か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

経済の維持とコロナ対策の両立

2020年04月24日 | 社会・経済

70年代、公害が日本全土を覆い都市部では星が消え月さえかすんだ。

アポロ宇宙船から日本を眺めると灰色のばい煙が日本上空の成層圏を覆っていた。交通警官は車の排ガスによって呼吸困難に陥り酸素マスクが必要だった。

多くの奇形児は工場排水が原因であったにもかかわらず、因果関係を庶民たる被害者が立証することはできず汚染者責任の原則は工業国で最も遅く成立した。利益の追求の前にはすべてが無力だった。

それは今の中国どころではなかったのに、支配的な論調は企業が生産しないことにはみんな死ぬぞ、という経済優先の論理だった。

こんななか、公害反対を唱えようものなら田舎では「アカ」呼ばわりされ、仕事を奪う非国民だとされた。

 

そんなとき、国ぐるみで唱えられたのは「経済と環境の調和」であった。両者は車の両輪に例えられた。

これは自民党や財界の主たる主張であったのだが、よく読むと経済のためのはある程度の奇形児は生まれてよい、小児喘息は仕方がないということに他ならない。

恐ろしいものだ。

そんな調和はあってはならない。健全な環境のもと発展は許されるものだという常識が通用しなかった時代を忘れてはならない。銭を欲しがる近視眼的チンピラ経営者の走狗と化した無責任政党が列島をばい煙、騒音、水質汚濁、大気汚染、地盤沈下、悪臭の島に変えた。

 

今回、再び健康(環境、生命)と経済がその優先度を争っている。

たしかに、経済優先を唱える人も健康を無視しているわけではない。家賃が払えず一家が路頭に迷うのに政府は家にいろ、stay home なんて悠長なことを言う、一銭も補償を受け取ってないという現実があるのに、可能性としてのコロナ罹患のため座して死を待てというのか、という理屈だ。

ちょうどその昔、毒を排水に流して奇形児を生ませておきながら、巧妙な会社は労働組合に金をつかませ、被害者団体を力で封じ込めた。

その時の会社の言い分は貧乏人に共感を生んだ。

「会社の生産が停滞したらおまいらは職を失うぞ、水俣病は風土病だ、言いがかりをつけずるい人間と赤がグルになり会社の金を盗ろうとしている」

現在でも水俣ではこれが通説である。

ぼくも小学校で水俣病は風土病と習った。そのころから、否、じつは戦前から会社こそが自社の有機水銀が水俣病の原因であることを知っていた。

 

 

正義と悪魔は車の両輪になりえない。資本主義は存在しなくとも人は発展してきた。日本の資本主義の歴史は100年にすぎない。日本の歴史は2000年ある。

銭儲けが生きる手段であるという現実があるからといっても、生きるための必須の要件として銭儲けがあるのではない。

今、焦眉の課題は命の保全なのである。

 

例えば、人は息をしないと死ぬ。だからといって溺れている人は1分や2分なら息を止めていたほうが良いのだ。たとえ1分でも今までと同じように水中に没しながら息をしたらかえって死ぬ。

今は息を止めてでも水から出ることに集中すべきだ。

従前どおりの銭儲けに拘泥する時ではない。

 



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