歴史をたどるとこの巨石は元々はこの場所ではなく、
興福寺の子院であった宝蔵院(ほうぞういん)にあり、
そこで丁寧に祀られていたもので、
現在の位置で言うところの「奈良国立博物館」周辺に置かれていました。
ちなみに「摩利支天」とは、「陽炎(かげろう)」を神格化したものであるため、
その「隠れ身」の性質から武士を中心に深い信仰を集めた存在となっています
(奈良まちあるき風景紀行より抜粋)
今日の暦:昭和33(1958)年、アメリカが第1号人工衛星の打ち上げに成功。
歴史をたどるとこの巨石は元々はこの場所ではなく、
興福寺の子院であった宝蔵院(ほうぞういん)にあり、
そこで丁寧に祀られていたもので、
現在の位置で言うところの「奈良国立博物館」周辺に置かれていました。
ちなみに「摩利支天」とは、「陽炎(かげろう)」を神格化したものであるため、
その「隠れ身」の性質から武士を中心に深い信仰を集めた存在となっています
(奈良まちあるき風景紀行より抜粋)
今日の暦:昭和33(1958)年、アメリカが第1号人工衛星の打ち上げに成功。
「…歴史的なもの、伝統的なものは金銭で買えるものではなく、
一度失えばその代替はない。奈良千年の本質的な価値を損なわずに、
その光を見ていただくことが重要なのである…」。
(森下惠介著「今昔奈良名所"あとがき"より抜粋)
奈良時代の僧、玄昉(げんぼう)僧正の首塚と言い伝えられきた。
筑紫観世音寺に流された玄昉は藤原広嗣の怨霊にさらわれ、その体は引き裂かれ、
頭が落ちた地が頭塔、目と眉が落ちたのが、眉目塚(びもくづか)、
腕(かいな)が落ちたのが肘塚(かいなつか)、
胴が落ちたのが胴塚と言い伝えた。
1辺32~33㍍、高さ約7㍍、7段の階段ピラミッド状の構造をした奈良時代の土塔で、
5層の瓦葺屋根を持ち、各面の一段目に5体、三段目に3体、五段目に2体、
七段目に1体の石仏を据えたものであることが明らかになっている。
今日の暦:昭和32(1957)年、南極観測隊がオングル島に上陸(昭和基地)
元興寺は日本最初の本格寺院とっして建立された
飛鳥寺(法興寺)を平城京に移したもので、
周辺は奈良の飛鳥と呼ばれ、元興寺禅定院の地にあった興福寺大乗院は、
江戸時代には「飛鳥御殿」と通称されていた。
塔は五重塔で基壇の鎮壇具として神功開寶が出土していることから、
奈良時代後半の造立であることが分かる。
高さ24丈(72㍍)というこの塔は
安政6(1859)年2月28日夜の火事で観音堂と共に失われ、
現在はその基壇と礎石が芝新屋町の元興寺に残る。
隣接する下駄屋の焚火の不始末で、鉋屑(かんなくず)が
修理中の瓦を降ろした塔の上層屋根に落ち、
炎上した可能性が高いようだ。
塔はロウソクの燃えるように上層から燃え、上からだんだんと焼け、
倒れることもなく類焼も少なかったと言う話が伝わる。
今日の暦:貞享2(1685)年、将軍綱吉が生類憐みの令を出す。