《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

旧街道3・暗越奈良街道Ⅰ「終着・近鉄額田駅」

2015年03月30日 | Weblog

豊浦町から近鉄・額田駅に全員元気に到着。通過した豊浦は大坂夏の陣の時、徳川家康は交野市星田からこの豊浦に陣替えをし、天王寺に出陣したところ。また、この辺りの生駒山の麓には元禄のころから、生駒山の谷川水を利用した水車が設置され、油搾りや製粉、精米、針金製造がおこなわれ、枚岡、額田、豊浦などの伸線工業につながり、東大阪市の工業都市としての発展の源となった。道々にそれらしい工場があちこちに見られた。(次回二日目からは、いよいよ酷道・暗越峠)


旧街道3・暗越奈良街道Ⅰ「ええじゃないか、えじゃないか…」

2015年03月28日 | Weblog

天保2年に建てられたこの燈籠は、「お蔭燈籠」と呼ばれています。江戸時代の終わりころになると、幕府の政治に対して、全国各地で百姓一揆やうちこわしなどの事件が多くおこります。慶応3年(1867)には一揆やうちこわしにかかわって「ええじゃないか」が秋から冬にかけて広がりました。菱江ノ村も例外ではなく同年11月にこの事件が発生します。11月下旬にお札が降ったという事で、12月1日から6日ごろまで、「おかげおどり」が続けられました。そのおどりには、のぼりが準備され、三味線、笛、太鼓が使われました。そして「ええじゃないか、ええじゃないか」とはやしておどりました。菱江村は暗越奈良街道が村の中を通り、多くの人の通行がありました。(説明板より抜粋)


旧街道3・暗越奈良街道Ⅰ「洒落っ気のある石工」

2015年03月27日 | Weblog

境内にはいると拝殿前には、狛犬ではなく弘化2年建立の「狐」があり珍しい神社。案内を見ると元々稲荷神社の鎮座していた社地に、後から八劔(やつるぎ)大明神が奉祀されたようです。玉串川(。1969年(昭和44年)の第二寝屋川の開削によって玉串元町以北の流れが分断され、河川の機能は失われた。現在では一部分を除いて埋め立てられている。)の辺にあったものがこの場所に移された。左画像の道標の中央には「瓢箪」が彫られ「右 瓢箪山 三十丁」。字画が多すぎるからか、ひらがなでは文字数が多いからか、石工の洒落っ気を感じる道標。


旧街道3・暗越奈良街道Ⅰ「片桐石見守さまご休憩」

2015年03月26日 | Weblog

「御厨の村は、古くから大阪と奈良を結ぶ暗越奈良街道筋にあたっていて、街道筋の村々には、本陣札を残す家があります。植田家のその一つで「松平甲斐守様御本陣」と「片桐石見守様御本陣」と書かれた木札が残されている。江戸時代の御厨の村にはこのような大名が足を止めた家が他にもあり、街道を行き来する大名が休憩していったものと考えられます。…現在もご家族で居住しながら保存されていますので一般公開はされていません(東大阪市)」