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19世紀後半のヨーロッパ(10)バルカン問題

2012年10月12日 | トリオDE世界史

(1)イタリア王国 �獲得できなかった植民地�獲得した植民地�オーストリアとの争奪地
�チュニジア
�トリポリ・キレナイカ(現リビア)
�アルバニア
(2)仏伊協約 �年�イタリアの勢力圏�フランスの勢力圏
�1902年
�トリポリ・キレナイカ(現リビア)
�モロッコ
(3)オスマン=トルコの1908年 �革命�完全独立した国�墺が併合した地方
�青年トルコ党の革命
�ブルガリア
�ボスニア・ヘルツェゴビナ
(4)伊土戦争 �年�争奪地�条約
�1911~12年
�イタリアがトルコ領トリポリ・キレナイカへ侵攻
�ローザンヌ条約
(5)バルカン同盟の4国
�セルビア
�モンテネグロ
�ギリシア
�ブルガリア
(6)第1次バルカン戦争 �年�交戦国�争奪地
�1912年
�トルコVSバルカン同盟諸国
�トルコ領マケドニア
(7)第1次バルカン戦争 �契機�トルコの対応�結果
�伊土戦争でトルコが苦戦
�伊土戦争を終わらせマケドニア保持に努めた
�マケドニア分割でバルカン同盟内で対立
(8)第2次バルカン戦争 �年�争点�孤立した国
�1913年
�マケドニアの分割
�ブルガリア


安全保障の方法論

2012年10月06日 | 高3用 授業内容をもう一度

 17世紀を中心とする絶対王政諸国の安全保障の方法論は、「【勢力均衡】(【バランス・オブ・パワー】)」であった。これはある国が軍事的に勢力を伸長する傾向を見せたときに、各国が協調してこれに歯止めをかけ、現状維持を図るなかで、大国の軍事的衝突を防止しようとするものであった。しかし、その一方で、大国の周辺に位置する東南欧諸国などにとっては、大国の直接的軍事衝突をさけるためのはけ口とされ、ポーランドを始めとして、これらの地域は大国に併合されるなどした。
 19世紀に入り帝国主義の時代になると、この「勢力均等」の考え方は、大国間の軍事同盟によるバランスへと変質した。すなわち【3国協商】はイギリスを中心にドイツと対抗・均衡させるための手段であり、ドイツも【3国同盟】を締結してこれに対抗したのである。帝国主義の諸大国はアジア・アフリカ地域を植民地化しながら、対立のはけ口を東南欧からこれら地域にシフトしていった。これは帝国主義段階にはいったことで経済規模が拡大し、東南欧地域でははけ口としての役割が満たされないこと、あるいは、17世紀の絶対王政の時代にすでに、東南欧地域ははけ口とされ、19世紀の段階では分割が終了していてその機能を果たせなかったことが考えられる。
 大国が2つの陣営に別れて対立した時代であったが、大戦の発端はバルカン半島の【ボスニア】を巡る【オーストリア】と【セルビア】の地域紛争が引き金となった。当時、バルカン半島は「【ヨーロッパの火薬庫】」と呼ばれていたが、まさにそのとおりの結果となったのである。ただし、注意しなければならないのは、大国間では「勢力均衡」が達成されていた点で、東南欧地域が、その対立のはけ口としての機能に止まらず、自ら主役として勢力伸長の場を求めたことが、戦争を引き起こしたと言える。【大セルビア】主義と【大ゲルマン】主義の対立はまさにこの事を意味するだろう。
 第1次世界大戦後の戦後処理の中で、新しい安全保障の方法論が主張された。これは「【集団安全保障】」という考え方で、第1次世界大戦はバルカン地域での地域紛争が世界大戦に発展したという認識に立ち、地域紛争を解決する手段として「恒久的な国際平和機関」の設置が採用された。東南欧地域が対立のはけ口としての機能を果たせなくなった結果当然の処置である。大国が2国間で軍事同盟し、さらに東南欧地域をもこの同盟関係に巻き込み、巻き込まれていくのを禁じている。ただし、大国間の対立を解消していく任務は、この「恒久的平和機関」に期待するものではない。


