昨日今日這い上がってきたにわか”小カネ持ち”(コガネモチ)は錯覚している。会社を持ち、たかが100人、200人使っていることが成功の明かしだと。ばか。
そういう人間は、不必要に態度がでかく、横着で、頭が悪く、学がない。
苦労して這い上がるとゼニへの執着が強い。幼少のころ、父親が他人の連帯保証人になって債務を負い家財が差し押さえられたことがトラウマの人たち。あの赤い紙。
だが、子がバカなら親もバカのようだ。この時こそ学問によってしか得られないもう一つの価値観を子に示す絶好の機会だったのに。親は子に、「お前は負けるな」という。つまり同じ道を行けと。
不況の時はこんな奴らは減少する。社会がバカに花を持たせる余裕はないからだ。ところが何をやってもだめだった貧乏人は、教養がなく発想もなく同じことを繰り返しているのだが、ひとたび景気が良くなると雨後の筍のように、あるいはゾンビのように起き上がる。
そこで哀れにも、俺はカネをつかんだ、すなはち幸せだと、、、バカはバカであり続ける。
こういうのはほんの100年前まででも家系をたどれる人は少ない。江戸時代には苗字もなかった人だ。それなりに哀れだが同情はしない。ひとたびカネ回りが良くなった貧乏人が、カネ持ちの皮をかぶると必要以上に威張る。
世の中、カネは必要だという。そうであっても、優先順位が極めて低いものだ。貧乏人には永遠にわからない。彼らは言う。「だっておまんま食えなくなったら終わりだ。家は大きいほど良い。会社は大きくなるほど良い。カネがあれば美人な女房が来る…」 そうした女房のなんとケバイことよ。
「こんな人たち」は、勉強を暗記ごっこと信じ込む。思考することを知らないから、いかに考えることが世界を広めるか、人間らしさを高めるかを分からない。そしてせめても暗記ごっこすらもしない。
にわか金持ちにとってはわずかな富を自慢すること、これしか尺度を持たないから世の中のあまたの価値尺度を知る能力がない。
幸せならそれでいいという自己中。うまいもんを食って、クルーザーに乗って、馬をもって、和歌なんぞひねり教養コンプレックスを隠す。
世の中には幸せよりも大事なものがある。それは人それぞれ異なる。多くの異なる価値観があるということ。じゃあ、「こんな人たちのあさましい価値観もあっていいのでは」と思うか。思う人は同類のバカだ。
にわか金持ちの幾重にも屈折した価値観、人生観らしきもの、じつは極めて単純な「悪」だ。「迷惑」。
例
数年前ぼくのクルーザーが延焼し火事になった。大企業の重役や中堅のトップは心からほかの人の船を心配し自分の船はまったく気にしていなかった。ところが絶叫しながらマリーナや出火元や放火犯や警察に対し泣きじゃくっていたのはにわか小金持ちたちだった。まだ燃えているときに、弁償しろ、補償しろと朝鮮人のようにうるさかった。町医者、背伸びした零細業者、ITまがい、…。
その後の対応もバカは感情的にわめくばかり。声が大きく昔の下積みが顔に出てシミが一挙に増えていた。
一方ぼくは冷静で、合理的で迅速な対応をした、といいたいが正確には本物の人格者つまり本物の関ヶ原以来のブルジョワジーたちのまねをした。正解だ。
結論
ゼニがすべての人はゼニにをなくすと死ぬほかない。ゼニなんてなんと無力なことか。
僕らはなくていいものを必需品だと錯覚してないか。