《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

洲本城跡の石垣を視る「本丸への大石段」

2017年04月30日 | Weblog

本丸南の虎口へと通じる高い石垣と幅広い石段。存在感のある場所だ。
この大石段から本丸へ通じている虎口の石垣は立派で、個人的には特に気に入った場所のひとつ。
大石段を始めこの周辺の石垣は、脇坂安治の後半期の改築後のものとの見方がある。


洲本城跡の石垣を視る「足先がかからない石垣」

2017年04月27日 | Weblog

近年に修復されたのか綺麗に「打ち込み接(は)ぎ」が復元されているようだ。
石の隙間を少なくし、空いた隙間にも小さな間石(あいいし)をかませる
「打ち込み接ぎ乱積み」は野面積みより登りにくい。
戦国時代後半以降に多くみられる。
隅石に石を割った「矢」の跡があるが、
矢跡の幅からある程度の時代の判別が出来ると聞いたことがあるが…。
安土城や観音寺城跡などと比べるとずいぶん進化しているようだ。


洲本城跡の石垣を視る「継ぎ足された石垣は…」

2017年04月26日 | Weblog

継ぎ足された跡が木と木の間にに見える「南の丸櫓跡」の石垣。
継ぎ足された石垣は一段高くなっている。
大手門からの攻め手の防御のために広げ、一段高くして櫓を置いたのだろうか。
両方とも同じような隅石を含め乱積みに見えるので、
築城の早い段階で「拡張」されたようだ。
だとすれば最初の縄張りの「失敗かっ」と勝手におもってみる。


登り石垣について

2017年04月23日 | Weblog

天正13(1585)年、脇坂安治が石垣を大改修した際、登り石垣を設けている。
洲本市立資料館から急坂を上るとこと約10分、木立の中に高さ2㍍余りの「西の登り石垣」がある。
仙石久秀や脇坂安治によって築かれた、全国的にも希少な天正期や文禄・慶長初期の石垣。
この時期の築城として、米子城跡は吉川広家が朝鮮に出兵し、
天正19(1591)年に帰国しておりその後に築いたとおもわれる。
2017年4月の産経ニュースによると、長さ約40㍍、高さは3㍍以上。長さは約100㍍以上だった可能性があるという。
瓦が出土していることから、石垣の上に塀なども立っていたらしい。
また松山城は慶長7(1602)年から加藤嘉明が築城を開始した際、国内最大級の登り石垣を築いたとされている。
また彦根城は慶長8(1603)年に登り石垣の上にさらに瓦塀が築かれていたようで、
櫓や門・堀などとも巧妙に連結して「登り石垣」も軍事的防衛施設として進化している。