か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

暖かいので美術館へ

2023年12月27日 | 思想
久留米市美術館。「芥川龍之介と美の世界 夏目漱石、菅虎雄」来年1月28日まで開催中。1000円。ちょっと高い。

この美術館は元石橋文化センター。そうです、ブリジストンの石橋さん。周辺を散策。ちょっとした公園。

出来てから年月が経ち植栽も風景にしっくりなじんでいる。

このごろはいたるところで体育館などスポーツ施設がどんどんできている。ところが、美術館や図書館が新設されることはない。選挙の票になるんだろう。とくに田舎は体育館ばかりゴロゴロある。かと思えば隣町に張り合って無理したホール。ストリップ小屋かと思った。

ポピュリズムの果てに何が待つのか。下品な国になった。

本来公共施設は行政の担当のはず。それがたかがタイヤ屋の道楽に頼るしかなかったのだ。


それでも現在のような脳が筋肉の輩(やから)が喜ぶスポーツ施設。そんな下品な市民受けを狙った施設よりもはるかにましだ。石橋財団。


そしてここで展示を見た。

漱石や芥川の小説原稿を見た。意外と字はへたくそでぼくのほうがうまい。

だが、気絶するほどの教養の蓄積の中からごくごく一部が結晶して作品になっていることを知った。彼らの天才性と同時に努力に感服した。

人は相手をよく知らないと大抵バカにする。相手をバカにしぐうたらな自分への言い訳を探す。



時々は文豪の遺品に触れ襟を正すことが大事だと思った。



凄いじいちゃんの話と猫だより

2021年04月30日 | 思想
齢80にもなれば車の免許は返納しようかと考える人も多いだろう。

個人的にはそれだけ乗れば十分のように思う。僕自身車の運転がきつくなってきた。

そういう僕の今の状態からさらに20年以上乗ったじいちゃんがつぶやいた。きっと僕ならもう十分だと考えるだろう。

一部の上級国民はクルマで人殺しをしても逮捕されないのでいくつになっても安心して乗れる。この場合だったら車を手放すことはしない。007のように殺しのライセンスがあるのだから何の問題もない。



で、

あるフツーのじいちゃんが肩を落としていったのだ。

「クルマはもうどうしようかな。」

84歳が言うんだから当然に免許の返納を考えていると思ったら、

「レボーグがいいかな。」ということで悩んでいた。

結果的にはもう少しEVの動向を見守ることにされた。


しかし、このファイトはすごいじゃないか。通常の84歳はすでに土に帰っているか、生きているとしても痴呆だろう。

特に男。ありもしない昔の栄光を語るうちに信じ込み、威張り散らすのもいる。そんなことするより、食事の食器一枚でも洗ってみろ、と僕は思うのだ。そんな痴呆が普通だ。


ぼくはお手本ができた。

あと20年生きて、次のクルマを考える。そのファイトを持ち続ける…、なんてできるかどうかはわからないが努力する。このじいちゃんは僕の人生の先生だ。頭も体も限界まで使い切って死ぬ。努力する。がぜんやる気が出た。




こんなだったビビ、



それが今や、

6か月でこんなに大きくなった。


「カラシ」はいつも能天気、

ビビ、カラシ!
どうだい。あと20年生きて一緒にレボーグに乗ろう。気持ちの悪い悪人たちはみんな死んでるはずだ。

ビビ、カラシ! 
一緒に生き抜こう。不愉快な奴は焼き場の煙と消え、おれたちは3人でドライブしようじゃないか、バカの煙を遠めに眺めて。

非難しやすいものを非難する

2020年05月02日 | 思想

なにが自粛だ。どこが自粛だ。満員電車。どうやって2メートル開けろというのか。観光地の渋滞。濃厚接触のないデリヘルはどんな技を使うのか。JKのエンコーは放置する。・・・

一方で、自宅勤務、保育園閉園で家庭内濃厚接触は増している。すると、仕方がないじゃないか、とか、じゃあどうすればいいのかというあほな反論が来る。

ただでさえ収入が減ってカリカリしているときに、能天気にパチンコに殺到する低能を見るとイラっとする人たちは特に絶叫しだす。

 

ちょっとちぐはぐで退化した人間が目に付く。

危機感のないアホが大挙してサーフィンをすることやそこらの河原にキャンプと称してウイルス培養することをこのときとばかり非難しつつ、自宅勤務のうえ学校閉鎖で家庭が過密になる、またはあいかわらずの満員通勤は仕方がないといって見逃す。そうやって感情のままに。怒ったり思考停止したりするとトゲトゲウイルスが満面の笑みをたたえる。

おまいらの狭い濃厚接触部屋はパチンコ屋どころじゃないだろ。

 

 

結論

ぼくらは客観性をなくしてないか。自分の都合で非難したり自己中心になったり、DOUBLE STANDARD。いやいや、ダブルどころではない。その場その場の条件反射で生きていないか。

情報の受け手が能天気である以上、テレビだろうがネットだろうがYOU TUBEだろがすべて「ウケ」狙いの情報があふれてくる。

 

仕方がない。保育園がやってないもん、会社いけないもん、電車混むもん・・・すべて仕方がない時にはウイルスも見逃してくれるんだな。

 

いつから仕方がなくなったんだ。すべて100年前にはなかったことだ。だから発想を変えたとき、または政治意識を変えたとき、道は開けるはずだ。

 

 

