歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

石橋山合戦(その3)―歴史雑感〔15〕―

2014年09月05日 00時18分09秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後


三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

合戦自体を記述した史料としては『吾妻鏡』と『平家物語』諸本があります。『吾妻鏡』は鎌倉期の基本史料ですが、やや簡潔ですから、本来は物語(文学)として虚構を含みますが、適宜『平家物語』、とりわけ『延慶本平家物語』第二末之十三石橋山合戦を利用することにします。

合戦は1180(治承4)年8月23日(ユリウス暦9月14日)に開始されます。『吾妻鏡』同日条では、寅刻(4時)に石橋山に頼朝は陣を張ります。そして、23日未明に陣を構えて、待機しているところに、大庭軍が到着して対峙し、次いで、「丸子河」(酒匂川)辺に立ち上る煙を見て、大庭景親は三浦一族の到来を知ることになります。時に「晩天」とありますから、夕刻以降となります。これでは、頼朝軍は夜に進軍して、未明に石橋山に到り、陣を構えて日中を過ごして、夕方まで至ったことになり、不自然さを感じます。

これに対して『延慶本平家物語』では、同日夕方に土肥を出発した頼朝軍は、早川(小田原市早川)まで進出しましたが、湯本方面からの側面攻撃を受けて包囲される恐れがあるので、後退して石橋山に陣を構え、山腹に盾を並べ、海岸道に逆茂木を設けるなど、防御態勢を取ります。そこへ大庭軍が押し寄せ、谷を挿んで対峙したとあります。時に酉刻(18時)でした。すなわち、土肥出発は夕方ではなく朝方の誤謬で、早川まで進出した頼朝軍は、小田原方面に大庭軍が進出中であることを知り、狭いとはいえ早川の平場での戦闘を不利と考えて、後退して山(石橋山)に陣を取り防御態勢を取ったところに、大庭軍が到着して、玉川の谷(現石橋の集落)を挿んで南の頼朝軍と北の大庭軍が対峙したことになり、これが夕刻ということになります。ただ、谷川の谷は南北の山間が約300m以上ありますから、確かに頼朝軍は参上に陣を構えたでしょうが、大庭軍は山上ではなく、谷の玉川北岸に陣を構えたといえます。以上の両書の記述は『延慶本平家物語』に信憑性があり、頼朝軍が先に石橋山に防御を構えたところに大庭軍が到着して、両軍が石橋山に対峙したのは23日夕方といえます。

景親は夕刻にもかかわらず攻撃を開始しようとします。朝方から戦闘を開始するのが常法なのに、翌朝を待たずにあえて暗くなる夕刻に戦闘を開始しようとする理由を、『吾妻鏡』『延慶本平家物語』ともに、三浦軍の頼朝軍への合流前に単独の頼朝軍を撃破するためとしています。これに加えて、戦線が膠着すれば、遅くとも頼朝の山木夜討ちから日を発てずに蜂起した甲斐源氏軍と頼朝軍との合流の可能性があることがあげられます(秋山敬氏、「治承四年の甲斐源氏」『甲斐の成立と地方的展開』1989年角川書店)。すなわち、頼朝軍・三浦軍・甲斐源氏軍の3者合流前の決着です。三浦軍は一族の総力を挙げての出撃でしょうから、頼朝軍の3百騎を上回る軍勢であろうし、甲斐源氏(具体的には安田義定を主力とした軍)の軍勢はそれ以上と推定できます。いわば、頼朝軍が一番弱勢であったといえますから、景親が兵力の格差(大庭軍3千騎)に物をいわせて、夜に入る不利を承知で、短時間に撃破できるとして、攻撃に出たことはそれなり合理性があるといえましょう。

