《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

法隆寺と太子「三経院と西堂」

2009年12月31日 | Weblog
回廊の西側にある南北に長い建物の手前が三経院。法隆寺が衰えていた明治12年からここに東本願寺の説教所があった。親鸞聖人が聖徳太子を和国の教主と崇めていたので、法隆寺の復興のため説教所を開いた。一時は参拝者が多く収容しきれない時代もあった。建物の北側は西院とよばれ東院と同じく僧坊だった。今では区切りはなく大広間となり、太子の遺言どおり5月16日から90日間三経の説法が行われているが昔は盛大であったが今では大広間に2,3人というときもあるらしい。
(今日の歴史=1945年GHQが修身、日本歴史、地理の授業停止を指令する)

法隆寺と太子「中宮寺」

2009年12月30日 | Weblog
中宮寺は飛鳥の尼寺(向原寺)を引き継ぐ斑鳩尼寺として、太子の母「穴穂部間人皇后」の御願により法隆寺とは対照的な位置に創建された。創建当時の場所は今の場所より東へ約500メートルの位置にあった。平安時代以降衰退し、本尊如意輪観音菩薩半跏像以外の宝物のほとんどは法隆寺に移された。現在のお堂は昭和43年5月に高松宮妃殿下の御発願により落慶したもの。
(今日の歴史=1946年6・3・3制教育制度を決定)

法隆寺と太子「不閉門」

2009年12月29日 | Weblog
江戸時代の建物で夢殿の西の境界にあり不開門の西にある門。昔は門番がいて時刻を決めて開け閉めをしていたが、村人が往来するので便宜上開けっ放しとなり何時しか不閉門(しめずのもん)と呼ばれるようになった。当時は画像右奥へ続くアスファルトの道はなかったのだろう。
(今日の歴史=1929年清水トンネル9702キロ『上越線』が開通)

法隆寺と太子「不明門」

2009年12月28日 | Weblog
室町時代の建物で不明門(あけずのもん)と云う。夢殿の正門の門のことで、南門とも呼ばれている。この門が夢殿の正門である。現在拝観するとき出入りしている門は西門になり、夢殿の横から出入りしていることになる。かつて南門には推古天皇の直筆の勅額が掛かっていたことから、おそれおおく一般の通行を許されなかった。それを何時の頃からか不明門(あけずのもん)と呼ばれるようになった。直筆の勅額は現在東京国立博物館に収納されている。
(今日の歴史=ドイツの物理学者レントゲンがX線を発見)

法隆寺と太子「夢殿の鐘楼」

2009年12月25日 | Weblog
夢殿を出たところにある鐘楼。鎌倉時代の建物で袴腰に板が張ってありこの形式のものとしては最も古い云われている。吊るされている鐘には「中宮寺」と刻印されているが、この鐘はめったに撞かれる事はない。
(今日の歴史=1869年東京と横浜間の電信が開通)