の祖先も男は全部軍人だ。

 

その軍人の一人、私の曽祖父は、1939年ハルハ川河畔の師団司令部にいた。司令部の参謀のなかでは最年少で、戦闘がまだ小競り合いであったころ、従兵を連れ陸王に乗り敵との停戦交渉に赴いた。

 

停戦が成立してホッとして司令部に帰ると、必ず敵機が襲来し爆弾を落とす。尾行して司令部の位置を確認したのだ。

 

仲間をやっとのことで砂の中から救出したのを見計らって今度は戦車や装甲車が来た。この裏切りと姑息さにおいてソ連軍は一日の長、いや、百年の長があった。

ロシア軍にすれば、

わがロシアは何年露土戦争をやってきたと思っているんだ、鳥羽伏見とは違うぞ。そういいたかっただろう。

ロシアの機関銃弾は小日本の戦車を貫通した。何が戦車だ。

日露戦争の敵討ちに燃えるジューコフは、日本軍兵舎や前線司令部を縦横無尽に轢きまわし兵が完全にひき肉になるまでやめなかった。

 

これを戦争といわずして何が戦争だ。日本は何とこれを「事件」と呼んだ。

 

戦争によって領土問題を解決するという能天気が現在も国会議員にもいる国では、この不条理が今も現実となりうる。。

 

下っ端はよい仕事をしてもせいぜいほめられるだけ。「よくやったぞ」、と。

そして成果は上がとる。

 

問題は、可能性の少ないことを押し付けておいて失敗したら部下のせいにする犯罪的上司の存在だ。

戦争の不条理は現代においても続いている。

 

おじさんは現場の小隊長クラスに責任を押し付けピストルを渡した。死ねということだ。

 

100倍近い戦力差に、もはやどう戦おうと勝ち目はなかったのに、下級将校や兵に責任を負わせた。現場の下級将校は自決。兵はその後起こる太平洋戦争で必ず死ぬ作戦に向かわされた。口封じだ。

 

死んで陛下にお詫びしろという自殺強要を嬉々として命じた人物がいる。小松原と辻だ。彼らは昇進した。

 

おじさんは、その後の戦闘で負傷し(盲貫銃創)太平洋戦争中は陸軍病院に入院していた。

ずっと悩んでいたのだ。敵弾の飛び交う中、最善の選択をした優秀な帝国の士官に自殺を強要したことを。

彼はその後数十年、隠れるように百姓をして、「申し訳ない」といって自殺した。

 


韋駄天 (いだてん)

2018年10月25日 | 東洋歴史

旧制玉名中学を卒業後、1910年明治43年)、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学する。

1911年(明治44年)、金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋[3]で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となった。

 
ストックホルム近郊のマラソンコース上の町・ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板。

1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。

                               WIKI

生家

当時の日本は国民全員が飢餓線上をさまよう絶望の島だった。今でも女を理由に大学を落とされ、賃金分配率は170位だ。だがカネさえあればなんでも可能であるのは今以上だ。和水町がとくに貧しかったのではない。

わずか6000万の人口で620万の軍を抱えれば、腹いっぱい飯を食うのが子どもたちの最大の願いとなるのは必然だった。

帝国が絶望から抜け出せたのは民族の優秀性が理由だったか。井底の蛙は叫ぶ。大和民族はあ~。金鵄輝く日本のお~。嘘だ。付随した理由を並べても何のツッパリにもならない。

本質は何か。

帝国の教育政策にある。津々浦々に小学校を置いたに。今は廃校を増やして明治政府の偉業を経済的基準のみから破壊している。現在より少ない児童数の小学校が普通だった。

 

金栗は小学校も、玉名中学も毎日ではないが走って通った。舗装はもちろんない、街灯もない。それどころか急坂は自転車で通うことも不可能だった。もちろん、学生が自転車に乗ることはありえない。

平坦な道を走ることは金栗にとっては遊びごとだ。坂道では全然別の筋肉とエネルギーの分配法が必要だ。箱根駅伝を始めた本人はその坂道に意義を見出した。

 

僕は半日かかって90歳以上の人なら金栗と直接話をした人がいるはずだから探した。見つけた。

「ああ、造り酒屋の金栗さんね。」というおばあちゃんにあった。百姓をしていては東京の大学に行くことは不可能だ。防空壕を一緒に掘ったこと。50歳ぐらいになっていたはずだが、滑るように走ったことなど、楽しくお話を聞かせてもらった。

 

故郷は手の平を返す。金栗は故郷のヒーローか。NO, 科学的トレーニングという考えは高地トレーニングの導入につながった。今更金栗記念館だと。そのうち金栗饅頭でも売り出すぞ。

一粒300メートル、道頓堀のグリコの走るオジサン。金栗さーんと言えば返事をするかも。

 “In 1967 he returned to Stockholm at the age of 76 and finished his marathon run. Therefore he has the "slowest" finishing time ever in an Olympic marathon with 54 years, 8 months, 6 days, 32 minutes and 20.3 seconds, a record surely not to be broken.”

