伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社で、稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮
とされます。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域といたします。商売繁盛を祈願する方々が全国からお参りに
訪れ、毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集めます。
708〜715年(一説には711年2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つ
の峯にそれぞれの神を祀ったことに始まるそうです。
楼門 この建物は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきました。秀吉の母大政所殿の病悩平癒祈願が成就す
れば一万石奉加する、と記したいわゆる“命乞いの願文”が伝来しています。
明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷
神社」となりましたが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となり「伏見稲荷大社」と改称しま
した。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良
好であるとあります。伏見稲荷大社の神札は、一社式の神棚(稲荷宮)で祀り、神宮大麻(伊勢神宮の神札)とは独立した
神棚に祀るように推奨されております。
楼門を入り本殿との間にある拝殿
本殿 現在の本殿は、応仁の乱で焼失した後に明応8年(1499)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されてお
ります。 本殿では受付で祈祷の申し込みをされた方々が順次祈祷を受けておられます。
本殿に向かって右側にある神楽殿
本殿から振り返った拝殿
本殿を左手に進みますと権殿、奥宮へと続きます。
奥宮と左手に白狐社
奥宮右手の千本鳥居の入り口
稲荷山には信者から奉納された約一万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭
い間隔で多数建てられ名所となっており鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まったもの
だそうです。
奥社奉拝所
大きい鳥居は中々奉納出来ませんが、手軽な小さい鳥居の奉納も受け付けておられます。
奉拝所の裏手にある「おもかる石」灯篭の上の石を持ち上げ、予想の重たさより軽く感じたら願い事が叶うといわれてお
り、重く感じれば叶わないということになります。
奉拝所より更に鳥居が続きます。
稲荷山には、無数の石碑(その数、一万基、あるいはそれ以上とも言われる)が存在し、「お塚」と呼ばれております。
各石碑には「白狐大神」や「白龍大神」などといった神名が記されており、参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて
「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおられ、日本で神仏分離が行われる前の信仰(→神仏習合)が今でも
保たれているのを見ることができます。
熊鷹社の裏手に広がる新池 朱の玉垣の向こうに緑の山影を映す池は新池、谺ケ池(こだまがいけ)との別称がありま
す。行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりがつかめると
云う言い伝えがあります。
池に突き出た石積みに拝所が設けられ、熊鷹大神(火焚祭11月17日)の御塚が鎮まっています。
熊鷹社
途中にある茶店 大正初期の時計だそうです。
あと一息で見晴らしの良い四つ辻に出ます。
前方に、伏見区から南区、向うの山は西山で麓に洛西ニュータウンが広がっております。
地図にありますようにまだまだ先は続いておりますが、時間の関係で茶店で休憩して帰路につきます。次回は是非すべ
て回りたいと思います。 この鳥居は時計回りのルートの入り口です。
茶店のあるほうは、左回りの入り口です。
とりあえず、稲荷山できつねうどんです。 稲荷寿司ももちろんありました。
帰り道の鳥居には、奉納された方の会社名、住所、年月日が刻まれております。住所を見ておりますと関西を中心に全
国の方が奉納されておられました。
三の辻まで戻ったところで、奥宮方面に戻らずに別ルートで戻って行きました。
朱色の世界から、景色が一変しとても新鮮に感じられました。
八島池に流れ込む川に架かる十石橋
十石橋を渡り、玉山稲荷の手前で境内で初めて狛犬を発見いました。
玉山稲荷と納札所の前に向うから、長者社・荷田社・末社五産・両宮社と四社が並んでおります。
四社の手前の縁起物を扱う露店
神棚や神具・商売繁盛の熊手や箕を扱っているお店です。
不景気なご時勢、思わず神頼みしたくなる方も多数居られると思います。 この日から十日恵比寿が12日まで開かれま
すので、後日神頼みのはしごをしてまいります。 もちろん祇園の地元の八坂さんにも参ります。
