《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

法隆寺と太子「網封蔵」

2009年11月30日 | Weblog
奈良時代の扉やエンタシス床柱で造られた宝物を入れる蔵。正倉院が校倉造(あぜくらつくり)にたいし、柱を立てて土壁で囲っている。このような蔵が33建ち並んでいたと伝えられている。中には聖徳太子が長野県善光寺の阿弥陀如来と三度にわたって交わしたとされる聖なる書状「善光寺如来御書箱」が収められていた。今はそれらを含め宝物は鉄筋コンクリートの宝物殿に移されている。この御書箱の中は南北朝時代の楠木正成が大阪・四天王寺で見たほかは誰一人として見たものはいないといわれているがはてさて…
(今日の歴史=1888年日本がメキシコと通商条約に調印。最初の対等条約)

法隆寺と太子「東室と妻室」

2009年11月27日 | Weblog
東室(左側)とは昔の坊さんたちの寮で、現代で云うマンション。妻室(右側)は小子房といい、東室に付属する僧坊のこと。東室に師匠がいれば小子房にはその弟子がいたらしい。生活場に必ず訪れるのが「死」。古いお寺などは、死者を不浄として嫌っていた。法隆寺でも生きていれば代表者として寺内一円の権威を誇っていても、息が切れるといっぺんに不浄扱いとなり不浄門という裏門からその棺が運び出されたと言う。また重病人は息のあるうちに僧坊以外の建物に移された。
(今日の歴史=1959年日米安保改定阻止のデモ隊2万人が国会構内に入る)

法隆寺と太子「珍しい賽銭箱」

2009年11月26日 | Weblog
聖霊院の賽銭箱が変わっている。普通賽銭箱は本堂の入口にあるがここはその奥の座敷の上にあり箱型ではなく薄い衣紋入れのような「ひょいと」持ち上がりそうな賽銭箱である。桟の色は賽銭が多く投じられる所とそうでないところの色が異なっている。
(今日の歴史=1941年ハワイ作戦機動部隊が南千島から出発する)

法隆寺と太子「聖霊院」

2009年11月25日 | Weblog
聖徳太子をまつる神殿として、太子を信仰する人々にとってはメッカ中のメッカである。前の池の端には正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑があるが法隆寺の鐘や柿とは関係はないという。
(今日の歴史=1936年日独防共協定がベルリンで調印)

法隆寺と太子「上御堂」

2009年11月24日 | Weblog
上御堂は898年台風のため倒壊、その322年後に再建された。明治40年に解体修理が行われたが、敷瓦に瓦大工「吉重」の落書きが残っている。どこにあるかは確認できなかったのが残念。毎年11月1日から三日間特別開扉される。画像は高田良信著「法隆寺の謎」より
(今日の歴史=1944年アメリカの爆撃機B29が東京を初空爆する)