 


大濠公園から焼夷弾

2018年10月20日 | 東洋歴史

池底からは、福岡大空襲で落とされたとみられる焼夷(しょうい)弾の不発弾も多数見つかった。信管が付いたままのものもあった。平和な公園で発見された戦争の痕跡に思わず息をのんだ。(1990年)  2018/10/19付 西日本新聞朝刊

P51

福岡大空襲 1945.6.20 B29約200機が非戦闘員地域である福岡市中心部を焼夷弾攻撃した。B29の高度は2700メートルしかなかったのに探照灯の効果はなく、たった2基の高射砲は作動せず、日本軍の戦闘機は一機も飛ばず、米軍は作業のように福岡を焼いた。わざと半分は不発になるようにしていた。自動的に時限爆弾の役割をした。翌日警告を無視して子供たちをかたずけに動員した小学校では一度に多くの子供が死んだ。焼夷弾(ナパーム)は、ゾル状に加工されたガソリンが爆発する仕組みで、飛び散ったガソリンは肌にケロイドを残し、水をかけても、川に飛び込んでも、消えなかった。効果的な人殺しをするためには国際法を守ってはいけない。この人殺しの理論は米軍の方が何周も先を走っていた。死者はわずか1000人だった。、陸軍はナパームをバケツリレーで消せと命じた。誰も文句を言わない。忠実な臣民は死んだから。

B29  工場

 

隣国は、なかった虐殺をあったとして100年たっても責め続ける。日本国は為政者がかじ取りを誤り、いつまでも敗者の悲哀を味わう。つまり、米軍の非人道的戦時国際法無視の無差別非道な爆撃を、日本は非難したことはない。

帝国の高射砲 撃墜 0

話しはさらに50年さかのぼり、奉天大会戦。野戦司令部は何枚もの奉天郊外の地図を作り作戦指導にあてた。まだ、勝手に戦を始めれば予算はあとからついてくる時代ではない。薄氷を踏む思いでガラス細工のような作戦を立てた。

カネも人間も食い物も弾も、すべてが不足していたがガダルカナルと違うのは食料がわずかにあった点だけである。

とにかく戦には勝ち、ポーツマスの決定は多くの将兵の命を救った。各司令部はその地図を持ち帰り、地域の有力者に配った。それから50年もたつというのに、進駐する米軍から何と思われるか心配になった無能な有力者は、困りはてる。

大きな地図(3メートル×4メートル)であり激しい議論の跡が残る貴重な歴史、戦史資料だ。人から人に押し付けられた地図はやがて図書館に寄贈された。戦時中は権力のある人間として威張り腐り、状況が一変するとオロオロ地図を抱えて誰かに押し付けようとする。これ以上のバカの見本があるか。これ以上、無教養で情勢を判断できないでいる陳腐な人格がどこにいるか。

そんなバカが集まって何とアメリカに勝とうとした。

僕の祖先のことだ。

 

 

 

    


きょう米軍の無差別爆撃「10・10空襲」

2018年10月10日 | 東洋歴史

74年前 旧那覇市域の9割が焼失。当然に米軍はほどなく上陸し占領した。

陸軍兵が僕にぽつりと言った。「艦砲はすごいよ」。大本営は負け戦の口封じのためガダルカナルの生き残りはインパールへそれでも死なないならルソンへ。それでも生き残った人の言う言葉には重みがあった。

砲は2000万発撃ち込まれ銃弾はその100倍だろう。組織的な戦闘が1か月だったとすると一日100万発の砲弾が落ち1000万発の銃弾が住民や兵の顔を飛ばした。typhoon of steel

 

平和教育は体験者の減少や高齢化により、空襲教育、帝国陸軍悪者教育、漫然と戦争反対教育に変質してきた。

これでは沖縄戦の実態が歪められてしまう。

 

沖縄の軍や行政の中心人物たちは米軍の上陸が近いという情報を握りつぶし自分たちだけ飛行機で逃げた。これこそが平和教育の最高の教材だ。また起きればまたこうなる。

 引用 yahooブログ man***さん

・・・だが米軍が上陸寸前に沖縄から逃亡した泉守紀県知事、県議会議長、首里市長。第35軍玉砕直前に逃亡した八原博道高級参謀以下の幕僚たち・・・

 

このように軍人は沖縄を守ると言いつつやばくなると真っ先に退散した。八原博道は自分の部隊の壊滅を確認してから敵前逃亡した。兵なら即決銃殺だ。

 

10万の県外兵が死んでいる。せめて陸海の戦争展望の統一がなされるべきであった。陸軍は一撃を与えて講和に持ち込むというできもしない夢を見て、海軍は捨て石になるという美談に酔っていた。捨て石になっても壊滅の日が一か月程度違うだけだ。

米兵は射殺した日本兵の首を切りサッカー大会をした。わざと火炎放射器の火力を絞り苦しむ日本人を見て笑った。

 

父親の友人たちは理系の研究所にいながら海軍に志願せざるを得なくなり、追い込まれて志願し10人中8人が死んだ。

この人たちこそ戦後の復興のどんなに大きな力になっただろう。こんなことを教えるのが平和教育だと思う。

僕は偉そうに「殺すな」と言ったりはしない。ただ、「知らない人を殺すな」というのは僕の信念でありどこででも言える。

 

 

 


画期的なことには違いないんだよ

2018年10月05日 | 東洋歴史

気が滅入る研修だった。板門店。

 

北朝鮮の悪口を並べたらきりがない。オジサン殺し、兄貴殺し、100万を餓死させ200万を飢餓線上におき「良い子だけは平壌」に住まわせる。憎き日本からは800人も(ウソ)拉致する。ミサイルを飛ばす。

すると日本のあほの反応はミサイルが来たら頭を抱えて座りましょう。拉致被害者には圧力を前提に対話します。という方針だ。長野県の小学生の頭蓋骨は超合金だな。恫喝を受け兵糧攻めにされてだれが交渉に乗るもんか。トランプが正恩と握手をすると安倍は慌てて圧力を引っ込めて、僕も話し合いに加えてよと途端に低姿勢になった。

 

조선을 무시하지마!

