平城京を歩く「朱雀門5」 2010年07月30日 | Weblog 入母屋屋根だったのか、寄せ棟屋根だったのかの判断には疑問もあるようだが、重層の入母屋屋根で再建され二階は飾りとなっている。恭仁京から難波の宮へ移されたときの朱雀門は単層だった。中国では寄せ棟、日本では入母屋のほうが格式が高い建物とされている。再建された大極殿を初め朱雀門にも鴟尾が乗っているが、平城京跡からは鴟尾瓦などは見つかっていないので疑問が残る。今後の発掘が待たれる。 (今日の歴史=1912年大正天皇が即位し、大正と改元する)
平城京を歩く「朱雀門4」 2010年07月29日 | Weblog 朱雀門から北へ大極殿に向かって25メートル幅の道路があった。下ツ道の幅とほぼ同じ。朱雀門北側15メートル辺りの下ツ道の側溝左から藤原京時代の「ここを通してやってくれ」と云う木簡が出てきている。そのことにより下ツ道から歌姫街道を通るルートが当時から利用されていたことがわかる。当然平城京のできる前のこと。 (今日の歴史=1855年長崎に海軍伝習所を設ける)
平城京を歩く「朱雀門3」 2010年07月28日 | Weblog 遷都1300年祭で賑わう朱雀門。740年には恭仁京への遷都(http://blog.goo.ne.jp/kappa3939/d/20091123)にともない第一次大極殿とともに解体され山城へ運ばれる。その跡は板塀で囲まれていて再建はされなかった。(今日の歴史=1183年木曽義仲が入京する)
平城京を歩く「朱雀門2」 2010年07月27日 | Weblog 基壇は東西33メートル、南北18メートル 間口5間、奥行き2間。柱の間隔17尺(5メートル)軒の出が12尺(3.6メートル)あった。再建された門の柱は吉野と木曽と埼玉の檜材を使っている。朱雀門や大極殿は多くの瓦を載せるため重量がかかるので礎石の上に柱が立っている。しかし内裏などの屋根は桧皮葺で屋根が軽いので掘立て柱建物。これは天皇の住処であるから圧迫感を無くすためだったかも知れない。 (今日の歴史=1621年外国人の日本人売買《こんな時代もあったのだ》、武器売買などを禁止する)
平城京を歩く「朱雀門1」 2010年07月26日 | Weblog 宮内は築地塀で囲まれていて、南は朱雀門を中心として東に壬生門、西に若犬養門を初めとして玉手門、佐伯門など各方面にはそれぞれ三つの門があり、東西南北で計12門があったと考えられている。