《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

飛鳥を巡る「都塚古墳」

2009年09月30日 | Weblog
石舞台古墳よりはるかに小さいが、大きな横穴式石室があり、くり抜き家形石棺が見える。末期古墳の大半は真南を向いているのに、この石室の入口は石舞台古墳と同じく南西を向いている。冬野川を挟んで一対と考えたとき、日本書紀に「ならびの双墓(ならびはか)を今来に造る。一つは大陵と云う。大臣蝦夷の墓とする。一つをば小陵と云う」とある。これからすると大陵が蝦夷となるのだが馬子は…。この古墳では毎年元旦の朝には金のニワトリが鳴くという金鳥伝説があり、金鳥塚とも呼ばれている。
(今日の歴史=神送りの日・9月末日は神々は出雲へ出発する日、その結果来月は各神社には神は居なくなる『神無月』となる)

飛鳥を巡る「束明神古墳の石室」

2009年09月29日 | Weblog
50センチ×50センチ×30センチの凝灰岩を500個ほど使われており、石の裏には切り込みを入れたジグソーパズルのような「草壁さん」の石室。この石は天武天皇陵の墳丘八角表面を覆うのにに使われていた石と同じ。(画像・日本の古代遺跡・奈良飛鳥より)
(今日の歴史=1972年横浜でガス灯十数基に灯がともる)

割込み旅メモ「興福寺南大門跡発掘」

2009年09月28日 | Weblog
昨日の最高気温31.4度、平均気温が25.2度と比べるとやはり暑かった。午前11時より説明があると云うので10分前に現場に付いたが説明は始まっていた。はや、炎天下の中、走って駆け寄り汗を拭きながら興福寺南大門発掘調査の説明に聞き入る。平安時代中期から鎌倉末期まで(1046~1327)に7回も、そして最後が1717年にも罹災した興福寺南大門。かつて明治政府による廃仏毀釈の時には「塔を燃やしてしまおう」なんて云う乱暴な意見もあったという。
(今日の歴史=1967年国鉄上越線清水トンネルが開通)

飛鳥を巡る「束明神古墳」

2009年09月26日 | Weblog
この古墳からは20歳代の人歯が10数枚出土しており、時期的に見て草壁皇子の陵といわれている。また昔から地元では「草壁さん」と呼ばれていたが、調査の人が来たので古墳と指定されると、この一帯から追い出されると思い「草壁さんはあちら」と他の方向を指差したといわれている。石室の巾と長さは2対3.巾と高さは黄金分割が使われていた。
(今日の歴史=1959年伊勢湾台風で名古屋地方に大被害。死者5041人)

飛鳥を巡る「地の窪」

2009年09月25日 | Weblog
マルコ山古墳より南側を見ると、そのやや右手が谷のドン突き「地の窪」という地域。景色と地名が「どんぴしゃ!」といった景観。このマルコヤマ古墳の位置は風水にのっかった位置として代表的な古墳とも云われている。
(今日の歴史=1906米軍がキューバを占領)