大学ではKBSに入るんだといって意気込んでいた。1年後輩。康京和外務部長官(外務大臣)

 

正恩はトランプとのみ話し合えばよい。安倍はどうせトランプの言いなり小僧だから。

さてこのときの問題点は何かというと、右翼は頭ごなしの米朝会談は日本の顔をつぶされたというだろうが、今に始まったことではない。最大の問題は地球最後の労働力市場と鉱産資源の権利を失ったこと。

一年前は一触即発の緊張状態で安倍は自衛隊派遣をことあるごとにほのめかしていた。迎撃ミサイルもそうだろう。

しかし何がミサイルを止めたのか。九州、対馬と朝鮮は50㌔しか離れてないので晴れた日は朝鮮がよく見える。長距離砲で十分。一発500万。ミサイル5億。

止(と)めたのは話し合いだ。

完全でないことぐらい分かるが、幾分なりとも情勢の安定化、平和条約へ進んでいるのは、しがらみやプライドにこだわる朝鮮人の特性を乗り越えた信念があったからと思う。

朝鮮にいるといつも思う。どこか不安定なのだ。心のどこかが。南とは南であり全体ではない。シーソーの片方に乗っているようで落ち着かない。繁栄とは関係なく底の浅い不安定な安心感のない嘘っぽい不安感はソウルにいるときいつも付きまとった。

ノーベル賞が片方の金正恩や文在寅のいずれかに与えられたら、金正恩はソウルに来ない。ノーベル賞が極東を不安定にすることは避けるだろう。

 

後になっていろいろ理屈を言ったり逃げ道を用意してものを言うのは卑怯だ。

二人同時にもらう。トランプは関係ない。

僕は思うのだ。  Korea is to be korean.

U,S devided us.

疑心暗鬼になりながらも、会談はスタートして信頼を醸成できたから、正恩と在寅の平和賞だ。

あと2時間で結果が出る。

コンゴ(旧ザイール)で性暴力の被害者の治療や救済に取り組むデニス・ムクウェゲ医師(63)と、過激派組織「イスラム国」(IS)の暴力告発者でイラクの少数派ヤジディ教徒の人権活動家ナディア・ムラドさん(25)の2人が平和賞を受賞した。BY Yahoo

僕は予想を外しました。すみません。


女は占いに頼る

2017年11月07日 | 東洋歴史

朝鮮戦争時、一時的に北朝鮮が優勢な時があった。韓国軍は最初っから戦闘能力はない。空海軍はゼロ。ジェットの操縦経験があるものはひとりもいない。

負けていないものが一つあり、それは戦死者数だ。弾はすぐ切れ、互いに銃剣で刺しあい世界の戦史において最後の白兵戦が行われた。鳥羽伏見の戦いのほうが近代戦といえた。

ご存知のように、帝国陸軍がマッカーサーに入れ知恵をし海図と地図を提供した。無能な李承晩は効率的な利敵行為をし敗戦を早めた。

マッカーサーに戦略はなく、誰でも勝てる詳細な情報を日本から得ていただけだ。

釜山は朝鮮全土からの難民集積所となり、はぐれたものは行き場を失い死体となって路上に放置された。傀儡李承晩は、祖国の非常事態に関心はなくカウボーイ気取りで真っ先に進軍し真っ先に退却することを繰り返した。

 

釜山に影島橋がある。戦火に引き裂かれる家族は、分かれ際に「影島橋のたもとで」という言葉を残し散り散りになった。

影島橋は尋ね人の張り紙でハリネズミのようになった。インチキであったり本物であったりしたがとにかく自然と占い師が集まることになる。

離散した家族は命がけで家族を探しているわけだから、いい加減なことを言うと占い師も命がない。今も近くに占いstreetが残るが、淘汰されて生き残った人たちだけにその的中率の高さに定評がある。

 今は女性が恋愛相談をする場合とか、主人が浮気をしてませんかとか、彼とはうまく続いていけるでしょうか、とか平和な占いになった。

 

日本のテレビは面白くとくにCMのレベルの高さに驚く。世界水準だ。だが今朝見たら時差がない国なので同時刻に見られるのだが、占いコーナーがあり「うお座の人は赤いものを身につけましょう…」と言っていた。

韓国では土俗的信仰を公共の電波を使って人に強制しない。尋ねてもないものに対して強制しない。

僕は占い師たちの教養の高さを知っている。字が美しく速い。言葉が豊富で比喩の古典がスラスラ出る。

試しに親しくなったばあちゃんに聞いてみた。僕の出た幼稚園分かりますか。青空幼稚園。即答だった。

 