おまけ

政府は今日、せめて育児休暇は半分は取りましょうといった。あわれだ。休暇は全部取って当たり前だ。

共稼ぎしないと生きていけない世の中は、仕方がないものではない。日本人が選挙で共稼ぎという仕事中毒社会を選択したからこうなったんだ。

SWEDENの育児休暇は415日ある。産前産後の休暇は別にある。幼稚園に通うまでしっかり家庭で子供を育てる。その間の給料は100%政府が保証する。学校病院タダ。タダ。

SWEDENでは、子供の教育をおろそかにしてまで会社に尽くすことは非常識なのだ。

日本では「仕方がない」という常識だな。教養がないから学校任せ、保育所任せにしようとする。

 

おまけの結論

子供の面倒を見てくれないんですか、とはいかに狂った発言か。ただ、選択の余地なく窮地に立たされた母親に責任はない。こんな流行病で社会が崩壊しようとするシステムにしたのが間違っていたのだ。

世界はいかに自転車操業だったのか。欲望の資本主義の化けの皮がはがれてきた。

かつて子供はお母さんが、おばあちゃんが、…育てた。政治を人任せにするから一部の者があぶく銭をつかむ社会システムになった。あおりで貧乏人は共稼ぎ。

自分の子供ぐらい自分で育てろ。

 

コロナと同じだ。コロナが去るまではコロナ対策に集中しろ。

子育てが終わるまでは子育てに集中しろ。自己実現だなんだとカッコつけて自分のやりたいこと、欲望を正当化するのは親として恥ずかしくないか。ろくな子は育たない。


深海のアンコウ

2020年02月01日 | 思想

市場でペタンコになった姿しか知らないが、実物は真ん丸に太っているようだ。

どうも従来の進化論からだけでは説明がつかない。アンコウの頭の上にあるひらひらはいったい誰が思いついたのだろう。ひらひらにつられて寄ってきた小魚を一網打尽にする。

自分の体の一部がルアーに変化しときに発光し小魚をおびき寄せ捕食する

 

ところでこの姿をしているのは全部メスだそうだ。生まれたアンコウの子供が性転換をして一部がメスになるのか、最初っから一部の個体がメスなのかはわかっていない。しかもオスはメスの数百分の一の大きさだ。

真っ暗な深海でどうやって出会うのか。

その千載一遇の好機を逃さないため、オスはすさまじい行動に出る。メスに食いついて離れないのだ。若い頃のぼくを見るようで哀れでもある。

 

ほんとうにすごいのはここからだ。

食いついていたオスの血管は、やがてメスの血管と一体化する。こうなるとオスの心臓は不要だ。退化し機能を停止する。よく考えると脳もいらない。必要なのは精子製造機能だけ。

完全無欠、究極のひもだ。これもいいなとふと思ったりする。餌の心配はなく心臓も脳も退化。

アンコウの表皮がいやに凸凹してると思ったらそれはオスの究極の姿だった。

しかもメスは何匹でもオスを囲う。

オスとしては食いぱっぐれる心配もなくやりっぱなしの状態で永遠の生を生きる。心臓もやがて鼓動を停止し脳も退化して意識はヤルことに集中する。人間のオスにもいるが、悪い話ではないかな。

 

アンコウを食う時、ここはメスの部分かオスの部分か、意識して食おう。


階段の登り方  3

2019年11月26日 | 思想
人間は弱いのだ。とくに男だったり、若かったり、コンプレックスがあったり、ハンディがあったり・・・

上に例示した中で、ひょっとすると、「男」とか「若さ」が弱みになることに違和感を感じた人もいるだろう。

今回、若さについて。

認めたくないからよく考えてこなかったのだ。若者には怖いものが多い。一人前でありたい、失敗して恥をかくのは嫌だ、まだ知らないことが多い・・・

その怖さを「階段」は見逃さない。地位の階段を上らないと、安心や、満足や、優遇や、充実とかとは縁のない、わが子にすらバカにされる人生になるから、と囁いてくる。

仕事の内容は変わらなくとも、販売員のプレートには店員とか係長とかナントカ試験合格者とか、コレコレ資格保有者とか、しまいには課長補佐だとか、候補だとか、充て(あて)課長だとか。・・・幻なのに。
幻だろ?

世の中は人間を安易に競争に駆り立てるために階段をだんだん小刻みにしてきた。若者は無益な競争に駆り出され、負けきるまで走るのをやめない。

敗北感と徒労感が残る。地位の階段が幻なように敗北自体が幻なのだが、深い劣等感となって一生をさいなむ。


ここで僕の意図を読み違えるバカが必ず出てくる。ぼくが言いたいのはこうだ。
他人が作った階段を必死に登ろうとするあまり、人生の貴重な時間を浪費して大脳皮質を劣化させついには働く意味も価値も目的も見失い、ただ階段を上がろうとする独楽鼠(コマネズミ)に化してしまう、その予備軍が若者であるというのだ。

だから、頑張るなとか、逃げろといつ言ったか。

人の弱みに付け込んで利用しタダ働きを奨励し、幻の階段を上らせて「地位」なるものを獲得したと、あるいは、価値ある人生を過ごしていると錯覚させる社会。そんな人工物に過ぎない「階段」を崇め奉り、一段登るごとにえもいえぬ幸せ感に酔い本質を認めたがらない「弱者」。その弱者には年老いてリタイアするときに何が残ろうか。

