《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

富雄川流域探索「大和北田原城跡」

2020年05月22日 | Weblog

大阪市から京都府木津川市を経由して
三重県津市に至る一般国道である、
国道163号線北田原交差点の北側にある小高い山が「北田原城跡」。
頂上には関西電力の高圧鉄塔が立ち、
眼下には大阪と三重県を結ぶ旧街道・清滝街道が東西に
、また、現・大阪府交野市から岩船街道を通って奈良県に入る
国道168号線がすぐ西側を南北に通っており、
絶好の監視所だったであろう。
鉄塔の辺りが一の曲輪跡と言われており、北へ向かって尾根伝いに道があり、
二の曲輪などがあったと言われている。
坂ノ上丹後守の城と言われているが、
江戸時代、享保年間に編纂された「大和志」によると「田原壘(とりで)同村ニアリ、
北田原ハ、坂上氏之ニ據(よ)リ、奥田原ハ奥田原兵蔵・
同元右衛門ノ據ル所ナルモ共ニ事跡詳ナラズ」とだけあり詳細は不明。
ただ、「星のまち交野・私部城の歴史をたどる奈良の旅」に鷹山氏の累系図があり、
初代・鷹山頼弘から7代目・頼貞の娘が「坂上尊忠」と
結婚している資料があったが「坂上丹後の守」との関係は「あるや、なしや」。


富雄川流域探索「彩色された狛犬があるのだが…」

2020年05月17日 | Weblog

石の鳥居を潜って進み、三叉路を左(北)方向に曲がると、
右手に池がありその先に52の石段の参道が見える。
関係はないと思うが猿沢池の石段も52段。
本殿脇にある六角石燈籠は正徳元(1711)年8月吉日、
高山村奉納と彫られた常夜灯があり、彫が深くはっきりと読める。
「749年に東大寺の大仏の守護神として
大分県宇佐神宮から八幡神が迎えられ、
大和入りした場所がこの高山八幡宮といわれている。
「本殿は重要文化財に指定されており、鎌倉時代には、
叡尊が、当地で菩薩戒(ぼさつかい)を授け、
高山地域の領主であった『鷹山氏』の氏神として栄えました。…」
と生駒市デジタルミュージアムなどにある。
また、公開はされていないが、
彩色された鎌倉時代末期と推定される木造の狛犬、一対がある。


富雄川流域探索「大庵寺」

2020年05月12日 | Weblog

竹林園と富雄川を挟んでの西側旧道「上大北」のバス停から
約240㍍程南へ戻ると右側少し高台にフェンスが見える。
もともと「大雄寺」と呼ばれていたが、
明治以降「大庵寺」と呼ばれるようになったそうだ。
それらしい標識は見当たらない。
児童公園も兼ねているのかボール投げなど
禁止事項が書かれた看板がある。
空き地に石仏や宝篋院塔などが一ヶ所にまとめられていた。
蓮弁に座する石仏や舟形に彫られた中にはめ込まれた
「入れ子型」の地蔵石仏がある。
崩れかかった建物が一棟あり、雰囲気的には本堂だったのだろうか。
その左側には屋根の下で片膝突いたやさしい顔の
元明4辰(1784)年十一月十八日建立の如意輪観音坐像があり、
基礎部に「那智山」と「一番」が交差して彫ってあり奉納者名が読める。
「西国一番那智山」とは、那智の大瀧に対する
古代信仰から始まったと考えられている
「熊野十二所権現霊場巡り第一番札所」の事なのだろうか。

今日の暦:(1571)織田信長が伊勢長嶋の一向一揆と戦う。


富雄川流域探索「茶筌の里」

2020年05月06日 | Weblog

室町時代の中頃、この地の領主であった鷹山氏(高山氏)出身で、
高山頼栄の次男で連歌師であった高山宗砌(そうぜい)が
「わび茶」に通じた人であり、村田珠光の依頼を受けて
茶道具の茶筅(茶筌)を考案したのが始まりとされている。
茶筌は、用途、流派によって使う茶筌の先の穂立ちや、
竹の種類、糸の色などが異なる60種類以上もの茶筌が作られ、
それらが展示されている「高山竹林公園」。
毎年2月頃、近くの田圃では竹の乾燥のため、
約1.5mに切りそろえられた数十本の竹が、
円錐状に傘の骨組みのように組まれ、
日光にあて、寒風にさらす「竹の寒干し」作業の最盛期に入り
高山町の風物詩になっている。
寒干しのあと1年ほど倉庫で寝かせてから製品に加工されるという。
また、園内の南側一段下がった所に圓楽寺跡がある。
中世生駒市北部を支配していた鷹山氏の菩提寺、法楽寺の末寺。
鷹山氏は、応仁の乱以後から戦国時代頃の興福寺一乗院衆徒で、
旧境内には一族の墓石が、
明応元年(1492)〜享保9年(1724)銘の五輪塔二十数基が並んでいる。
明治の廃仏毀釈により境内が取り壊され、
石碑が集められているが、
それらしい雰囲気はあるものの寺院跡は見逃してしまいそう。


富雄川流域探索「お寺に見えない向露寺」

2020年05月04日 | Weblog

高山城跡の西直線距離約200mの所にある。
境内には普通の民家風の建物があり、元は墓堂だった。
浄土宗で本尊は阿弥陀如来とある。
墓地が北側一面に広がっている。
元、奈良県議だった奥野誠亮氏揮毫の「忠魂碑」があるので、
この地区からも多くの戦士が出征したのであろう。
向露寺墓地は元禄2(1689)年開基とされている。
有井山家文書永代向露寺記録(元文3(1738)年には
「和州添下郡高山村向露寺 元来 庄田村 大北村
和田村三ヶ村之墓所也」と記載されている。
(添下郡=奈良市北西部、大和郡山市北西部、生駒市北部)。

今日の暦:(1874)年、台湾出兵を決議、5月22日台湾上陸。