岡崎の動物園の疎水を挟んで南側に位置する無鄰菴庭園は、明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて明治・大正の元老である山県有朋(
やまがた ありとも)が京都に造営した別荘です。その名は、有朋が長州(山口県)に建てた草庵が隣家のない閑静な場所であったことから名付けら
れたといいます。
その後、有朋は京都の木屋町二条に別荘を構え、無鄰菴と号しましたが、さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え、明治27年(1894)現在の
地で無鄰菴の造営にとりかかりました。工事は日清戦争の勃発により一時中断しましたが、翌年2月から本格的な工事を再開し、明治29年(1896)に
完成しました。 有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し、多忙な公的生活の合間にも夫人を伴ってしばしば訪れましたが、その後大正11年(1922)に8
3歳でこの世を去っています。
玄関を入り受け付けは、左手奥にあります。
拝観受付を済ませ、小さな庭園入口の潜戸を入ります。
左手に母屋があり、庭園内を廻ることが出来ます。 右手は「無鄰菴会議」が開かれた洋館です。
敷地の大半を占める庭園(面積約3,135平方メートル)は、有朋自らの設計・監督により、平安神宮の神苑などを手掛けた造園家・小川治兵衛(おがわ
じへえ)が作庭したもので、ゆるやかな傾斜地に、東山を借景とし、疏水の水をとり入れ三段の滝・池・芝生を配した池泉廻遊式庭園です。
母屋の小川をはさんだ南側には、藪内流燕庵写しの茶室が建ちます。
山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動
きがあったと云われており、この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を
命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされました。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられ、琵琶湖からこの地に至る
琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工すると、京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っ
ておりました。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となり、無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを
引き受けることとなったと説明されております。
庭園の東端には、池の源泉になる琵琶湖疏水を引き込んだ、滝があります。
庭園は、池を一周するのではなく、滝の所で引き返すように散策路が出来ております。
茶室東側の蹲踞
茶室西側
母屋二階と茶室は、事前の申し込みがあれば、借りることが出来るそうです。 詳しくは電話でお尋ねください。 075-771-3909
二階建ての洋館の1階は展示室となっており、山縣氏の功績や小川冶兵衛氏の作庭した庭の写真などが展示されております。
山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日ー 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)から、明治維新を経て陸軍軍人、政治家
として活躍した人物で、階級は元帥陸軍大将、位階は従一位、勲等は大勲位となっております。功級は功一級、爵位は公爵、内務大臣(初・第2・第
3代)内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)な
どを歴任いたしました。 長州藩領内の蔵元仲間三郎有稔(ありとし)の子として生まれ、幼少の頃より改名を重ね、明治維新後は有朋の名を称しまし
た。 高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となり、明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築い
て「国軍の父」とも称されるようになりました。国政に深く関与するようになってからも「わしは一介の武弁」と称するのが常であり、官僚制度の確立に
も精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成し山縣が軍部・政官界に築いた幅
広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称されまでになりました。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保
ち、「日本軍閥の祖」の異名をとり、伊藤博文とならび明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物です。
七代小川 治兵衛(おがわ じへえ、1860年5月25日ー 昭和8年(1933年)12月2日)は、近代日本庭園の先駆者
とされる作庭家、庭師で、通称植治(屋号)の名で有名です。 中興の七代目小川治兵衞は源之助といい、山城
国乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)生まれで、明治10年(1877年)に宝暦年間より続く植木屋治兵衛で
ある小川植治の養子になり、明治12年(1879年)に七代目小川治兵衛を襲名いたしました。
植治は、明治初期、京都東山・南禅寺界隈に新たに形成された別荘地において、東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群
(南禅寺界隈疏水園池群)を手掛けたことで名高く、琵琶湖疏水は計画段階では工業動力としての水車に用いることが期待されていたものの、その後、
工業動力としては水力発電が採用され、明治23年(1890)に疏水が完成した時には水車用水としての用途はなくなっておりました。明治27年、植治
は並河靖之邸の七宝焼き工房に研磨用として引きこんだ疏水を庭園に引き、次いで山縣有朋の求めに応じて、庭園用を主目的として疏水を引きこん
だ無鄰菴の作庭を行い、これを草分けとして、植治は自然の景観と躍動的な水の流れをくみこんだ自然主義的な近代日本庭園を数多く手がけて、それ
らを設計段階から資材調達、施工、維持管理まで総合的に引き受けていきました。
植治の手掛けた庭園は数多く、平安神宮・円山公園・無鄰庵(山縣有朋公邸)・清風荘(西園寺公望公邸)・対龍山荘(市田弥一郎邸)・等国指定名勝
指定庭園の作庭をはじめ、さらに古河庭園、平安神宮、京都博物館前庭、野村碧雲荘などや住友家(有芳園・茶臼山邸・鰻谷邸・住吉・東京市兵町邸)
・三井家・岩崎家・細川家等数多くの名庭を残し、そのほかにも京都御苑と御苑内御所・修学院離宮・桂離宮・二条城・清水寺・南禅寺・妙心寺・法然院
・青蓮院・仁和寺等の作庭および修景も手がけました。
植治の屋号は現在に至るまで代々「小川治兵衞」の名前を受け継いでおり、とくに写真にある7代目の作庭は有名であるが、しかし実際には、7代目
作とされる庭も8代目、9代目により製作されたものもあり、混同されているまま現在に伝わっている点もあります。当時は、京都御所、桂離宮、二条城
や市内街路樹などの手入れも植治で行い、東京の岩崎邸の修景なども手掛けております。
この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられたそうで、日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」
が行われました。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎でした。
当時、ロシアは強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめており、 桂は、ロシアの満州における権利は認めても、
朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊
藤と山縣から取り付けようとしたのがこの会議です。
この時桂は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤と山縣から同意をとりつけ、以下はその時の「対露方針四個條」です。
この後、この「満韓交換論」に基づく対露直接交渉の方針は、山縣、伊藤、大山、松方、井上に、桂首相、下村外相、山本海相、寺内陸相が出席した
6月23日の御前会議に提出され、上の方針に基づいて対露交渉に臨むことが確認されました。国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まり
つつありましたが、元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争という破局を避けようと模索していたとあります。
車でお越しの方は、無鄰菴南側にある京都市国際交流会館の駐車場が一番近くて便利だと思います。
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