 


韓信 (韓進ではない。滅んだ半島の運送屋とは格が違う。)

2017年06月14日 | 東洋歴史

 

引用

ある日のこと、韓信は町の若者に「てめえは背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。      wiki

 

多くの人はご存知のことだが、男の悔しさはここに集約されるのではないか。たたっ切れば即解決なのに、というのは韓信の時代だが、じつは今も同様だ。

チンピラが小遣いを稼ごうと因縁をつけてくる町は福岡県が一番多い。ところが県警は工藤会に夢中で、そこらのチンピラは野放しだ。工藤会がほんとに壊滅したらそこら中にチンピラがはびこる。

クルマがかすったら一生しゃぶられる。相手は因縁の天才だ。

大きく言えば国民がそれを望んでいるのだ。だって頭がとれたタコはどんな動きをするか明白なことだ。

 

僕が中国で人力車に乗っていたとき、暗がりを通って少し近道をした。案の定チンピラがいてカツアゲをしようとした。僕は人力車夫を誘ってやろうじゃないかといったが。彼はチンピラにみかじめ料を払って事なきを得た。

僕は不満だったが、家庭もあり家族もある人力車夫はいつもカッコよくはできないのだ。チンピラは、商売道具の自転車を狙ってくるだろう。

まさに韓信の股くぐりだ。

大事なのは家に帰った時、妻がどういう態度をとるかだ。「何よ二人もいて弱虫。」という人もいて「よく我慢したね。」という人もいる。

 

現実の日本の会社になかでは事態はもっと複雑だ。詳しくはわからなくてもいいから、旦那を信じ悔しさを信じてくれる妻がいたらなんとありがたいことだろう。

現実はそうではなく、日本のサラリーマンという車引きは、学歴のハンディ、閥のハンディ、中途入社、部署の、組合の… そうそうカッコよくできないのだ。

あんな、思い付きでしかものを言わないポン助が何で部長になってふんぞり返り仕事もなく、おれに大きい顔をするのか。

 

などなど、みんな韓信の股くぐりぐらい人生でいくらでもしてきているからクルマも家も来たのだ。奥方、分かってあげろよね。

 

 

 

 


川棚航空魚雷製造秘密基地

2017年05月24日 | 東洋歴史

大村湾は、西海橋がかかった一点で外海と接し、事実上の湖のようなものである。二式大艇や水戦が羽を休めるに格好の海だ。

戦前からここには3か所に分けて魚雷製造工場があった。防諜のためとか空襲被害を分散するためとか後づけの理由は言われるが、まとまった工作機械がなかったからだと思えた。

なぜなら、まるい筒のなかにエンジン、バッテリーを積み込み、火薬を積み込んでいればバカでも魚雷と分かる。艦載機で破壊すれば事足りる小さな町工場程度が3か所だろうと1か所だろうと関係ない。

91式航空魚雷を日本のとっておきの秘密兵器のように言うが、一本二本の魚雷で戦争が決まるのではない。アメリカは数万本の魚雷を作り、日本の艦船はほとんど魚雷で沈められた。終戦も近くなるとアメリカの潜水艦は浮上して攻撃した。日本の反撃力がないことを馬鹿にしていたのだ。

哀れな負け方をするのは当たり前だ。裏通りのチンピラが山口組に勝負を挑んだのだから。

 

単冠(ひとかっぷ)湾に集合したとき、飛行甲板におかれた91式魚雷(航空魚雷)

諸元(時代によって大きく異なる)長サ5m 径45cm 射程2000m 炸薬235kg 水中速度約100㎞/h

ただ、明治維新から50年かそこらしか経ずして欧米の最先端技術をものにしていた。これを日本人の優秀性によるものだと言い張る邪魔にしかならないのがいて気が滅入る。

日本人は頑張ったのだ。それを軍国主義の一言で悪人視するのにもイラっと来るが、大日本のすることは何でも素晴らしいと朝鮮人の火病のようにわめくのにもうんざりだ。もっと正直に自分の学校の成績を見直せ。

多くの論点があるが、魚雷の基本とお金の話をする。

航空魚雷というだけあって飛行機から敵の船に打ち込む魚雷だ。今でいう空対艦ミサイルだが、魚雷がすべて旧式になったわけではない。近所の渡辺鉄工所ではパートのおばちゃんが今でも作っている。捨てがたい良さがあるのだ。

安い。戦時中の金で2万円(今の5億円)。ミサイルの1/20だ。じゃあ20倍ミサイルが優れているかというとそうでもない。ミサイルは、早く、隠れて、正確に、敵のトーチカ(壕)の入り口に回り込んで爆発するが、威力は20倍あるはずなく20か所を破壊できない。

ちなみにゼロ戦は5万円、飛燕は8万円。ゼロ戦を買おうと思ったら労働者は800年間、飲まず食わずで働かねばならなかった。貧乏日本はそれを1万機作ったのだ。魚雷は17000発。

それらは結局、必然的に水泡に帰し日本は国富の1/4を失った。

 