分かったうえで競争しろよ。

返す返すも小刻みな階段に劣等感や優越感の根拠を置くなんて、はなはだ情けない。目障りな奴らだ。


資本主義は差別によって成り立っている。システムに埋没して何とか差別できる側に回ろうと、なりふり構わず働き課長というステージにやっと上がった人間は、階段を上るごとに忘れ物をしてる。

おまいらのような下品な人間はいかに出来上がったか。登ってきた階段にひとつづつ置いてきたもの。それは優しさ、温かさ、不公平を怒る心、負けた者への心の痛み、人は利用するものではなく助けるものだということ…つまり人間性。

多分、退職と同時にむなしさに気づく。死ぬしかないな。

ぼくは風呂に入る。
からけんは後ろ姿にも気品が漂う




いろんな人がいるさ、という判断回避

2019年11月17日 | 思想
いい人もいれば悪い人もいよう。 という言葉の先には、だから一つのことで全体を決め込んではいけない、と言いたいようだ。

マヌケだ。 

そんな人は分かったフリをしてこう言う。 ひとつの事件や問題から韓国人全体を決めつけてはいけない、と。

バカ言ってんじゃないよ。 無教養、無思想、判断回避、枯渇した知性と腐敗した正義感が開花したときの発言だ。

書きながら思った。 こんなふうに罵詈雑言を並べるとまるで北朝鮮にいる元気のいいおばちゃんアナウンサーのようだな。

こうも言いたくなるアホ発言は、とくに日本人に多い。何かを主張するでもなく、わかりきったことをさも意味があることのように言う。

足して2で割れば真ん中ですと。


こういう低能に起因する思想は、常に犯罪的だ。

問題のポイントは、その先にあることなのだ。 ガキでもわかることを言って、思考を中断してしまうことだ。だからバカはバカでありつづける。 ぼくは、バカ本人の心配はしない。が、

あの究極の善人、孟子ですらこういった。

「其悪播衆」(その悪を衆に撒く)=(バカがみんなにうつる)

なので犯罪的なのだ。低能という凶器を持つ狂気のバカ。

こういうと、興奮したバカはぼくに対し個人攻撃を始める。プライドだけはあるから、無学の暴走は自分のことと思っていきり立つ。

しかし、ぼくは個人攻撃はされてもしない。人を闇討ちするのは卑怯だ。


さて、いつものように短い本論だ。

電通という会社がある。そうさ、そこにはいい従業員もいれば悪い管理職もいる。だからパワハラで人が自殺してもだれも責任取らなくていいと言いたげなえたり顔のバカが必ず顔を出す。

必要なのは、何が正義であるのかという判断力と、問われればいつでも発言し表現できる勇気だ。

「高橋まつりさん殺人事件」だ。 パワハラ自殺に労災が認められたというどうでもいいことではない。

ここで、一部の人がそうだからと言って電通全体を悪く言うもんじゃない、なんてことを言うことが必然的に人殺しを泳がせることになるのだ。

陳腐な言い草だ。いつ電通全体を悪く言った。ぼくは、人殺しが泳いでいる職場は在ってはいけないといってるだろ。

後ろの赤門が泣いている 高橋まつりさん この会社の狂気はいまだ暴走している いろいろあるさで済ませる人は、共犯者だ

まつりさんの御命日が近づいたので書きました。 僕は仇をとりたいと思います。

One morning I awoke to find I should reset my life.

2019年10月18日 | 思想

散髪にしろ、食事にしろ、旅にしろ、一度気に入るとなぜかそこに通ってしまう。

それはそれで楽しいから、それでよい目にあうのだから、何もあえて見知らぬ床屋で気に入らない刈り方をされる危険を冒すことはない。見知らぬ食堂であえてまずい飯を食うこともない。紅葉がきれいで年中行事のように出かけた山に登るのをやめて、あえて見知らぬ山に登ることもないわけだ。

 

ただそれでは、結果の見えた楽しみしかえられない。

 

年齢に関係なく、わざわざ海外旅行をしてもおなじ場所に行って安心したり懐かしがってる。

ぼくは若いころから、わざとにでも同じことを避ける生き方を良しとしてきた。失敗することが多くてもたまに得難いものに出会うワクワク感に期待していたのだ。

たしかに少し無理をしていた感もある。だが、何年もボロボロになった講義ノートを口述筆記させて飯を食ってるぼんくら教授にだけはなりたくなかったから、納得したうえでの覚悟の「無理」だった。

 

こういった冒険をしない人間の習性は、長年のあいだにDNAに刻まれ続けてきたのだろう。そういいつつもよく考えると、ふと、ぼく自身が軽蔑してきた人間に収まりかえっているではないか。

そんなぐうたら人生観に納まっては、人類は🐵に戻ってしまう。・・・なんて悲壮な義務感ほどはないにしても、この頃ぼくの人生にはたしかにスパイスが足りない。

ウエストと銭だけは着実に増えるが、死なない程度のリセットをしてみることにした。

 

独りぼっちがなんともない人もいれば、さみしがり屋の人もいる。友達を亡くすことを殉死せんばかりに悲しむ人もいる。あるいは、だれでも朋が遠方より来れば、そりゃあ孔子じゃなくてもうれしい。

そこで臆病な話だが、できることからリセットすることにした。住所録をリセットすることから始めた。年賀状、暑中見舞いはもとより出さない。手紙の返事は習慣としてその日のうちに書くが、虚礼は廃止することにしていた。

 