『吾妻鏡』では、頼朝軍が小勢にかかわらず奮闘し、佐奈田義忠主従が戦死し、そして、「暁天」に至り「椙山」に頼朝が遁れるとなっています。そこで、『延慶本平家物語』により戦闘の経過を見てみます。開戦を決意した景親は、まず開戦の合図として3千騎にときの声を上げさせ、鏑矢を射ます。鏑矢は開戦を告げるものとして、これを射ることは当時の合戦の作法でした。これを受けて、頼朝軍からは北条時政が、大庭軍からは景親が出て、声合戦を行います。これも作法です。以上開戦の作法に従った記述となっています。ただ、実際に声合戦があったかどうかは定かではありません(なお、あったとすれば、それは後述の迂回策のカムフラージュでしょう)。そして、頼朝軍は佐奈田義忠を先陣に、大庭軍は景親の弟俣野景尚(久)を先陣にして、戦闘を開始します。時に「廿三日のたそがれ時」とあります。先の「酉刻」とは17~19時の間を指しますから、現在の9月14日の小田原の日没は17時53分ですから、戦闘はまさしく日没前後に始まったことになります。この日は雨が降り、夜に入ると豪雨となりますから、雨と暗くなろうとしているところで戦闘は始まったことになります。義忠と景久が組み合った時、景久の従兄弟長尾爲宗が「暗さはくらし」のため、組み合った上下の何れが敵(義忠)かと問いました。実際にこの場面があったかは疑問ですが、すでに日没となり、闇夜で戦闘が行われたことになります。

では、義忠と景久は何処で戦闘を交え、義忠は戦死したのでしょうか。義忠戦死伝承地として「ねじり畑」があります。当地は佐奈田神社から南に下った小谷の途上にあり、谷南の小丘上には義忠郎従豊三家安を祀った文三堂があります。玉川の谷北側に布陣した大庭軍に対して、南方の山上に布陣したのが頼朝軍です。佐奈田神社は南約200mに位置しています。すなわち、義忠戦死伝承地は頼朝軍の布陣したところからは背面に当たるわけです。頼朝軍の布陣した山は谷から標高差約100mはあり、その斜面は急傾斜地です。現在は大きな木はそれほどありませんが、当時は現在以上に木々は密生していたと思えます。とすると、この斜面を登って、正面から頼朝軍を攻撃、それも暗い中ですることは兵力差があるとはいえ上策とはいえません。『延慶本平家物語』には攻撃前進をする俣野勢を「弓手(左)は海妻手(右)は山暗さはくらし雨はゐにいて降る」と記述しています。すなわち、大庭軍は、山正面では矢合わせを主体として牽制し、その間に海岸道から搦め手(背面)に迂回する作戦をとったと考えるのが合理的です。この動きを察した頼朝が迎撃のため義忠を向かわせたことになります。しかし、義忠勢は「十七騎」、景久勢は「七十三騎」と兵力差もあり、義忠の奮闘にもかかわらず、義忠主従の戦死でこの戦闘は大庭軍の勝利で終わったことになります。すなわち、海岸道の逆茂木を排除して南下した景久勢が頼朝軍の背後に回り、現佐奈田神社付近で義忠勢と戦闘になり、「山のそわを下りに大道まて三段計そころひたる」と、組み合いながら斜面を転げて、「ねじり畑」付近で義忠が戦死したと考えます。この俣野勢の攻撃は「馬次第にそ懸たりける」と騎乗で行ったことになっていますが、逆茂木を排除して、背後から頼朝陣へ回るには正面ほどではありませんが、木々の生えた斜面を上らなければならないので、馬より下りて徒歩で斜面を上がったと考えます。そして、、『吾妻鏡』『延慶本平家物語』ともその後の戦闘については記述がなく、暁に至るとあります。このことは、すでに夜に入り、かつ豪雨となり、視界を求めようがないので、戦闘を一時停止しなければならなくなり、大庭軍は攻撃を休止したといえます。要するに両軍とも戦闘を休止し、対峙に移り、翌24日早朝を迎えることになります。すなわち本合戦の初日の石橋山の部の終了です。

(続く)

(2014.09.04)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石橋山合戦(その2)―歴史雑... | トップ | 西安交通大学日語系1期生卒... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本史(古代・中世)」カテゴリの最新記事