従姉妹夫婦が来てくれたので、彼女たちのリクエストで大原を案内して来ました。
寂光院は天台宗の尼寺で、山号を清香山、寺号を玉泉寺といい、寂光院は玉泉寺の子院であり推古2(594)年に、聖徳太子が御父用明天皇の菩提
を弔うために建立されたと伝えられております。
菊の御門の刻まれた門を進みますと芽吹き始めた新緑が迎えてくれます。
山門までの中腹に建つ「狐雲 茶室」
京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材が寂光院に下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年3月に千宗室宗匠を
たのみて献茶式を催し茶室開きを行ったものである。
「孤雲」の名のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥
かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」と
いう女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなんでおります。
狐雲茶室の向かい側に建つ「
平成18年秋に寂光院の復興を記念して建てられた宝物殿は、 寂光院に伝来する『平家物語』ゆかりの文化財等を紹介しており、一角にミュー
ジアムショップも併設されております。
山門と正面に建つ本堂
本堂の右手に建つ書院
雪見灯篭 本堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠で、豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝えられており宝
珠、笠、火袋、脚から形成されております。 火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間
(ごうざま)の煙出とし、円形台下に猫足三脚が付いております。
本堂 山門の正面に建つ本堂には、当初の本尊として、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊がまつられておりましたが、鎌倉時代に制作さ
れた旧本尊(重要文化財)は、平成12年(2000)5月9日未明に発生した不慮の放火により焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院に
よって修復されて、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された色白の地蔵菩薩像が本堂に安置されております。
境内の中央には、八重桜が満開を迎えておりました。
本堂と書院を結ぶ渡り廊下 四方正面の池 本堂の東側にある池で、北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設け、 池
の四方は回遊出来るように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されお
ります。
本堂の左手の西門を出ますと神明神社の鳥居が建つております。
文治元年(1185)長門壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあと、建礼門院はひとり助けられて京都に連れ戻され、その年の9月、都を遠く離れた洛北の
地大原寂光院に閑居いたしました。 本堂の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡があり 翌2年の春、女院のもとを訪れた後白河法皇
がご覧になった御庵室の様子は、「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で、「来る
人まれなる所」であったと云われておりました。 御庵室跡の右手奥に、門院が使用したという井戸が残ります。
女院は夫高倉天皇とわが子安徳天皇および平家一門の菩提を弔う余生を送りつつ、建久2年(1191)2月中旬この地でその生涯を閉じました。
境内の西側に建つ「諸行無常の鐘楼」 本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かって
おり、 鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683-1753)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘が刻まれております。時の住持は本誉龍雄智法
尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶であったそうです。 鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次と伝わります。
山門の西側に宝物殿への階段があります。
ヤマブキだと思います。
まだ開く前のモミジの新芽
トキワマンサクと三千院方向