今回は住所録を抹消することにした。どこからでもよかったが、ぼくは知人の半数が韓国人だから、まず韓国関係の人脈を切った。電話からもパソコンからもノートからも。すべて。韓国でコネクションを切ることは本当に死を意味する。

「消去しますか」と、ぼくの迷いを見透かしたようにパソコンが聞いてくる。「はい」をポチッとするときさすがに指に電気ショックがあった。

 

その日はなんかとモヤモヤしていたが、数日後にさわやかな気分がしてきた。

決して終活ではない。終活の逆だ。いわば始活、生活。

長い人生経験によって得られるものは得難いものが多い。多い一方で、消したくてもしつこく思い出す邪魔なものもある。連絡できなくするとはその関係を殺すことである。それを死ぬ準備と考える意気地なしはそもそも生きる価値がない人だ。

賭けに出たのだ。パソコンというスイッチの集合体ですらメモリーに余裕がなくなると動作が遅くなる。「ディスクのクリーンアップ」だ。

 

なんだか脳がパキパキ動き出しそうで楽しい。いろんな残骸で無駄にメモリーを使っていた。

不思議なもんだ。新たな出会いとはあり得ないことだとか、あってもしょうがないことだと考えていたが、それは出会いの問題ではなく出会う僕の脳の活性度の問題だった。

 

さて、次は何を捨てようか。人生の精選をするのだ。終活はぐうたらがする。生活だ。

 

旅行編

その名もThe Beach Hotel. 海雲台(ヘウンデ)のど真ん中で一泊7万円もあれば3千円もある。ただ、部屋は同じ。日本人は「イイね」じゃなくて「言い値」で泊まる。バカにされてるよ。

着いたその日に何人もの人と友達になり、The Beachにとまり、S席で演劇を見た。ほんの数時間前まで福岡の自宅で旅行に行くか行くまいか悩んでいたが、今、知り合ったばかりの人と最前列で劇を見ている。タダで。夢かもと思った。

ちょっと探しにくいがぼくはどこでしょう?

 

眠らない海雲台 町は人生を楽しむ人であふれていた。大事なことは、人と仲良くできる能力だな。

 

相変わらず荒っぽい工事。 塩ビが折れるのは間もなくだ。「ベテランだから安全か?」と横断幕にある。やっつけ仕事の塩ビ管からはすでに下水が漏れはじめていた。

 

この初任給を見ろ、景気はいいぞ

上から目線で同情する日本のリベラルよ、おまいらのほうが貧しいから。

 


学校の意味

2019年08月30日 | 思想

たとえば英語。

バカの言い訳は十年一日だ。「外人と付き合うことないから、英語を話す機会がないから英語の授業は必要ない」とか「何年習ったって会話ひとつできない、役に立たない」。

つまり無駄だというのだ。

こんな屁理屈を言いだす子供の親はたいてい子供と同じ頭脳である。しかし、アホ子と違いその子のアホ親は、学歴社会を身をもって体感し、もはや挽回不可能な位置にいることも実感している。小言は出る。

アホ子にはお説教にしか聞こえないがこう言う。「よか学校に行かんと一生苦労するとよ」

学校の成績が悪いと頭の訓練ができてないから社会はそんな人間に期待しない。牛馬に代わる仕事しか回さない。

 

親子の意見は平行線だ。

子。 「だって英語いらんもん」   親。  「母さんみたいになりたいとね」

 

ポイント

この親子の基礎認識は、じつは共通している。

 

学校の存在理由を目前の実用性で判断している。

 「なぜ古文やらあるとよ、要らんやん。助動詞の活用ば覚えたっちゃ、いつ使うとよ」


ぼくがそのアホ屁理屈をもっと強化してやろう。それを言うならぼくも「根の公式」は卒業以来使ったことがない。ましてやタイムスリップして平安時代に行ったことがないから助動詞の活用を覚えることも無駄だった。F=mαを考えながら運転することもない。

つまるところ学校は無駄なことを覚えるところだ、という。屁理屈はとどまらず、ついには、学校は間違った教育をした、だから学校の成績が悪いのは人間性と関係ない。そもそも成績で人間を判断するなんて間違ってる。・・・

 

こんなことに共感するからアホなのだ。

 

どこまでバカなんだろう。

 

学校というところには、実用性とか、たとえ応用性ですら、一義的に必要なものではないのだ。そんな実生活の些事よりもっと大事なことがあるから学校は存在する。自動車学校とは違うのだ。自動車学校は努力と免許が直結している実用的な学校だ。だが、名前が学校だからと言って混同するのは早計だ。

 

「もっと実用になるのを教えるのが学校だろ」

 こういう考えが蔓延する社会は下品だ。

 

たとえば、ある事象や物事があって、この物事の仕組みはどうなっているのか、と問われたとき、知識で対抗するのは簡単だ。だが感動はない。

 

物事を正しく深く認識したとき、なるほどなあという感動を覚え心が震える。そのとき、その人は少し良い人になる。

なぜなら、ほんとうに仕組みが納得できるにはそのものの歴史を知らなければならない。すると発明発見した人の努力の上にこんな機械や仕組みがあるのだということが分かる。これに感動しないはずない。

 

それが分からないならパスツールがしたことは単なる児童虐待だろう。フランクリンは電気事業法に違反した人か。ニュートンはリンゴが落ちるのを待ってた人か。

お分かりのように、断じて違う。サイエンスの先駆者たちの恩恵がいかに大きいか。いうならば、生活のすべてをサイエンスのおんぶにだっこだ。

当然に科学者に対する尊敬と科学に対する畏怖の念が生じなければならない。

 