19世紀後半のヨーロッパ(3)ビスマルク時代

2012年10月04日 | トリオDE世界史

(1)ドイツ帝国 �初代皇帝�帝国宰相�2代目皇帝
�ヴィルヘルム1世
�ビスマルク
�ヴィルヘルム2世
(2)ビスマルク外交 �課題2点�市場 
�フランスの孤立
�ヨーロッパの平和維持
�ロシア市場
(3)ビスマルクの内政 �対抗勢力2つ�地位
�中央党
�社会主義勢力
�プロイセン宰相としてドイツ帝国宰相を兼務
(4)文化闘争 �問題�対抗する政党�地域
�カトリック問題
�中央党
�西南ドイツ
(5)ビスマルクの社会主義政策 �飴�鞭�法律の成立年
�疾病養老保険法
�社会主義者鎮圧法
�1878年
(6)ビスマルク外交の同盟 �1873年�1881年�1887年
�三帝同盟
�三帝協商
�再保障条約
(7)三帝同盟の参加国3つ
�ドイツ帝国
�ロシア帝国
�オーストリア・ハンガリー2重帝国
(8)三帝協商 �年�ロシアの事情�結成の原因
�1881年
�中央アジアへの南下政策
�イギリスがアフガニスタン併合
(9)再保障条約 �締結年�破棄された年�締結した国
�1887年
�1890年
�ドイツとロシア
(10)1890年 �引退した人物�再保障条約�新皇帝
�ビスマルク
�3年期限で更新せず
�ヴィルヘルム2世
(11)ヴィルヘルム2世 �支持勢力�市場�外交政策
�ユンカー
�海外市場
�新航路政策


帝国主義 関東学院

2012年10月04日 | 復習用入試問題

帝国主義の成立に関する次の文章を読み,以下の設問に答えよ。関東学院大学

 列強による植民地獲得競争の結果,19世紀末には世界は分割された。19世紀後半に広範な地域で対立していたのは,イギリスと中央アジアから南下するロシアであった。イギリスとフランスもアフリカ・東南アジアで競争し,1898年にはファショダ事件が起きた。イギリスは露・仏との対抗上ドイツには宥(ゆう)和(わ)的であったが,1890年代中葉以降の(a)ドイツの「世界政策」は両国関係を急速に悪化させた。
 世界の分割完了後も,その再分割をめざして列強諸国の争いは激化した。その根底には,植民地領有に関しては有利な地位を占めていたイギリス・フランスを,(b)1870年代以降急速な発展を遂げたドイツ・アメリカが経済的には追い越してしまったという要因がある。1898年の (23) 戦争,1899-1902年の(c)南アフリカ戦争は中小国への攻撃であり,トルコ・イラン・中国では半植民地化が進んだ。中国では,経済的・軍事的要地が列強に租界という形で奪われた。ロシアも東アジアに進出し,アメリカは1899年に(d)「門戸開放・機会均等」を提唱した。国土や生活を破壊された中国の民衆の抵抗は (24) となったが,(e)諸国の連合軍に鎮圧されてしまった。この機にロシアは中国東北部を占領し,同地域および朝鮮を狙(ねら)う日本と激しく対立し,イギリスはロシアとの対抗から1902年に日英同盟を結んだ。ロシアは,国内で激しくなっていた労働運動・農民一揆の打開の道を戦争に求め,日本も戦力を強化していたので,両国の交渉は妥協にいたらず,1904年,日露戦争が開始された。
 この戦争では,日本は英・米に支援され,戦費の半分も英・米で募集した外債で賄われていた。ロシアもフランス資本に支えられており,さらにドイツとも結んでいた。この戦争は,国際的には英・露の対立の表現でもあったが,英・仏や英・独の対立,さらに中国東北部をめぐる米・露の対立をも内包していた。他方,帝国主義戦争の動きへの批判は (25) が行っており,この戦争中に開催されたアムステルダム大会で,日本代表の片山潜とロシア代表プレハーノフが演壇上で握手し,両国支配者の軍国主義に反対した。戦争が与えた民衆の苦しみは深刻であった。日本の場合でも,増税に次ぐ増税がなされ,働き盛りの男性は兵隊に取られ,戦死者4万・負傷者17万以上・病死者6万人であった。1905年,日本優勢の下で,(f)ポーツマス講和条約が結ばれた。
 この戦争は列強の力関係を大きく変化させ,英・独の対立が決定的となった。フランスは日露戦争によってロシアの軍事力が極東に拘束されたことでドイツに対する警戒感を強めて,イギリスと接近し,1904年4月に(g)英仏協商が結ばれた。1905年のモロッコ事件は英・仏・露の結束を強め,1907年には多年の敵対関係をこえて(h)英露協商が成立した。こうして,植民地の犠牲の上に,英・仏・露による三国協商とドイツ・ (26) による三国同盟という二大陣営が対立することになった。

