《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

旧街道を歩くⅠ・奈良街道「実は古い石橋」

2014年06月30日 | Weblog

国道24号線と旧奈良街道の分岐点、佐保川に架かる新石橋。街道側の橋はコンクリートで拡張されているが、下内側を除いてみると石柱が支える「石橋」であることがわかる。奈良で一番古い石橋の石柱。脚の円柱は3本×3列、その上に横桁を乗せ、さらに縦桁が4本ずつ渡されている。ネットで調べていると「鉄梯子があり川に降りことができる」とあったので後日行ってみた。下流域は桜の名所として知られ初夏にはホタルが舞う佐保川である。鉄梯子を一歩一歩降りてみたが余りの臭気に息を止めてシャッターを切り急いで駆け上がった。


旧街道を歩くⅠ・奈良街道「正岡子規と対山楼」

2014年06月29日 | Weblog

転害門あたりに明治時代「對山楼」と云う旅館があった。元の名は「角定」と云う一流旅館だった。その名前を明治の初めに山岡鉄舟が「対山楼」と命名したという(なぜなんでしょうね)。明治28年10月、正岡子規が上京する途中三日ほど奈良を訪れ「対山楼」に泊まった。柿が好きな子規が女中に「御所柿を食べたい」と言ったところ大丼鉢いっぱいに柿を持ってきて皮をむき始めた。と、東大寺の鐘が鳴った。柿を食べながらきょう訪れた斑鳩を思い出して読んだのが「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」だったとか。「対山楼」の跡は食事処「天平」になっており「天平」の駐車場に入って、店の入口右側にその案内がある。案内に沿って裏手に回ると手入れされた庭があり、そこにトヨカ柿の木が植わっている。正岡子規が食べたのは御所柿だたのでちょっと残念。国道24号線からは分かりにくい。奈良観光の財産の一つと思うのだが…


旧街道を歩くⅠ・奈良街道「転害門」

2014年06月27日 | Weblog

「転害会」と言うのがある。東大寺鎮守手向山八幡宮のお祭りが基壇上において祭礼が勅使を迎えて行われる。八幡宮を出発した神輿はこの転害門まで運ばれ、休息しまた手向山八幡宮へと戻って行き神楽や舞楽などが奉納される。またこの転害門は写真家・土門拳により奈良時代から残る節くれだった1本の柱の写真が撮られ、写真集に載っていたのを思い出す。余談:この辺りは「東大寺七郷」の一つ。郷名は転害門にちなみ、転害、天害、伝害、手貝、碾磑等と書く(街道資料1より)


旧街道を歩くⅠ・奈良街道「旅籠通りの保存は…」

2014年06月26日 | Weblog

雲井坂を下り切ったところに吉城川が流れそこに掛かる「徳井橋」。『奈良坊目拙解』(1735年)の中で、村井古道(奈良の外科医であり俳人でもあった)は異説を展開する。雲居坂が北に下り平坦になるあたりで、吉城川が東から西へ流れる。この川にかかる従弟井(いとこい)板橋=現威徳井橋が轟橋だと主張。当時この辺りには旅籠が多くあり、300~400人が泊まれる宿舎もあった(街道資料1)。いまも老舗の醤油店が残っていたり、ほか小さいながらそれらしい二階建て建物が西側にぽつんぽつんと残る。そう思いながら歩くとそれらしく見える。しかし奈良への入り口「名所・旅籠、宿場通り」としての保存はもう難しい。


旧街道を歩くⅠ・奈良街道「轟橋について」

2014年06月25日 | Weblog

この場所からなかなか前へ進まない。轟橋の前の歩道に石板が3枚ならんである。これが轟橋のあとか?と云われている。余談:この轟橋は「うち渡る人めも絶えず行駒の…」と読まれ、この橋を渡る人が多く賑わっていたことがわかる。また前の道は雲井坂と呼ばれ北から南に向かって登り坂になっている。「村雨の晴れ間にこえよ雲井坂…」と読まれ道は雨が降ればぬかるんで歩きにくい坂道だったことがわかる。この雲居坂雨、轟橋旅人は東大寺鐘、春日野鹿、南円堂藤、猿沢池月、佐保川蛍、三笠山雪とならび南都八景と呼ばれたことが、「蔭涼軒目録」寛政6年9月26日条にある(街道資料Ⅰより)。