川端康成が、小説『反橋』で「上るよりもおりる方がこはいものです」と書いたことでも知られる、
住吉神社の「太鼓橋(反橋)」。
最大傾斜は約48度と橋が反っている分、天上の神様近づくため罪や穢れを祓い清められると云われている。
石の橋脚は慶長年間に淀君が奉納したものとか、秀頼が寄進したとも言われている。
また手水鉢には兎の口から水が出ているが、神功皇后が祀られた日が卯歳(うのとし)、卯月(うづき)、
卯日(うのひ)と「卯」が並ぶことから、「住吉神社」では卯(うさぎ)が神使とされている。
住吉大社の東参道と、熊野街道が交差する四つ辻角にある。
昔ながらの住吉の玄関口で400年以上前に創業し、酒造と味噌の醸造を兼ねていた老舗。
家屋は文化庁登録の有形文化財で築130年以上(HPより抜粋)。
アツアツのご飯にここの味噌をつけて食べると、何杯もお変わりできそう。
十もの禍や災難と縁切りできる「ちぎり地蔵」。安産、水害、火事、病、旅の安全等などとある。
今日の雨降り旧街道歩きの安全を願いながら通り過ぎるも、この後トラブルが…。
隣の哀愍寺(あいみんじ)には運慶作とも言われる玉眼を嵌入した阿弥陀如来像があるとか。
住吉大社・歴代宮司の津守氏の住之江殿(正印殿)の中におかれた南朝の後村上天皇の御座所跡。
幕府側の内紛と楠木正儀の戦略で南朝方が優勢を得た正平15年(1360年)9月から8年間、
崩御するまでの間行宮とされた。
次の長慶天皇は住吉行宮で即位し正平23年12月24日に吉野へ移ったとされる。円形十六弁菊は南朝の紋とされている。
しかしここは「角型十六弁」になっているが…。
自分の古代瓦の拓本採取資料にない瓦の紋様。
今の墨江小学校の敷地に明治初期頃まで津守寺があり、昭和15年の区画整理のおりに白鳳時代の瓦が発見された。
津守寺は延喜元(901)年に創建され、いま津守廃寺跡とされている。
津守神社に参拝した人に配られた札を印刷した版木が残っていることから住吉大社とのつながる。
津守神社に祀られていた津守氏は日本神話に登場する神のひとつとされている。
天火明命(アメノホアカリ)の流れを汲む一族で摂津国・住吉郡の豪族。