何もそこいらのバカを学者にしようとして勉強を強制するのではない。

モノを考えるときの真面目さを育てたいのだ。

 

それでも、そんな頭は不要だという人がいるだろう。その人に言いたい。

そういうあなた自身、人類の文化遺産なくしては一秒も生きられないのだ。ならばその文化遺産に敬意を払うのは当然だろ。あなたがなぜそこにいて何のために生きるのかを知らせてくれる、知る能力が与えられる。そんな素敵な学校という場所に実用性が必要か。

 

現実の学校の実態は、その本質と程遠い。安部の写真を多く載せたら教科書に採用される。現実の制度に欠陥は多い。

だから学校は不要か。違う。だからまともな学校が必要なのだ。

 

 

 

 


ゼニさえあれば

2018年12月30日 | 思想

昨日今日這い上がってきたにわか”小カネ持ち”(コガネモチ)は錯覚している。会社を持ち、たかが100人、200人使っていることが成功の明かしだと。ばか。

そういう人間は、不必要に態度がでかく、横着で、頭が悪く、学がない。

苦労して這い上がるとゼニへの執着が強い。幼少のころ、父親が他人の連帯保証人になって債務を負い家財が差し押さえられたことがトラウマの人たち。あの赤い紙。

だが、子がバカなら親もバカのようだ。この時こそ学問によってしか得られないもう一つの価値観を子に示す絶好の機会だったのに。親は子に、「お前は負けるな」という。つまり同じ道を行けと。

不況の時はこんな奴らは減少する。社会がバカに花を持たせる余裕はないからだ。ところが何をやってもだめだった貧乏人は、教養がなく発想もなく同じことを繰り返しているのだが、ひとたび景気が良くなると雨後の筍のように、あるいはゾンビのように起き上がる。

そこで哀れにも、俺はカネをつかんだ、すなはち幸せだと、、、バカはバカであり続ける。

こういうのはほんの100年前まででも家系をたどれる人は少ない。江戸時代には苗字もなかった人だ。それなりに哀れだが同情はしない。ひとたびカネ回りが良くなった貧乏人が、カネ持ちの皮をかぶると必要以上に威張る。

世の中、カネは必要だという。そうであっても、優先順位が極めて低いものだ。貧乏人には永遠にわからない。彼らは言う。「だっておまんま食えなくなったら終わりだ。家は大きいほど良い。会社は大きくなるほど良い。カネがあれば美人な女房が来る…」 そうした女房のなんとケバイことよ。

「こんな人たち」は、勉強を暗記ごっこと信じ込む。思考することを知らないから、いかに考えることが世界を広めるか、人間らしさを高めるかを分からない。そしてせめても暗記ごっこすらもしない。

にわか金持ちにとってはわずかな富を自慢すること、これしか尺度を持たないから世の中のあまたの価値尺度を知る能力がない。

幸せならそれでいいという自己中。うまいもんを食って、クルーザーに乗って、馬をもって、和歌なんぞひねり教養コンプレックスを隠す。

 

世の中には幸せよりも大事なものがある。それは人それぞれ異なる。多くの異なる価値観があるということ。じゃあ、「こんな人たちのあさましい価値観もあっていいのでは」と思うか。思う人は同類のバカだ。

にわか金持ちの幾重にも屈折した価値観、人生観らしきもの、じつは極めて単純な「悪」だ。「迷惑」。

例 

数年前ぼくのクルーザーが延焼し火事になった。大企業の重役や中堅のトップは心からほかの人の船を心配し自分の船はまったく気にしていなかった。ところが絶叫しながらマリーナや出火元や放火犯や警察に対し泣きじゃくっていたのはにわか小金持ちたちだった。まだ燃えているときに、弁償しろ、補償しろと朝鮮人のようにうるさかった。町医者、背伸びした零細業者、ITまがい、…。

その後の対応もバカは感情的にわめくばかり。声が大きく昔の下積みが顔に出てシミが一挙に増えていた。

一方ぼくは冷静で、合理的で迅速な対応をした、といいたいが正確には本物の人格者つまり本物の関ヶ原以来のブルジョワジーたちのまねをした。正解だ。

 

結論

ゼニがすべての人はゼニにをなくすと死ぬほかない。ゼニなんてなんと無力なことか。

僕らはなくていいものを必需品だと錯覚してないか。

 

 


「障がいは言い訳に過ぎない。負けたら、自分が弱いだけ。」

2018年10月17日 | 思想

最初に、「言葉を書き換えることと差別をしないことは全く関係ない」ことについて書く。

障害者はいつの間にか「障碍者」になりやがて「障がい者」になったようだ。僕は善人ぶって言葉を変えると中身が変わると信じる人たちに敵対したいので障害者という言葉を使う。

言葉を変えて使うことは悪くない。だが世の中には変えたくない人もいる。その人たちをおせっかいにも差別者呼ばわりして、自分は良い子になりたがる知能の低い人間たちが日本に増えてきた。

 

一般論で書くと長くなる。ただでさえ文字を読まない人たちが最後まで読むはずなく、中には読解力がなく興奮する人がいる。僕は「そんな人たち」を介助しない。

 