製造誤差があるので一本一本水槽に浮かべミリ単位でバッテリーを動かして重心を調整した。時代によって違うし、真珠湾の水平雷撃が記憶に焼き付いているが、実際はそんな低空飛行は自殺テロに近い。100メートルの高度から200m滑空させるとか、のちには1000mから落とし400m滑空するようにした。魚雷が水中走行に入ると日本の得意の、排気に酸素や空気を混ぜもう一度燃焼させ雷跡をほとんど消す酸素魚雷が推進力となった。その時の水槽

発射試験場

同じ場所から震洋の練習場が見えた。

招集された少年のなかには16歳のものがいた。アメリカ兵にとっては遊園地の射的場感覚だったろう。少年たちは万が一生き残ったら敵艦のスクリューに向かって泳ぎ米兵の心胆寒からしめよと教えられた。しかし、死ねと言ったものは生き残った。ずるい人間は戦後を臆面もなく生きた。彼らの口が「すまなかった」と言うことはついぞなかった。

 

 

 

 


易姓革命(えきせいかくめい)

2017年03月11日 | 東洋歴史

中国古来の政治思想。姓をか (易) え,命をあらた (革) めるという意味。天子は天命によってその地位を与えられて天下を治めるが,もし天命にそむくならば,天はその地位を奪い,他姓の有徳者を天子とするという思想。  (ブリタニカ百科より)

文在寅 大統領候補 日本に強い敵愾心を持つ だが、だから嫌いだという女子供の対応はいけない 努力と信念の人 間違っているが   

右は彼が出た慶煕大学校 僕の部屋から大聖堂が見えた(工事中)

 

人民が為政者を選ぼうと独裁が続こうと、権力を握ったものがどんな行動をするかは、じつのところ分からない。それが兄殺しかお仲間政治か、予想もつかないところに歴史は流れる。

だが昔の中国人は偉かった。どんな選ばれ方をしようと、天命に背くとその王朝は倒れると。金正恩やクネはまさに天命に背いたのだ。

韓国人ならだれでも思っていた。この政権は最後まで(5年間)もたない、と。無味無臭だがわずかの隙間からしみだしてくる毒ガスのように、青瓦台は嫌なガスを放っていた。

それは守衛や運転手や調理員を通じて漏れてくるのだ。人は人の表情を実に敏感に嗅ぎ取る。

会社組織に例えると、TOSHIBAに異変が起きた時、従業員たちの顔によどんだ黒い闇が見えた。それは10万分の1の末端職員からも読み取れた。三菱が悪事を働くとき、そこらのセールスの表情からそれが分かる。人殺し電通に覇気のある社員はもういない。いたら人殺しの仲間だ。

と考えると、日本人にはわからないが、半島に住む人ならだれでも青瓦台からしみだすサリンに気づかなかった人はいない。

信じてもらえないが僕の留学時代とクネの議員時代は重なり、一度会ったことがある。政治家としての必須の能力は、直感である。理詰めの精緻な分析や総合力のスピードは官僚の仕事だ。「勘」がない人だった。

だから自らが放つよどんだ黒いガスに気づかない。朴正煕の手塩にかけた一粒種が、才女の誉れ高く登場し晩節を汚し去った。

 

韓国には革新とか保守とかいう概念はない。いきさつ上便宜的に区分するだけだ。革新なら北と融和政策をとるか。ムン(文)=チェンバレンが兄殺しと手を組んだら易姓革命がおこる。

 

 

 


去香港旅遊吧 ! 九龍城

2017年01月24日 | 東洋歴史

怖いもの見たさで行動すると大けがをする。

それはわかっていたが、自分の実力を確かめたくてついに香港における最終目的にチャレンジすることにした。しかし、確かめるまでもなく相手は黒社会の本物だ。本格的ケンカになる前に走って逃げる覚悟だった。

近寄ったら刺すに決まっているから、その限界まで近寄りハウルの動く城みたいな数万人がうごめく中華人民共和国の飛び地を探検しようとした。飛び地というだけでなんか怪しさを感じることが多い。

九龍城の成立は、返還はるか昔、アロー号戦争にさかのぼる。だんだん英国に押され領地を喪失していく清国は、ついには辛亥革命で命脈を断つわけだ。清に変わった国民党も、支配力は清の領地の1/10にも満たない弱小軍だった。ので国民党の実力では九龍城地域を奪還できないからといっても、英国側も戦略上価値のない九龍城はそのまま泳がせた。そこで広大な飛び地ではあるがどこの飛び地かわからない、誰の支配が及ぶかもわからない無法地帯が成立した。

僕はなぜそんな警官も入れない無法地帯に行こうとしたのか。以前通りかかったときに中国服の姑娘が僕に手招きをしたからだ。スケベは時として命とりになる。

再び行ったときは姑娘(中国娘)はいなかったが中に入ってみた。なんかそこいらの小物が出て行けという動作をしたが、連れて行った奴(日本人)は体も大きくケンカが強い。ただし走るのは僕が早い。したがって僕は必ず助かる。

非友好的な雰囲気の中、アヘンのにおいで倒れそうになりながら、ほうほうの体で逃げ帰った。内部に侵入した気合の入った日本人になりたかったが、全部が敵だという暗い地下迷路は僕のレベルでは手に負えるものではなかった。

