《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

法隆寺と太子「絵殿と舎利殿」

2009年12月24日 | Weblog
夢殿の北側にある細長い建物。東(右側)が舎利殿、中央が馬道(めどう・廊下)をはさんで西側が絵殿(えでん)と呼ばれている。舎利殿は太子が二歳の春、掌中からあらわれたと伝えられる舎利を安置していることからその名が起こった。絵殿は太子一代記を描いた障子絵があることからその名がある。この堂は太子の伝記の絵を一つ一つ示しながら布教する「絵とき」をする(紙芝居の最も古いもの)場所。
(今日の歴史=1653年奄美群島返還日米協定が調印される)

法隆寺と太子「礼堂」

2009年12月23日 | Weblog
八角堂南側にある礼堂(れいどう)と呼ぶ鎌倉時代の建物。奈良時代にはこの場所に中門があったと云われている。夢殿は太子を供養するもので人の出入りする建物ではなかった。そのためこの礼堂から礼拝した。神社の拝殿にであり夢殿は大使を祀る神社であった。
(今日の歴史=1958年東京タワーの完工式が行われる)

法隆寺と太子「夢殿の古桜」

2009年12月22日 | Weblog
八角堂の回廊は鎌倉時代に改築されたもの。回廊の北東隅に枝垂れ桜の古木があるので春には参拝者の目を楽しませてくれる。
(今日の歴史=1938年近衛首相が日中国交調整について、近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携を日中和平の基本方針として呼びかける声明)を発表する)

法隆寺と太子「救世観音像」

2009年12月21日 | Weblog
夢殿の秘仏は有名である。この像は太子の在世中に造られた太子の念持仏であったなら、643年の斑鳩宮炎上の時この像がこの八角堂にあったとしたら焼けているはず。運良く搬出され金堂に保管されていたのなら、670年の金堂の火災のときは?古くから全身を白布で巻かれていて姿は誰も見たことはなかったと云われている。岡倉天心の日本美術史の中に「余は明治17年頃…布片、経切等を以って幾重となく包まれ…白紙の影に端厳の御像を仰ぐことが出来た。実に一生の最快事であった」とあり、この時白布が取り除かれたのだろう。それまでは本当の秘仏だったに違いない。画像は奈良古寺巡礼より拝借
(今日の歴史=1915年政府金塊100万円を積んだ日本郵船の八坂丸が地中海でドイツ軍に撃沈される)

法隆寺と太子「夢殿のお水取り」

2009年12月19日 | Weblog
夢殿は建立されて以来、法隆寺とは別の小寺院として、太子を供養することを唯一の目標とされていた別のものであった。しかし1116年に夢殿の院主と云う職が廃止されたのにともなって法隆寺の別当が支配することになり一体化された。この夢殿の本尊の前に坊さんの座るところがある。それを「礼盤」とよぶ。その畳の下に正方形の板があり(内部は撮禁)、それを1年に一度日光に当てると、汗のように水気が出る。今は行っていないが水気の多い少ないで豊作か凶作かを占っていたという。これを「お水取り」と呼ばれていたが、東大寺二月堂のお水取りとは随分ちがうようだ。