問1  (23)~(26)  文中の空欄に最適な語を,次の語群から選び番号で答えよ。
(23) 
1 プロイセン・オーストリア(普墺)
2 イギリス・ビルマ
3 アメリカ・スペイン(米西)
4 ロシア・トルコ(露土)

(24) 
1 五・四運動 2 義和団事件
3 太平天国の乱 4 東学党の乱

(25) 
1 コミンフォルム 2 コミンテルン
3 第1インターナショナル 4 第2インターナショナル

(26) 
1 イタリア・トルコ 2 イタリア・オーストリア
3 オーストリア・ベルギー 4 トルコ・ベルギー

問2  (27)  [下線部(a)]この「世界政策」に関して正しいものを次から選び番号で答えよ。
1 海軍の大拡張計画 2 大陸横断鉄道の建設計画
3 インドへの進出 4 ビスマルクによる政策

問3  (28)  [下線部(b)]この時期のドイツ・アメリカの経済的な特徴として共通するものを,次のなかから1つ選び番号で答えよ。
1 石油産業の発展 2 巨大企業の展開
3 社会保険政策の充実 4 綿工業主導の発展

問4  (29)  [下線部(c)]この戦争のときの植民相を,次のなかから選び番号で答えよ。
1 グラッドストン 2 ジョゼフ=チェンバレン
3 ディズレーリ 4 ロイド=ジョージ

問5  (30)  [下線部(d)]「門戸開放・機会均等」の提唱に関して正しい文を,次のなかから1つ選び番号で答えよ。
1 カリブ海政策に見られる棍(こん)棒(ぼう)外交を推進した。
2 セオドア=ローズベルト大統領が提唱した。
3 東清鉄道の敷設権を得ようとした。
4 中国市場への進出の遅れを取り戻そうとした。

問6  (31)  [下線部(e)]この連合軍に関する文のうち,下線部が誤っているものを,次のなかから1つ選び番号で答えよ。
1 この連合軍は8か国の兵士から構成されていた。
2 イギリスは南アフリカ戦争のために大きな兵力を割く余裕がなかった。
3 この連合軍の主力は日本とドイツであった。
4 アメリカはフィリピンの独立を認めず,軍隊を送っていたために大兵力を割けなかった。

問7  (32)  [下線部(f)]ポーツマス講和条約の締結に関して誤っている文を,次のなかから1つ選び番号で答えよ。
1 日本は戦争の継続に耐えられるだけの国力に欠けていた。
2 ロシア国内では専制政治と戦争に反対する革命が起きた。
3 ロシアと日本に講和を斡(あっ)旋(せん)したのはアメリカであった。
4 講和の基礎となる原則は14か条から成っていた。

問8  (33)  [下線部(g)・(h)]英仏協商および英露協商の内容として誤っているものを,次のなかから1つ選び番号で答えよ。
1 エジプトにおけるイギリスの支配
2 エチオピアをフランスの勢力範囲とする
3 アフガニスタンにおけるイギリスの支配
4 イランにおける英・露の勢力範囲の確定