香港政府と中国政府は後日合意し九龍城の解体を決めた。今は公園だ。住民たちもきれいなアパートに移り満足しているそうだ。

しかし、アヘン戦争、アロー号事件、天津条約なんて世界史の世界なのに、それが残っているなんてなんかロマンチックな気がした。人殺しはいけないが、強いものが正しい世界がそんなに居心地の悪い世界だろうか。

今は頭のいいのが牛耳る世界だ。僕はよく努力し頭もよかったので良い生活ができた。しかし、正しい世界が成立しているか。文科省は数十人の天下りを責められているが、毎年役所から2万人が天下って仕事もせず数億円/一人の金を得ている。頭が良いことはすべての免罪符になるいまの社会。

ゲゲゲのキタローたちが「試験も何にもない」と歌った妖怪ランドのように、悪の飛び地は今日許されない。許されないから消滅した。だが、面白くない。

僕は九龍城を好きになれた気がする。その前に解体されてしまった。

 

 

 

 

 


港倶楽部

2016年12月11日 | 東洋歴史

「山海を開発し世界に通ず」そして目指すは一等国だ。という明治の気迫にあふれた書だ。井上馨。

三井物産を作った人だ。

この頃、明治政府も経済界も極端な人材不足だ。政界と財界は未分離で双方で活躍した人は多い。この書は僕の好きな三井港クラブにある。井上は有言実行の人である。書のとおり縦横無尽に飛び回り一等国日本を夢見た。

三井港クラブは20年ぐらい前から市民に開放され結婚式場になっているが実にもったいない。西郷や伊藤の書もある。悲しいかな百姓より貧しい下級武士には書の素養が無い。

きちんとした家柄の井上には下手だがバランスの取れた字が書けた。

 

この三井鉱山に生涯をかけ、日本のために尽力した人がいる。時代は少し下るが、団琢磨その人だ。鉱山鉄道やデービーポンプの設置は鉱山の能率を画期的に引き上げた。水没坑道の水をたちまち吸い上げた。現在大牟田市はこの鉱山鉄道を廃止し、三井はポンプを炭鉱記念とか言って体よく廃品にした。

 

団は、鉱山技師から三井鉱山の会長にのし上がった人。家系からは優れた人が続々と出ている。岩倉遣欧使節団に同行しそのままハーバードに残った人だ。鳩山由起夫とも遠縁である。團伊玖磨(ダンイクマ)もいる。

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干満の激しい有明海のため工夫した。写真の向こう側の海は干潮時完全に干上がる。手前の港には何艘もの大型船がいる。異様な風景だ。

この閘門の優秀性は、一度もオーバーホールをしていないところにある。メンテだけで100年以上を生き、水圧ボンプも故障したことが無い。グラマンの攻撃にもびくともしなかった。

 

上に書いた港倶楽部は市民に開放されて民進党や共産党は喜んだ。だが、つめに泥をつけて、長靴をはいて、軽トラで、来るところでは絶対無い。

差別といわば言え。文化とは差別の無いところに成立したことは無い。そんな文化いらないか。そんなら人間やめて土中にもぐってカブトムシの幼虫になれ。価値あるものに感激する心こそ文化の原動力であり人間の構成要件である。

案の定、大勢が押し寄せて,伊藤の額も西郷の額も井上の額もタバコの煙に黄変している。暖炉は使用不能となりお上のお手植の松に気づく人はいない。

いくなら今のうちだ。

これは僕のうちにある同時代の一輪挿し。

 

 

 

 

 

 

 


小野田少尉

2016年05月18日 | 東洋歴史

このブログで戦争の話をしようとすると、とたんに耳を塞いで思考停止になる人が多い。どう思っているのだろうか。

人殺しいやだとか、戦争怖いとか、平和が一番とか、能天気に馬鹿をさらすのだろう。

私の勝手だ、嫌なものは嫌だ。とでもいいたかろうが、人に迷惑をかける馬鹿は許されない。この国で、その場しのぎの人生観が、マジョリティー(多数)を形成して久しい。Political apathy(ポリティカルアパシー、政治的無関心)が多数になった。烏合の衆が決定権を持った。ファシズム前夜でなくてなんだ。

考えるのを嫌がった結果、一億総貧困という十分避けられたにもかかわらず、おとなしい国民は今貧困の悲哀をなめている。

自分は違うという人がいる。じゃあ毎年5億ぐらいは熊本に寄付できるだろう。

一方、政府はやりたい放題でこの機会を逃さじと、立て続けにアドバルーン政策を打つ。安倍の何が成功した?はあ?マイナス金利はデフレを止めたか。1%の人間が99%の富を持つ社会で、一度でもそれを是正しようとする政策を打ったか。

努力したものがそれなりの報酬を得るのはいいことだと安倍は信じている。違う。貧しい家系の人間は貧困の恐怖に縛られ、まぐれでつかんだカネは腕が千切れても離そうとしない。ところが、

Europeは長い歴史の中でそういう姑息な成金を軽蔑した。むしろ逆にnoblesse oblige、すなはち優れていれば人一倍義務も大きいのだ、と社会のあらゆるところで教育する。日本では、貧者であろうと富者であろうと、「姑息な成金」になることが、社会目標になっている

