《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

平城京を歩く「温故知新」

2010年08月28日 | Weblog
日本は文化の受け入れには素直で上手いが、発信は下手だ。それについて思う。日本に入ってくる情報はすべて西から入ってきたが蓄えられた情報を東へ伝える隣国が無かった。情報は入ってくるのみで西からの情報伝達の終点であった。近代に入ってからは新しい情報が東の国からも一方的に入ってきて、文化、技術、情報などは国内で渦を巻き融合させ新しいものを見出したがそれさえ逆に西に東へと発信する方法を学んでこなかった。だから日本は今もって情報の発信が下手なのであろう。(完)

割込み旅メモ「遺物洗浄のお手伝い」

2010年08月27日 | Weblog
JR奈良駅南・大森町交差点付近より出土した土器洗浄のお手伝い。製塩土器らしき破片2個が確認できた。海水を肉厚の壷に入れ火で煮詰めて水分を蒸発させて塩を製造していた。現代もその方法で塩を作っているところがある。当時はその壷ごと税として収めていたようである。
(今日の歴史=663年日本水軍が百済救援に行くが、白村江で唐・新羅の連合軍に敗れる)

平城京を歩く「第二次大極殿跡」

2010年08月26日 | Weblog
聖武天皇が恭仁京宮から帰ってきて造られた。天皇は月に一回出てくるが5位以上の役人は朝堂院で毎朝打ち合わせをして、お昼前には帰ったのではないか。当時の食事は朝夕の二食。ご飯と塩。おかずは自前。器については儀式用は土器であったが、天皇などは漆や金属の器が使用されていた。通勤(?)する高官は馬などを使うが一般は徒歩で九条辺りから来る役人は大変だったと思われる。羅城門では午前三時半頃に鐘を突いたとも言われている。宮内のトイレの存在は分からないが藤原京では出てきており、木簡の出てくるところはトイレ跡という研究者もいる。
(今日の歴史=738年諸国に命じて国郡の図をつくらせる)

平城京を歩く「内裏跡」

2010年08月24日 | Weblog
70年間ずーと天皇が日常的に暮らしていた内裏跡。柱間3間7間。4面ひさし、最高級の和風高床式の住宅として最大級であったが、いまは、つげの木が柱跡を示している。。ここから大極殿へ向かった。足元は木靴であったのだろうか?雨上がりの道は泥濘であっただろうろ思われる。建物の模型は資料館にある。この後ろ(画像右側)は女官などの住まいがあった。内裏跡から東・大極殿を望む。
(今日の歴史=79年ポンペイ市と市民約2000人が火山灰により埋没する)