家のばあちゃんはきわめて頭がよく戦前の女学校では首席だった。最近の学校は席次をつけない。バカ、バカが教員をするから高校まで保育園化する。一番をほめて何が悪い。ビリは屈辱を十分感じるべきだ。でないとバカのくせに一人前の人間だと錯覚して大きな顔をする。形式平等主義になり日本の競争力をそぐ。

母も成績がよく選抜され、新京(満州)に行き愛新覚羅溥儀に拝謁した。頭は丸暗記でごまかす女によくあるタイプで将来性はなかったが、とにかく成績はトップだった。

ばあちゃんは残念なことに目が見えなくなった。しかし戦前の教育は本当に差別なく、容赦なかったが、ばあちゃんはとくに数学においては抜きんでた成績を残した。さらに、ここが大事なところだ。ここまで読む人は一定の理解力のある人だ。期待して書く。

ばあちゃんは退学になった。めくらはいらんそうだ。この厳しさも激しい競争の中にいる日本には必要で妥当な判断だった。

無駄にはならなかった。

僕はめくらのばあちゃんから数学を習い、およそだれにも負けない理解をすることができた。僕はどうしても書かないと問題を解けない。頭の中だけで考えると分かったつもりになるのだ。ぐうたらは手を動かさない。バカの悪循環がおこる。僕はその逆だ。

じゃあばあちゃんはどうして頭の中だけで出来るんだろう。僕は恥ずかしかった。恥を知ることで人間は大人になる。

 

障害者にはだれにでもハンディをやろう、人一倍気を使ってやろう、・・・それが障害者をspoilする。人間は誰でも中国人以外は遠慮とか、謙遜とか、惻隠の情がある。障害があってもそれを持つべきだ。

いいスローガンじゃないか。こんなことに文句を言っていい気になるのは大人の国ではない。

「障がいは言い訳に過ぎない。負けたら、自分が弱いだけ。」

 

寒やぶつかり歩く盲犬(めくらいぬ)     村上鬼城   村上氏も障害をお持ちだ。さあ、差別者として糾弾してみろよ。

 


成功したって失敗したって

2018年10月02日 | 思想

 

送別  王維


下馬飲君酒  馬を下り 君と酒を飲む
問君何所之  君に問ふ いずれの所に行くと
君言不得意  君が言ふ 我が意を得ず
帰臥南山陲  南山の陲(ほとり)に帰りて臥すと
但去莫復問  但だ去れ ふたたび問ふこと莫かれ
白雲無尽時  白雲 尽くること無し  

 

人生には、挫折や失敗や不合格や別れなど、もはや個人の力なんて到底及ばないいろんな壁がある。

自分には越えられない壁を前にすると人は静かになるものだ。「不得意」(希望がかなわなかった)とは科挙に落ちたのだ。

 

 

僕は、「但去莫復問  但(ただ)去れ ふたたび問ふこと莫かれ」が好きだ。「もうやめよう、その話は。さあ、行けよ。」と僕には感じた。

成功も失敗も小さいことなんだよ、という気持ちで「白雲無尽時  白雲 尽くること無し」につながるのだと思う。「後悔なんてそこにとどまる人がするものだ。」

 

 Der Abschied des Freundes     Wang-Wei

Ich stieg vom Pferd und reichte ihm den Trunk
 Des Abschied dar. Ich fragte ihn, wohin
 Und auch warum er reisen wolle. Er
 Sprach mit umflorter Stimme: Du mein Freund,
 Mir war das Glück in dieser Welt nicht hold.
 
 Wohin ich geh? Ich wandre in die Berge,
 Ich suche Ruhe für mein einsam Herz.
 Ich werde nie mehr in die Ferne schweifen, -
 Müd ist mein Fuß, und müd ist meine Seele, -
 Die Erde ist die gleiche überall,
 Und ewig, ewig sind die weißen Wolken....

 

 


 


用之則行、舍之則蔵、

2018年09月29日 | 思想
用之則行、舍之則蔵、

(これを用うれば則ち行い、これを舎つれば(すつれば)則ち蔵る(かくる))

『採用されれば俗世で活躍し、見捨てられれば俗世から(平然と)隠遁する(力は蓄えて)』
主体は採用する側にあるのではなく、自分が泰然と精進することだ。自分がどこにいるか(会社に入るか失業するか)なんて小さい問題だ。そんなこと気にするな。自分の実力を磨き時を待て。

と、述べている。

日本は縄文時代だったというのに当時の中国は偉い。ところが現代の中国の民度の低さと利己主義は国民から政治家まで一貫している。

ともかく、2500年前の内戦の時代。孔子が平和主義を説くのは極めて危険な時代だった。戦時中に「争わない」ことを主張して多くの弟子の尊敬を集めることは至難のことだ。
 
そうであるが故、彼の言葉は。現代まで通用する「重しが効いた」言葉として語り継がれ研究され教えられてきた。
 
現代は戦国時代でも幕末でもないので、いきなり刺殺されることはない。しかし、わが国は治安がいいとされるが、交通事故を忘れている。4000人/年、死んでいるのだ。追い越したらミラーを壊され、高速道路に止められ後続車にひき殺させるのだ。しかも処罰は形式的だ。
 
こんな時代に交通安全天下り協会の掛け声を復唱しても事故は減らない。「あおり運転はやめましょう」そんなこと言っても誰も聞かない。「人殺しはやめましょう」そう言っていたらDENTSUが高橋まつりさんを殺さなかっただろうか。
 