 

 

 

先日防衛省の幹部の方から案内を受けた。考えない幹部だった。防衛大はこのごろ、本来なら合格者が出るはず無い高校から合格者を出している。ちゃんとした高校から合格しているものが少なくなった。こういうと「ちゃんとした」とは何かといわれそうだ。それが分からないならこのブログは読むな。

もともと優れたものはいない大学校だが、何か防衛大の質が変化していると思った。入試問題は優れているが。

この幹部とは会話が成立しなかった。正鵠を射た返答が無いのでイライラした。

組織を防衛するので精一杯の様子だ。とても日本国は防衛できない。膨大な上意下達のピラミッドの中で、せめて幹部は柔軟な発想がほしい。

会社でもそうだが、出る釘は打たれる。チャンスを狙い息を潜めてかくれるように生きる。大体こういうのが昇進していく。

小野田少尉の母校だ。

陸軍幼年学校。陸軍士官学校ですら競争率は数百倍だったのに、幼年学校はさらにその百倍だった。年齢12歳。ぼんやり読むなよ。中学校一年だ。そのあどけない顔が痛ましくてならない。

今、日本は、「駆けつけ戦争」が可能となり自衛隊員から必ず死者が出る。死なない戦争は無い。

小野田少尉が誰かなと思った人は、ペットを飼っていてその犬は家族の一員でしょう。死んでくれませんか。

上記の士官学校で3名に恩賜の銀時計が与えられた。(年度により数には変更あり) わかるかポンスケ。数百倍の百倍の競争の下、優れた学徒に与えられた。

 

問題はここだ。貧しいので授業料無料の陸軍士官学校を目指してくるものが多いが、一人も昇進のため生きたものはいない。まさにnoblesse obligeなのだ。

おまいら下種には無縁な世界が、戦前、久留米(福岡県)の地にあった。

 

 

 

 

 

 


うめき灯篭

2016年05月02日 | 東洋歴史

僕は狛犬や灯篭、石碑を読むのが好きだ。年代を読み天明の頃か、とか万延の頃かとか考えるのが面白い。江戸以前のものもあるが風化しているのでよほど光線がよくないと判読出来ない。

 

狛犬も、その姿をよく見ると、神社ごとに個性がある。阿吽の像ではなかったり、鳥居の外にあったり、さらにはそもそもなかったりる。鳥や馬の狛犬もいた。

その向きも相互に向かい合ったり、参拝者のほうを向いたり・・・昔になればなるほど頭は柔軟だった。簡単に彫れたら粗雑な出来になる。

その彫刻能力は現代になればなるほどつまらない。動力を使って瞬時に掘り出しているようだが、狛犬の顔に怖さと個性が無い。

何百年も前の子供は、睥睨されただけで「おとう」の手を握り締めただろう。

 

国道385号線、50年も工事が続く。そのやる気の無い国道を走り筑後川を越えたら青木神社がある。その横の温泉で僕の送別会があった。本職はすでに辞めていたので非常勤職員にまで送別会をしていただくとは恐縮だった。

少し時間があったので青木神社に行った。

面白い占いがある。泥で固めた10円玉程度の大きさの泥饅頭を、3メートル離れた池の中の石に乗せる。平たく半径50センチメートルの石を狙う。大きく放物線を描かないとだめだが。この曲線で狙ったところに石をとどめるとは至難の業だ。

僕は奇跡的に2回投げて2回とも平たい石に乗った。よその子供が来たので二人で遊んでいたら、お母さんらしい人が血相を変えてやった来た。

「何をするんですか」

僕は不審者なんだな。

 

 

 

 

 

 


絵馬  2

2016年02月21日 | 東洋歴史

秋月藩は福岡藩の支藩であった。福岡藩に比して決して豊かではなかったが、少人数ながらよく団結したここの武士階級は、明治新政府の強圧的な武士特権剥奪に反抗した。

西南の役のあたかも前哨戦のような士族の反乱は、北部九州を中心に西郷の大爆発の前の小さい火花のようにはじけた。神風連、佐賀の乱、そしてここ秋月の乱。

既得権剥奪に反対して自滅した日本社会党を見るような目で、ここの不平士族を見てはならぬ。わずか数百の士族で日本がどうこうなるわけはない。本人達も十分承知だ。

皮肉なことに、彼らは非道な財産没収に対し民主主義の論理で対抗した。

われらの財産など明治政府にくれてやる。問題は、事を行うに当たっては正当な手続きを踏めということだ。したがって、お上といえども非道なやり口に対しては刀を取る。

百姓も武士並みの教養を備えるものがいた。寺子屋であるいはお宮の境内で、のどの渇きを潤すように学問に群がった。

秋月の神社に昨日示した数学の絵馬がある。(算額)

そのそばにあるあまり有名でない神社の絵馬について書く。

 

 

1845年下の絵馬が奉納されている。源氏の横笛の場面だ。穏やかなときの流れを今に伝える。本来絵馬とは平和を感謝するものであり、江戸までは、戦勝祈願のために掲げられる性格のものではなかった。

