か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

370万人の抗議

2015年01月18日 | 社会・経済

370万人の抗議=========================

フランス紙襲撃テロ事件は、2015年1月7日午前11時半、フランス・パリにある風刺週刊誌を発行している「シャルリー・エブド」本社に覆面をした複数の武装した犯人が押し入り職員を襲撃、警官2人、編集長、風刺漫画の担当記者ら合わせて、12人が死亡した事件。   <Wiki

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抗議のデモは当然だ。デモ行為自体が表現の自由に含まれるものである(フランス人権宣言、Révolution française)。1789年、 民衆がバスチーユを襲い囚人を解放したのを見て、「治安を乱す行為だ」と非難したのは、王党派のみだった。ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)の歌声は、パリの夏の空にこだました。旧体制(Ancien régime)の道徳が霧散したときだ。

国家が表現の自由を認めたり、与えたりするのではない。逆だ。表現の自由が国家を作るのだ。実はこれが民主主義の基本だ。

彼らはデモで鉛筆を高く掲げた。国にお願いしたり反対したりするJaponとか言う国の、デモまがいとは違う。まず表現があり国は後でついてくる。

この考えはパリ市民に脈々と生きているものだ。自由を守れない国なんていらない。日本では多数決だの話し合いだの付属的な民主主義のルールが大きな顔をしている。

それはいけない。本当の民主主義はこうだ。勝手な政治をする王(権力者)は殺害してよい。まさにそれがフランス革命であり、近代フランスの出発点であった。ルイやマリーの首を切りフランスは生まれた。爾後、国家は国民を恐れた。

いかにごまかすかが政策の基準である日本と、世論の動向を最重視するこの国とは成り立ちが異なる。

このようなテロとの戦いは日本では出来ない。警察は、店員4人を殺害してでもなお犯人ひとりを射殺した。民主主義を破壊するものに対する本気度が違うのだ。

みさかいなくフランス絶賛するわけではない。デモ隊の中にあった三色旗はNationalismの台頭を予感させたが、「イスラム教徒は国に帰れ」という声や看板は見聞きしてない。

そこが日本のポンスケ右翼と違うところだ。

口をあけてお上からの施しを待つ貧乏根性の国民は、異質なものを排除しようとして、朝鮮人は朝鮮に帰れという。

イスラム教徒を警官に採用する懐の深い国こそが自由権を主張できる。そもそも朝鮮人の犯罪発生率は高いのか。百歩譲って、高かったら国外追放していいのだな。

さあ、フランスに行ってイスラム教徒を帰国させる運動をしてもらおう。

それは、まぎれもなく旧体制(Ancien régime)への退行である。「人種、信条、性別、社会的身分、門地で差別されない」という14条は、フランス人権宣言が起源だ。それから100年後に生まれたマッカーサーが、オリジナルとして日本に押し付けられるか。これはまた後でじっくり。

パリ大学は人種の坩堝(るつぼ)だ。しかもソルボンヌに行こうがマルセイユに行こうがどこでも授業を受け、好きなところで卒業する。いいことじゃないか。これを壊したらフランスの学問は死ぬ。

誰でも学べるとはつまり、人種を問わずアラブ人も土人も学べるということ。だからわれわれも勉強できるのだ。イスラム教徒を排除したら、とりもなおさず東洋のサルも排除されることになる。


イスラムの跳ね上がりが12人も殺したのに、デモの矛先がイスラム世界に向いてない。日本ではとても無理なことだ。大人の国だ。JJ.Rousseauの社会契約説は小学校で教えている。





 


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