【解答3】 
問1 (23) 3 (24) 2 (25) 4 (26) 2
問2 1 問3 2 問4 2 問5 4
問6 3 問7 4 問8 2


19世紀後半のヨーロッパ(8)ドイツの帝国主義

2012年10月04日 | トリオDE世界史

(1)ビスマルク外交の同盟関係 �1873年�1881年�1881年
�三帝同盟
�三帝協商
�三国同盟
(2)ビスマルク外交の戦略 �市場�外交方針2つ
�ロシア市場の確保
�ヨーロッパの平和
�フランスの孤立化
(3)ビスマルク時代の植民地 �太平洋�アフリカ�中国
�南太平洋の諸島
�東アフリカ
�山東半島
(4)1884年のベルリン会議 �テーマ�問題�結論
�アフリカ分割のためのベルリン会議
�コンゴ問題
�コンゴをベルギー王の私領とする
(5)ヴィルヘルム2世の外交戦略 �政策�具体的政策�市場
�新航路政策
�3B政策
�海外市場の獲得
(6)新航路政策 �主張された年�本格化した年�その法律
�1890年
�1898年
�建艦法
(7)3B政策の3つの都市
�ベルリン
�ビザンティウム(イスタンブール)
�バグダッド
(8)イスタンブールの都市名の変遷 �ギリシア時代�330年以降�1453年以降
�ビザンティウム
�コンスタンティノープル
�イスタンブール
(9)3B政策 �市場とした国�鉄道�その建設が始まった年
�オスマン=トルコ
�バグダッド鉄道
�1903年
(10)青年トルコ党の革命 �年�指導者�政権の特徴
�1908年
�エンヴェル=パシャ
�親独政権
(11)青年トルコ党の革命 �影響を与えた戦争�オーストリア�敗者
�日露戦争における日本の勝利に刺激された
�ボスニア・ヘルツェゴビナを併合
�スルタン=カリフが実権を失う
(12)モロッコ事件 �第1次�第2次�イギリスの対応
�タンジール事件
�アガディール事件
�フランスを支持してドイツを非難
(13)タンジール事件 �年�ドイツ皇帝�解決した会議
�1905年
�ヴィルヘルム2世がタンジール港に上陸
�アルへシラス会議
(14)アガディール事件 �年�イギリスの対応�結果
�1911年
�英首相ロイド=ジョージがフランス支持を表明
�フェズ条約でフランスがモロッコを領有


19世紀後半のヨーロッパ(7)フランスの帝国主義

2012年10月04日 | トリオDE世界史

(1)フランスの世界戦略 �アフリカ�中心的植民地�インド洋の植民地
�横断政策
�アルジェリア(アルジェ)
�ソマリア(ジプチ)
(2)仏領インドシナ成立までの年 �コーチシナ東部3省�ヴェトナム全土�ラオス
�1862年
�1887年
�1993年
(3)仏領インドシナの地域 �1863年�1885年�1893年
�カンボジア
�ベトナム
�ラオス
(4)露仏協商 �通商関係の成立年�軍事同盟の成立年�鉄道
�1891年
�1894年
�シベリア鉄道
(5)英仏協商 �英仏対立の事件�英仏接近の原因�成立年
�ファショダ事件
�ドイツ建艦法
�1904年


世界でもっとも有名な15歳の女の子

2012年10月03日 | 何かの足しになれば

 アンネ=フランクの話を聞きました。彼女の日記には「つまらない人生は送りたくありません。世界と人類のために働きたい」と書かれているそうです。もちろん、彼女は15歳の短い生涯でしたから、彼女が思い描いた人生は送ることができませんでしたが、まさにこの彼女の日記にこめられたメッセージは世界中の人々に伝わっています。その意味で、彼女の思い描いた以上に世界中の人々のためにコウケンすることができた人生だったといえます。

 彼女がそのことを成し遂げることができたのは、彼女が生きるために過ごした日常があったからではないでしょうか?その日常が後から見るとお起きに力になる。そのときは精一杯で、ほかにしたいこともできずにもがいているような日常こそに、大きなメッセージが含まれている。このことは今、日常を送っているわれわれにとって考えるヒントを与えてくれそうです。