《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

今日は何の日

2022年03月21日 | Weblog

1985年3月21日。織田信長の時代に、九州のキリシタン大名大友義鎭、有馬晴信、大村純忠は耶蘇会の宣教師の勧めで近親の中から少年を選び、ローマー教皇に謁見させることになった。13,14歳の少年たちは長崎からポルトガル船に乗ってスペインに上陸し、国王フェリペ2世に会見。次いでイタリアからローマに入り1985年、ヴァチカン宮殿で”国王の間”で教皇グレゴリウス3世と謁見した。この間3年2ヶ月を要した。


富雄川流域探索「浄福寺の巨樹」

2021年07月24日 | Weblog

大倭神宮南東約70mには、浄土真宗本願寺派・浄福寺がある。
「小野妹子の玄孫・小野福麿をと弔うために
建立された六福寺の一つ」との伝承がある。
境内にはクロガネモチの大木があり
環境省・巨樹・巨木データーベース、2000年6月22日確認によると
「樹齢推定200~199年、幹の周り315㎝、樹高=20m」とある。
手を伸ばし幹に触れてみる。


富雄川流域探索「大倭神宮」

2021年07月13日 | Weblog

大倭神宮は聖徳寺と道を挟んで向かい側にあり、
木々や竹藪に囲まれた中に磐座がある。
「熊野を迂回して大和に攻め込んだ
狭野命(神武天皇は幼少時代)の軍は連戦連敗だった。
登美の軍(長髄彦)が勝ち鬨を挙げようとした時、
一天にわかにかき曇り氷雨の襲来とともに、
金鵄の瑞光があって、両軍矛を納めて大地に平伏した。
この天啓によって両軍和議が成立、
長曽根日子命が差し出した条件を狭野命が無条件に受諾、
長曽根日子命はヤマト国を狭野命に譲り、
媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となったと言う。
また、物部、蘇我戦争の際に祖先のトミノオミトイチヒは
聖徳太子の矢を背負ったことから
"矢追"と言う名を賜ったと伝えている」とHPにある。


富雄川流域探索「聖徳寺」

2021年07月04日 | Weblog

大和国鹿島香取本宮の近くに、融通念仏宗・聖徳寺があるが、
「五七の桐の紋」の暖簾が掛かっている。
大和郡山市城主であった豊臣秀長と何か関係があるのだろうか。
詳細は不明。


富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」

2021年06月28日 | Weblog

霊山寺から川を挟んで北東直線500m程の奈良市富雄中町にある。
大和国鹿島香取本宮は「鹿島の神人達が正義を護り不正を正し、
外敵から護るため自然の要塞を利用し、
神の聖地を維持するため陣屋を固めたのであります。
国土開発に大功を建て給うた鹿島・香取の大神を
お祀りしたのが始まりであると言われています。」とHPにある。
郡山城の鎮守として祀られていたが、
住宅開発に伴い今の場所、人斬山頂上に遷されたようだ。
地域の氏神様ではなく「単立の神社」として機能しているなど
市内ではやや異色の存在となっており、
参拝時には飼育されている「神馬」が見られることもある。