今も戦争だ。仕事も戦争だ。弱者は自己責任を理由に世の中には不要な弱者だとされ、社会的連帯は寸断されてしまった。
 
こんな状況なら重用されるどころか、路傍に放り出されることが多い。
 
それはどんなに隠しても悔しいことだ。耐えねばならない。こんなとき人は変則的な方法でも飛びついてしまう。コネ、カネ、裏口…。たしかに、孔子は、不正に打ち勝つ困難さを認めている。賢くなることよりバカになることが難しい。
 
しかし、あえて馬鹿になれという。
 
 
ここで差が出るのは教養だ。とくに年寄りは教養がないと痴呆になることが多い。こいつらは、何かと昔はどうだったとか嘘で固め、いかにも会社に必要な仕事をしているフリをしたがる。自分の存在理由が欲しいのだ。中国人より始末に悪い。
 
これこそ捨てられた会社にしがみつき守衛でも運転手でもいいからと泣いてすがって会社にいたがる。そのくせ若手には威張りたがる。低級管理職あたりが威張り腐って退職後まで会社に顔出すようなもんだ。
 
舍之則蔵、簡単に見えて困難だ。
 

バカは群れる

2018年09月14日 | 思想

理解不能なことが増えると不安になる。負け犬が安心するためには,傷を舐め合う。

 

群れるのは不安から目を反すためだ。勝負をあきらめたくせに敗北を認めずごみ溜めにこもって硫化水素に酔う。

 

通常、理解不能なことがあると、ひとまずは解こうと努力する。解けるとそれは好循環になり自分で問題を作り解いたりするようになる。好循環だ。

与えられたものすら解かないのがいるが、与えられたものを解いてだけいても一流の理系には行けない。「それがそうならこの時はどうだ?」、といわゆる自学だ。

 

さらにいうと、人類の特徴たる並列計算。Aを説きながら脳のCPUは余った部分を活用していろんな場合を想定し頭のなかで策定した5,6個の問題を解きながら進む。だから同じ問題を同じだけ解いても差が出るのだ。本当に思考している人間に運命の女神がほほ笑むようにできている。

何浪しても合格できないのは、あえて横道にそれて能動的に問題と取り組むことをしないからだ。上から降ってくる問題にどう食いつこうかだけ考える受動的金魚系の人間は本来国の理系には不要だ。金払って医学部いけよ。

 

何を間違えたのか明日は小郡自衛隊展に招待された。ここは有名ではないが歴史的には極めて重要な陸軍基地だ。防衛大学を出たのも何人かいる。

僕はそこらのあほより数学が得意だとうぬぼれていたが、防衛大学の入試問題は実に気合が入っている。お受験組とか学校の補修とか予備校とか・・・人に頼る奴はいい点を取れない。本当に数学というものが分かってないと汚いテクニックでは太刀打ちできない。いいことだ。

合格した者も大した点数は取ってないと思うが、とにかく問題がそこにある限り僕は100点がとりたい。

 

勉強とは本来孤独なものだ。一緒に勉強するなんてままごとは、なんちゃって高校に行くエンコー仲間たちのすることだ。

しかし、ふとしたことで発想が浮かび問題が解決したりするとだんだん面白みが出てくる。ここが大事なところだ。それを繰り返すことは、まじめに一つのことをとことん考える癖を醸成する。

考える癖はまじめさも醸成する。

 

僕は明日が楽しみだ。若い将校たちの澄んだ目が好きだ。僕ぐらいの年にになると濁っている。興味ない。

 

秋の七草はもうたくさんUPされているだろうから。

miffy-dishに料理を乗せたら変質者に思われた。それもよし。

半分凍ったゼリーに種無しを沈めてある。いい発想だ。


劣等感はネトウヨになると解消

2018年06月30日 | 思想

あきらかに幼稚で不勉強で頭が悪い人が、本人はそれと気づかず一人前にわめくことがよくある。


さすがにそんな人と議論はしない。同じレベルの人同士しか議論はできないのだ。


話を具体化する。

伝統だ名誉だブランドだと叫ぶ学校は偏差値が低いところだ。東大や上智が名誉や伝統を絶叫することはない。アホはコンプレックスがあるため、なんとか自分が哀れなところにいるのを隠そうと必死に叫び旗を振り歌を歌う。


そもそも、自分の銭儲けすら満足にできず家族も養えないバカには琴線(触れられたら発狂状態になって手が付けられない)がたくさんある。


久留米大医学部をカネを払って卒業した能無しは医療ミスも仲間内にゴマ化してもらいカルテを書き換え銭儲けに狂奔する

東大理Ⅲと大差ないすさまじい偏差値の九州大学医学部からは、むしろ金儲けが約束されているにもかかわらず国境なき医師団に行く人や中村哲先生のような素晴らしい人が何人も出る。


この負のブランドは一生ついて回り、褒められてもけなされても悔しい思いをする。久留米大学医学部出身なのに立派ねえ、とか、あの先生はカネで開業しとっとよ。(したのよ) 久留米大学やけん。(だから)誤診が多いとよ。・・・

 

ここで賢い人は敷衍(ふえん、他の場合に適切に応用)することを知る。一事が万事なのだ。


あなたの国はいい国か、というおおざっぱな問いには条件をもっと絞らないと答えようがない。玉ねぎはいい野菜かと聞かれたら当惑するだろう。

ところが、韓国人にあなたの国はいい国かと問うと即座にいい国だと答える。答えのない問いにもこたえるからとても賢い。大統領支持率よりも高く80%がいい国だと。

上には上がいるもんで、インドは90%。

アメリカよりベルギーが低くフィンランドは最低だ。劣等感の裏返しは怖い。アントワープの森を散歩したいか、太宰府市民の森、すなはち雑木雑草地を散歩したいか。

 

