京都市内から五条通りを山科に抜け、勧修寺に向かう途中にある大石神社は昭和十年赤穂義士大石内蔵助良雄の義挙を顕彰するため大石内蔵助
良雄公をご祭神として、大石隠棲の地に京都府知事を会長とする大石神社建設会、山科義士会、また、当時浪曲界の重鎮であった吉田大和之丞 (奈
良丸) を会長とするもの等の団体が組織され、全国の崇敬者により創建されました。
元禄十四年 (一七〇一) 三月、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城内松の廊下において、吉良上野介義央に対し刃傷におよび、内匠頭は即日切腹、
御家断絶、領地没収となり、赤穂藩の城代家老大石内蔵助良雄は城明け渡しの後、同年六月二十八日、以前からこの付近の田地、屋敷を持っていた
親類の進藤源四郎の世話でこの地に移り住ました。
閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で、事件の善後策を講じるのに何かと便利であり、この地でしばしば同志の会合を開いていたとつたわりま
す。また、敵の目を欺くため、伏見撞木町、祇園一力亭などで遊興にふけり、はじめは、はやる同志をおさえて、亡主内匠頭の弟大学長広をたてて主
家の再興を謀りましたが、しかし、翌、元禄十五年夏、結局再興は許されず、吉良邸討入りに方針を固め、同志は密かに江戸へ集まる事となりました。
元禄十五年十二月十四日、大石内蔵助良雄以下四十七士は吉良邸へ、表門には、大石内蔵助を頭として片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは、
大石主税を頭とし堀部安兵衛ら二十三名、両門より襲撃し、六時頃本懐を遂げ、その後四十七士は、泉岳寺の長矩の墓前に、その御首を捧げ復讐
の報告をすませました。翌、十六年二月四日、細川・松平・毛利・水野四候家にて預かりの身となっていた浪士は切腹を言い渡され自刀することとなり
ました。 明治天皇が 「百世の下感奮興起せしむ」 と仰せられたその義挙と誠忠は今日に到っても広く熟知され、そのご神徳 (大願成就) を心に秘
めて、討入りの十二月十四日の義士行列等の義士祭はもとより、一年をとうして全国より多数の参拝者が訪れます。
境内に入りますと、可愛らしいポニーの桃ちゃんが迎えてくれます。
御神木の大石桜と名付けられた枝垂れ桜
本殿
本殿の左手に建つ義人社 赤穂義士討入りに際し、必要な武器を調達した 大阪の本町橋に店をかまえ北組惣年寄の大阪の豪商の天野屋利兵衛
を祀り、「商売の神様」 と言われたことから、現在も (商売繁盛)の信仰があつい社です。「天野屋利兵衛は、男でござる。」 の名ゼリフは有名です。
御神木 大石桜 (しだれ桜) 昭和八年より、大石良雄公山科隠棲の地に大石神社が建設されるにあたり、その地に生育していた「しだれ桜」を整備
の終えた境内に定植させ、昭和十年御鎮座にあわせ、御神木といたしました。戦後、その美しさは参拝者や地域の人々に愛され、親しまれ、「大石桜」
と呼ばれるようになり、京都でも有数の桜として満開の季節には多くの参拝者で賑わっております。 毎年四月の第一日曜日には「さくら祭」が催され、
満開の桜の下、お茶席などがもうけられ、陽春の日差しの中で一日が流れていきます。
宝物殿 大石内蔵助良雄 書の他、小野寺十内秀和 書、大原源吾忠雄 書、中村勘助正辰 書、山科隠棲宅欄間片、浅野内匠頭長矩肖像画 義
士四十七士図 表門 裏門 三幅軸 (享保十四年) 忠臣蔵横幟 鳥居家 鳥山人画 (天保十三年) 四十七士図 屏風 三井高桝画 大網宗彦賛
(安政二年) 堂本印象 画 山桜図陶板 (御帳台天井奉納) 狛犬 楠部彌弌作 台 堂本漆軒 作 (昭和十三年奉納) 吉田大和之丞(奈良丸)
画 富士の図衝立 東映歴代大石内蔵助役 俳優写真 などが展示されております。
駐車場は結構なスペースがあり30台程度は、駐車出来そうでした。
地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.47.58.479N34.57.59.884&ZM=9