《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「おー寒っ」

2019年09月29日 | Weblog

町家の裏には庭があり、そこには井戸、便所が設えられている。
便所は大のみの一穴と大小が区切られた一対になっているものがある。
武家屋敷になると、さすが使用人も多いのだろう大小2基ずつあり、
「大」の方には「金隠し」が付いている。
いずれも便所は外にあり、冬の日も寒さに凍えながら、
耐えなければならなかったのだろう。

今日の暦:昭和47(1972)年、
田中首相が日中国交正常化の共同声明に調印。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「寒さに耐えた冬」

2019年09月27日 | Weblog

「小さな家は職人たちが住んだ町家で、道路に面してある。
建物は出土した柱、壁、敷居、建築金具、
建築道具や同時代の建物を参考に
当時の建築技術を再現して忠実に復元」とある。
黒光りする上がり框には釿(ちょうな)の
削り跡がリアルに再現されていた。
土間と、作業場ともう一部屋、間仕切りには障子はなく、
屋根は板葺きに石の重し、窓は格子に板戸だけ。
囲炉裏はあるが小さい。ここは雪国、
冬の寒さはいかほどだっただろうか。

今日の暦:昭和15(1940)年、日独伊三国同盟が締結される。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「暖を取りながらの将棋」

2019年09月23日 | Weblog

30㍍四方の広大な標準的な武家屋敷。
周囲を土塀で囲み通りに向かって表門がある。
屋敷内には6間×2軒の主殿。屋敷と庭があり、
蔵や使用人が居住したと考えられる納屋や井戸、便所があった。
室内は畳が引きつめられ障子なども多く用いられていた。
材木には、鉋、槍鉋、ちょうななどの跡が残っていた。
将棋の駒が多く見つかっており、将棋が盛んだったと思われ、
座敷には、火鉢で手あぶりしながら
将棋を指す二体のマネキンがリアルに配されていた。
(画像はワイド合成のため塀がずれて居る)。

今日の暦:昭和29(1954)年、ビキニ水爆実験で
放射能を浴びた漁船乗組員久保山愛吉さんが死亡。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「より現実的な保存」

2019年09月19日 | Weblog

町並立体復元地区は、朝倉氏100年余りを支配した
戦国時代の武家屋敷や庶民の町家がほぼ完全な姿で再現され、
国の重文、特別史跡などに指定されている。
中には東西30m、南北30mの敷地を持ち、土塀の二か所に開く門、
中央に東西11㍍余り、南北7.5mの主屋、
一間半四方の茶室や庭などがある武家屋敷や、
町家が発掘され南北200mが
「発掘遺構面に60㎝の盛り土の上に復元されている」とある。
計画的に造られた往路を挟んで武家屋敷が続く。

今日の暦:明治3(1870)年、平民に苗字の使用を許可。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「春日神社の神鹿の脇差」

2019年09月16日 | Weblog

外国観光客にも人気のある「日本刀」。
「一乗谷で作られていた刀は、
美濃の関から「兼」を通字とする鍛冶の一派が作刀していた。
鍛冶の名前である「越前一乗住兼則」は
「神祇五位大祐(しんぎごいだいじょう)・
卜部(うらべ)定澄」の名が刻まれ、
一乗谷に鎮座する春日神社の神主で、
朝倉当主へも神道知識を伝授した神道家吉田兼右が
「神祇五位大祐」と名乗っていた天文5(1536)年から
天文14(1545)年までと作刀の時期限定できる。
刀身には春日神社の神使(しんし)である
"神鹿"が彫られている。(資料館資料より抜粋)」。

今日の暦:昭和46(1971)年、成田空港予定地での衝突で機動隊員3名が死亡