家柄も悪くしつけもろくにされてない者が、妙にかっこつけて威張り散らす下品な政府が誕生してしまった。こいつらはやたら日本海海戦戦勝記念とか奉天大会戦祝賀とか、古来の穏やかな葦原の国を土足で踏みにじった。

今、絵馬の判読が困難になりつつある。古い絵馬ほどやさしい場面が描かれる。何はさておき字がきれいだ。震えが来るほどの書きなれた美しい字だ。

上の絵馬は、僕には何が書いてあるのか分からなかった。保存すべきだ。やさしい日本人が、天保15年にそこに生きたと分かるじゃないか。

わざわざアラブと敵対して、テロに備えて軍備増強だと安部は言う。今の日本は方向を誤り多くの敵を作った。他に道はいくらでもあったのに。

穏やかならぬ日本がそんなにいいか。

 

昨日の絵馬(算額)の解、②は略。

直角三角形の斜辺をc、他の二辺をa,bとおく。内接する円の半径をr。直角三角形の面積Sは、S=ab/2。ヘロンの公式よりS=√s(s-a)(s-b)(s-c)  ただしs=(a+b+c)/2とおく。

このとき、S=rs,S=ab/2なのでrs=ab/2 これに代入して、r(a+b+c)/2=ab/2すなはち、

r(a+b+c)=abだから   r=ab/a+b+c      もう少し簡単に出来ますがこれでいいでしょう。算額はどんどん難しくなっていきました。

 

http://www.nikkei-science.com/page/magazine/9807/sangaku-Q.html

 

 


『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』、旗艦三笠、三角西港

2016年02月17日 | 東洋歴史

「(るろうにけんしん めいじけんかくろまんたん)」の実写版は熊本県宇城市三角町の旧裁判所で撮影された。もともと三角は景色のよいところで、焼酎いいちこのCMや坂の上の雲などのロケが行われた。

右上が裁判長席、手前が弁護人。窓がいい。景色がゆらゆらゆがんで見える昔のガラス。

若い頃数ヶ月滞在したことがある。今ならそうはいかないが、町は、家賃電気ガス水道すべてタダの一軒家を与えてくれた。仕事は別になかったのに若かったので張り切って動き回った。が、いま思うと僕らしくなかった。

この僕がいた隣家が映画のロケに使われようとは何ということだ。


支離滅裂な映画だ。

旧裁判所の壁にロケを記念してこの絵があった。

「いいちこ」のCMの撮影もあり、いまやなかなかの観光地だ。


「坂の上の雲」にはオルドル邸が出てくる。小泉八雲が滞在したところで僕がいたときは一階が食堂になっていた。いまはコーヒーだけ。

このオルドル邸から20m進むと、もう海だ。この一帯は世界遺産。

それに含まれなかった重要な遺跡がある。赤瀬トンネル。かつて鹿児島本線の終点はこの三角であり、明治貧乏政府は全力で鉄道を通した。まだ100mのトンネルも掘れなかった時代に、日本の技師は雇われ外人技師から一言でも吸収しようとメモを取りつつレンガを積んだ。

三角線に赤瀬という無人駅がある。そこのホームからそのトンネルは見える。明治維新から20年もせずに、のぼり勾配のカーブしたトンネルをレンガで覆うことは絶望的な困難を伴った。100年以上、現在まで一枚のレンガも落ちてない。

外国の真似が出発点であったことは周辺国と違いない。ただ日本は急速にそれ以上のものを作った。

シナ人や朝鮮人にも真似だけならできるだろう。だが、100年前にできたのはわが国だけである。



西港に行くと潮が満ちていた。ここに旗艦三笠は来た。

右にある木は、アコウである。100年以上経つこの木は旗艦三笠を見たに違いない。

日本に敵対する国ですらその無謀な戦に同情した。日本は、船はおろか自動車すら作れない国であり、海軍兵学校の定員は時代により変動はあるが基本100人だった。つまり国はそれ以上は養えなかったのだ。将校は少なくともその10倍は必要だ。

ロシアと軍事力を比較するのは哀しい。国会議事堂とこの旗艦三笠は同額だった。

その三笠が上の写真の海峡に来たのだ。接岸する港すら満足にない国の戦艦がまさに威風堂々やって来て沖合い100mに投錨した。住民にとっては、しばし現実の貧しさを忘れる一瞬の花火だったに違いない。

天草の奥地から徒歩で、熊本から人力や徒歩で三笠を見に来た。

まことに小さな国が死力の限りをつくしてロシアに勝ったのだ。戦艦三笠に負うところが大きい。この船が誇らしかった。

たしかに、貧困にあえぐ国民をさらに崖っぷちに追いやる軍備増強だった。なぜなら小さな島の貧乏人と、かたやその数十倍の国土から数百年に渡り収奪を重ねたロマノフの富とは、比較するのも恐ろしい。

だが当時の日本人に選択の余地はないのだ。東郷が三笠に乗ってなかったら、今頃センター試験はロシア語で受けていただろう。

排水量15,140トン(常備)
全長131.7m
全幅23.2m
吃水8.3m
機関15,000馬力
最大速力18ノット
航続距離10ノットで7,000海里(約13,000km)
乗員860名
兵装主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
装甲KC(クルップ)鋼
舷側:9インチ(229mm)
甲板:3インチ(76mm)

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