ブログの成分解析を行っておりますので、クリックにご協力をお願いいたします。
とされます。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域といたします。商売繁盛を祈願する方々が全国からお参りに
訪れ、毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集めます。
708〜715年(一説には711年2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つ
の峯にそれぞれの神を祀ったことに始まるそうです。
楼門 この建物は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきました。秀吉の母大政所殿の病悩平癒祈願が成就す
れば一万石奉加する、と記したいわゆる“命乞いの願文”が伝来しています。
明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷
神社」となりましたが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となり「伏見稲荷大社」と改称しま
した。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良
好であるとあります。伏見稲荷大社の神札は、一社式の神棚(稲荷宮)で祀り、神宮大麻(伊勢神宮の神札)とは独立した
神棚に祀るように推奨されております。
楼門を入り本殿との間にある拝殿
本殿 現在の本殿は、応仁の乱で焼失した後に明応8年(1499)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されてお
ります。 本殿では受付で祈祷の申し込みをされた方々が順次祈祷を受けておられます。
本殿に向かって右側にある神楽殿
本殿から振り返った拝殿
本殿を左手に進みますと権殿、奥宮へと続きます。
奥宮と左手に白狐社
奥宮右手の千本鳥居の入り口
稲荷山には信者から奉納された約一万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭
い間隔で多数建てられ名所となっており鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まったもの
だそうです。
奥社奉拝所
大きい鳥居は中々奉納出来ませんが、手軽な小さい鳥居の奉納も受け付けておられます。
奉拝所の裏手にある「おもかる石」灯篭の上の石を持ち上げ、予想の重たさより軽く感じたら願い事が叶うといわれてお
り、重く感じれば叶わないということになります。
奉拝所より更に鳥居が続きます。
稲荷山には、無数の石碑(その数、一万基、あるいはそれ以上とも言われる)が存在し、「お塚」と呼ばれております。
各石碑には「白狐大神」や「白龍大神」などといった神名が記されており、参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて
「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおられ、日本で神仏分離が行われる前の信仰(→神仏習合)が今でも
保たれているのを見ることができます。
熊鷹社の裏手に広がる新池 朱の玉垣の向こうに緑の山影を映す池は新池、谺ケ池(こだまがいけ)との別称がありま
す。行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりがつかめると
云う言い伝えがあります。
池に突き出た石積みに拝所が設けられ、熊鷹大神(火焚祭11月17日)の御塚が鎮まっています。
熊鷹社
途中にある茶店 大正初期の時計だそうです。
あと一息で見晴らしの良い四つ辻に出ます。
前方に、伏見区から南区、向うの山は西山で麓に洛西ニュータウンが広がっております。
地図にありますようにまだまだ先は続いておりますが、時間の関係で茶店で休憩して帰路につきます。次回は是非すべ
て回りたいと思います。 この鳥居は時計回りのルートの入り口です。
茶店のあるほうは、左回りの入り口です。
とりあえず、稲荷山できつねうどんです。 稲荷寿司ももちろんありました。
帰り道の鳥居には、奉納された方の会社名、住所、年月日が刻まれております。住所を見ておりますと関西を中心に全
国の方が奉納されておられました。
三の辻まで戻ったところで、奥宮方面に戻らずに別ルートで戻って行きました。
朱色の世界から、景色が一変しとても新鮮に感じられました。
八島池に流れ込む川に架かる十石橋
十石橋を渡り、玉山稲荷の手前で境内で初めて狛犬を発見いました。
玉山稲荷と納札所の前に向うから、長者社・荷田社・末社五産・両宮社と四社が並んでおります。
四社の手前の縁起物を扱う露店
神棚や神具・商売繁盛の熊手や箕を扱っているお店です。
不景気なご時勢、思わず神頼みしたくなる方も多数居られると思います。 この日から十日恵比寿が12日まで開かれま
すので、後日神頼みのはしごをしてまいります。 もちろん祇園の地元の八坂さんにも参ります。
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