《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

宮司さんの夢

2012年03月19日 | Weblog
古文書によると1215年ごろまでは、平面図によると出雲大社とほぼ同じ建築面積があった。その後火災や政治情勢により旧本殿の一棟分の平面を1/2に縮小され、北側の斜面際に建て替えられえた。本殿南にある拝殿はそれまで芝舞台であった跡と考えられていて「現在の拝殿東側の一段高い所を発掘されれば、旧本殿の全容が分るかもしれない」と大宮守人宮司の夢は広がる。

本殿構造の謎

2012年03月17日 | Weblog
本殿の構造形式は一般的なものであるが、この神社の特殊な構造は身舎床下にある。床下にはほぼ正方形の部屋が二室あり、出入り口は身舎の両側にある。このように床下に部屋を持つ本殿は他に日吉神社が知られている。用途としては物置として使われていたのではないかと考えられている。

氷室神社の舞台

2012年03月15日 | Weblog
氷室神社の特徴の一つは、諸願成就の祈祷のため、享保十一年には社頭で雨乞いの祈祷に雅楽と舞楽が奉納された。それは朝から夜に入るまで多いときには36曲も舞わられた時もある。京都・下鴨神社の高欄を模して拝殿に高欄を付けた舞殿。南都流の舞楽が現代も例祭には舞わられる。

頂きにある氷室神社

2012年03月13日 | Weblog
平城京跡・朱雀門前の大宮通を東に向かうと「油阪」の交差点に着く。この油阪から春日神社へ向けては登坂になっている。途中、国立博物館まで来ると勾配は一寸ゆるくなり、その北側に氷室神社はある。ここは春日山へ向う途中の一つの頂であるが、意外と気が付かないものである。氷室神社の裏に回ってみると谷の、急斜面の上にあることがよくわかる。

砲弾の謎

2012年03月05日 | Weblog
拝殿正面左側に砲弾がある。「清国海軍戦艦『鎮遠』」は日清戦争当時東洋一の堅艦といわれ、日本帝国海軍の大きな脅威だった。日本海軍旗艦「松島」に対し直撃弾をを与え多くの戦死者を出した。その後日本帝国海軍が接収して使用された後、『「鎮遠』の砲弾が当神社に戦没者を祀るために奉納された」とある。現在の砲弾と比較をしてみたいともおもうが…