三流四流の大学生は何かにすがらないとやってられない。一生ついて回る負のブランド。福大なのにがんばったねえ、とか。

旗を振り応援歌を歌い威張って歩き、あげくのはてにどこにも就職できない現実をしばし忘れる。そんな頭悪いのをどうして雇うか。会社はバカに奉仕しているのではない。

 

解決策

鎧で中身をごまかしても顔は出ている。そのあほ顔がすべてを物語る。理Ⅲの顔をしろ。そのためには努力して状況改善せよ。福大ですら司法試験や国家総合職に合格している。

再稼働だ竹島帰せと叫ぶのもいいがおまいらの現実はそれどころではない。このまま行って死ぬまで残業代も出ないガソリンスタンドで犬のように働くか、死ぬまでピザの配達になるぞ。冷静に現実を見ろ、言葉に酔うな。

おまいらは何かに負けている者たちの群れだ。


ここでくたばってたまるかと一念発起してほしい。なあ福大。九大に負けっぱなしでいることこそ改善すべき最初の関門だ。

努力というのは障害が多いほどしやすくなる。僕は期待します。


B29 竹槍で落とすぞ

2018年06月19日 | 思想

小城羊羹の本店前には誇らしげにこの看板が掲げてあった


いくら帝国政府や軍がお粗末だったといっても、太平洋戦争中を通じてずっとこんなバカなことを言い続けていたのではない。ましてや本気で竹槍で10000メートル上空のB29を落とすとかバケツリレーでナパームを消すとか思ったはずはない。現場の低能を別とすれば。

開戦間もなく女学生にも銃の訓練が始まった。しかし物資窮乏はすぐに表れ、無計画で行き当たりばったり、困ったら精神論の帝国は、開戦3か月後に絶対勝てない状況でもがいていた。

一人5発の射撃訓練は3発になり1発になり、ついには一人が撃つのを5人が見学するようになった。

こう書くと勘違い低能無思考のバカが、女学生が銃を持つなんて軍国主義、ましてや戦争は恐ろしい、という発言をまともなつもりで張り上げる。ばか。

そんなら戦争をするな。近代戦は総力戦である。そうでない戦争はない。つまり銃を持てたら兵士である。だから都市に住むあらゆる人間をナパームで殺すのは正当化された。子供を殺しても赤ん坊を殺しても将来の兵士を殺しているのだと。そうして日本人は100万が死んだ。

福岡に平和台という公園がある。戦後野球場ができたりしたが、戦前は練兵場だった。僕の母はそこで銃の訓練を受けた。授業がなくなるのでそれなりに楽しかったそうだが腹が減るのがいやだったそうだ。

だが、やがて訓練では一発も撃たなくなり、着剣して藁人形を突いた。

 

時代は少しずつ変わっていく。だから時代が変化する直前と直後だけしか見ないと、狂っていく時代の流れを見失う。

こんなことして戦争に勝てるか、という至極当然な疑問はあっても口に出せない。一生懸命藁人形を刺すうちに考えない人間になっていく。

 

母の名誉のために書いておくと、福岡の最高の女学校に通う才媛たちがおそまつなバカデマに惑わされるはずはなかった。下士官たちが絶叫するから仕方なくやってただけだ。たまに来る若い少尉にはあこがれたけど。

 

さて現代、

拉致被害者が何人いるのか。860人だと。これも竹やりごっこね。あの貧乏北朝鮮は何のために860人も食わせ続けるのか。スパイはそんなに要りません。日本語教官はそこらの中学生を拉致してもできません。

北が憎いあまり、あるいはミサイルに怯えるあまり、あるいは頭が悪いせいで、竹やりでB29を落とそうとしている。長野県では、ミサイルが来たら頭を抱えてしゃがみましょう、だそうだ。戦時中よりお粗末だ。あるいは、長野県人の頭はマッハ8に耐えるようだ。

頭は考えることでしかよくならない。思考停止で確実に悪くなる。

北が憎いあまり、悪者にすれば自分の票になると信じる安倍。トランプも言うのをやめた「圧力」を世界で一人言い続け、安倍はこともあろうに喧嘩を売っておいて話し合いにつなげようとしているから、もう少し思考力が欲しかったと思う。よい大学教育に出会っていない証左だ。

自分さえ助かればよいとしか考えない国民のおめでたさもさることながら、安倍は憲法改正して国民の権利を制限しようとしているのが明白だ。この国には、安倍万歳を叫んで竹やりを持つアホたちが多い。

いいか、

日朝会談はない。北との主張の隔たりが大きすぎる。日本の放漫財政は戦時賠償のゆとりがない。会談自体が成立しないほうがいいのだ。

韓国も反対する。その会談は万一成功すると市場を日本に盗られるだけだから。

その会談がないと拉致被害者がもし生きているとしても帰す名分が立たない。つまり、帰らない。

 王手飛車取りは相当の失策であり、家族会が政府に首根っこを捕まえられているから可能になった安倍一味の世論操作の成功である。

この状態を何というか。 四面楚歌。安倍が招いた事態だ。今までなら分かれ道があった。もうない