宿場町の雰囲気が残る街道。この辺りが、古代の市場「海拓榴市(つばいち)」のあったところ。その頃この辺りは奈良への奈良街道、初瀬街道、竹之内街道そして飛鳥への磐余(いわれ)道が集まり、また大阪難波からの大和川を利用した船便もあり大変賑わった所。
仏教伝来の碑は南から馬井手橋(うまいずはし)初瀬川を渡るとある。欽明天皇が百済からプレゼントされた仏像、経典などを受け取った場所とされている。その後蘇我氏と物部氏の間で仏教と日本古来の神教との戦いが始まる。
水道局の西に粟殿(おうどの)という町名が現在も残っていて、粟殿は大殿がなまったもので、そのあたりが宮跡であろうとする説もあるが、いずれにしても大和川の最上流(これより上流は初瀬川となる)に位置し当時の交通の便も良かった所である。水道局の東500メートル位の所にある小さな公園であるが、存在感のある標柱はあった。ここへ移されてしまったのではここを宮跡とする意味はないと思うが…
藤原京の条坊に合致し、本薬師寺と対称の位置にある。この寺は高市皇子(天武天皇の長男)の大寺とも云われているが、創建されたのが673年であることから藤原京の条坊が出来るのは676年からであるので一寸年代にずれがある。また規模も小さい。ここから出土した丸瓦の外縁にはぞくに云うラーメン鉢の文様があり、平瓦は三重の重弧文である。