《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

旧街道4・竹ノ内街道「野中寺の塔は亀が支えた?」

2015年08月31日 | Weblog

仁王が睨みをきかせる山門。7世紀の古代寺院で法隆寺伽藍配置の「野中寺」。寺伝では聖徳太子の命で蘇我馬子が造営したとあるが、渡来系氏族船氏の氏寺とも。聖徳太子建立の四十八院のひとつ、「中太子」と呼ばれる。境内に創建当初の礎石があるが、中央の塔心礎には何故か先端に亀の顔が刻まれているが、これは創建当時のものなのか後刻なのか。


旧街道4・竹ノ内街道「古市古墳群」

2015年08月29日 | Weblog

古市古墳群は5~6世紀にかけてほぼ200年間に形成された。主軸をほぼ南北方向にとる北の一群が古く、主軸をほぼ東西方向にとる南群が新しいと考えられている。藤井寺市から羽曳野市にかけて東西南北約4キロの範囲に120基を超える古墳が築造された。現存する45基は墳丘長200mを超える巨大な前方後円墳は7基ある。古市古墳群の主な古墳は31基ある。画像は峯ヶ塚(みねがつか)古墳の西方約200mの羽曳野丘陵の東縁に位置する横口式石槨をもつ終末期古墳で直径約30mの円墳。石室内部を見ることが出来る。


旧街道4・竹ノ内街道「巡礼街道」

2015年08月28日 | Weblog

観世音菩薩を信仰する人々が、観音像を安置する33ヶ所の寺を参拝して歩くことは、僧や修験者、貴族などが主として平安時代末に始まった。それが江戸時代になると観音の功徳にあずかることを願う市民の間でも盛んになる。西国33ヶ所観音巡りの一つ第四番槇尾山施福寺(和泉市)より五番紫雲山葛井寺(藤井寺市)へ行く街道の近道が尺度から軽里付近を通っており、この辺りも巡礼街道と呼ばれていた「古代国道1号線」のいま。


旧街道4・竹ノ内街道「夏休み自由研究のテーマーに…」

2015年08月27日 | Weblog

翠鳥園(すいちょうえん)遺跡。石器を作るために打ち割ったサヌカイトを表したモニュメント。約二万年前の石器造りの工房は二上山周辺から採れたサヌカイトをナイフや矢じりに加工していたこの場所はおよそ5キロの地点にある。園内には北海道技法とは異なる「瀬戸内技法」と呼ばれる矢じりやナイフがどの様にして造られていたのか詳しい解説がある。夏休みの自由研究に「もってこい」だが、もう遅いかっ。


旧街道4・竹ノ内街道「羽曳野市の由来」

2015年08月26日 | Weblog

日本書紀などによると「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、また埴生野の空を向かって羽を曳くように飛び去った」と伝えられ、本市の名前の由来となっている(羽曳野市HP)。画像は白鳥古墳。