花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

ベッリーニ《神々の饗宴》の明朝青花磁器。

2020-08-25 21:22:38 | 西洋絵画

前回、バルトロメオ・ビンビ作品の画中に描かれた中国磁器と見られる割れた陶磁器について触れたが、ゲストの山科さんから「KRAAK(クラーク)」ではないかと教えて頂いた。(多謝です!!>山科さん)

KRAAKをWikipediaで調べていたら、関連事項に「ヨーロッパ絵画の中国磁器」の項があり、なんと「イタリアでは、最初に知られている中国磁器の碗の描写は、ジョヴァンニ・ベリーニの《神々の饗宴》(1514年)である。」との記述を見つけてしまった

https://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_porcelain_in_European_painting

ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430年頃 - 1516年)は私の大好きな画家の一人で、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの《神々の饗宴》は何度か観ており(WNGは無料だから2回のワシントン滞在時は日参♪)、確かに中国磁器らしい器の記憶はあるのだが、それが「イタリアでは、最初に知られている中国磁器の碗の描写」だったとは   おおお...恥ずかしながら知らなかった

ジョヴァンニ・ベッリーニ(ドッソ・ドッシ、ティツィアーノ加筆)《神々の饗宴》(1514/29年)ワシントン・ナショナル・ギャラリー

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Giovanni_Bellini_and_Titian_-_The_Feast_of_the_Gods_-_Google_Art_Project.jpg

 

《神々の饗宴》一部拡大。

「イタリアでは、最初に知られている中国磁器の碗の描写は、ジョヴァンニ・ベッリーニの《神々の饗宴》(1514年)である[1]。 碗の様式は明代の青白磁器で、ペルシャ、シリア、エジプトに輸出されていたことが知られている[1]。 ベリーニの絵は、中国磁器に興味を持っていたことで知られるアルフォンソ・デステ公爵の依頼によるものである[1]。ベッリーニが中国磁器のサンプルを見つけたのは貿易ではなく、1498年(ドージェ・バルバリーゴへの贈り物)、1498年と1508年(シニョーリアへの贈り物)にマムルケ・スルタンからヴェネツィアに贈られた外交的な贈り物の中にあったようである[1]。」(英版Wikipedeiaより) 

[1]Bazaar to piazza: Islamic trade and Italian art, 1300–1600 by Rosamond E. Mack p.105ff

ベッリーニが描いた中国磁器がヴェネツィア共和国政府への贈り物だとしたら、年代的にも嘉靖以前なので景徳鎮窯の高級品かもしれないと思いたい(希望)。西アジア経由だから永楽年間の鄭和の遠征時の物かもしれないし、年代を近くにすれば、「成化期(1465 - 1487年)には青花の作品もあり、薄手に整形された青花の碗は欧米でパレス・ボウルと呼ばれて珍重されている」(Wikipedelia)との記述もある。

それにしても、ベッリーニが青花磁器を目敏く見つけて作品に使うなんて、歳をとっても(80代!)珍しい貴重な美術工芸品などにも関心を持つ芸術家の好奇心(サガ?)なのかもしれないなぁ。デューラーも「彼はたいそう歳をとっていますが、今でも絵画では最高の方です。」(1506年)って書いているし

ちなみに、アルフォンソ1世・デステ (Alfonso I d'Este, 1476 - 1534年)の「アラバスターの間(I camerini d'alabastro)」(フェッラーラ)を飾った《神々の饗宴》を含む絵画シリーズは、現在、ワシントンNG、プラド美術館、ロンドンNGに分散所蔵されているが、当時の「アラバスターの間」装飾プログラムの再現画像がネットで見られる。どうせなら、本物を並べて観たいなぁ~

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Castello_estense,_ricostruzione_dei_camerini_d%27alabastro,_01.jpg

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Castello_estense,_ricostruzione_dei_camerini_d%27alabastro,_02.jpg



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10 コメント

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青花 (山科)
2020-08-26 09:48:25
永楽~宣徳の青花磁器 景徳鎮ですね。デザインは、エディルネのムラート・モスクのチャイナ風タイル(URL)に近いようです。
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山科さん (花耀亭)
2020-08-27 00:24:01
ありがとうございます、やはり景徳鎮ですかぁ(^^)v
ご紹介のタイルデザイン、小三角を積んだ大三角みたいで、確かに似ていますね(・・;)。やはり大陸続きだとお互いに影響し合うものなのでしょうね。
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神々の饗宴 (山科)
2020-08-27 05:12:59
ワシントン・ナショナル・ギャラリーのサイトURLでこの画 注意深くみてみたんですが、地面においた青花磁器もあります。そして、奇妙に思ったのは前景のポセイドンなどの身体のバランスがおかしく妙に顔が大きく寸詰まりなことです。左のほうの女性も足が大きすぎる気がします。ティティアーノなど複数の画家が関わった画のせいか、それとも顔に誰かの肖像をいれる目的で大きくなってしまったのか? 85歳という高齢の作品のせいなのか? よくわかりません。
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Unknown (通りすがりの者)
2020-08-27 19:05:43
ベッリーニは良いですね。50を過ぎてから工房での仕事を脱して、自分の志向する作品世界に向かうというところも好感が持てます。ところでWNGのバッカスの絵は、背景の木々があっさりしていたのを、ティッツアーノ が茂らせたが、人物像には手をつけていない、とのことなので、本人の図象と思います。女性にちょっかいを出している神は、確かに顔が大きいとは思っておりました。晩年の作の人物像にはふっくら型が多いのと関係しているのかもしれませんね。
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山科さん (花耀亭)
2020-08-28 01:33:51
この作品には3点の青花磁器が描かれていますよね。2点は模様が似ていても、それぞれ形状が異なるのが興味深いです。今回改めてこの作品における青花磁器の効果に気が付きました(^^ゞ
ちなみに、偶然にも!今日(昨日?)本屋で立ち読みした「芸術新潮」9月号で、「焼きものと悪」と題する特別読みもの中に、なんとこの作品が出ていたのですよ!!

で、そうーなんです、不自然に顔が大きいのですよね(;'∀')。お歳のせいでしょうか??
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通りがかりの者さん (花耀亭)
2020-08-28 01:51:18
おお、通りがかりの者さんもベッリーニ好きでしたか(^^)
顔の大きさは本人の図像ということで、なにやらご愛嬌の感がありますね(;'∀')
で、おっしゃる通りで、実は私も晩年の《ノアの泥酔》に似ているかもと思ったのですよ。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Drunkenness_of_Noah_bellini.jpg

それから、『イタリア絵画史』を久々に再読し、ロンギはやはりイタリア人だなぁ、と思いましたです(;'∀')
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Unknown (通りすがりの者)
2020-09-02 13:56:49
ウイーンにあるベッリーニ晩年の裸婦は、それまでの聖母の容貌に比べてとてもふっくら、WNGの幼いバッカス像もそうですね。ところでロンギは、評価基準を理論的に整理して論じていますが、それでもやはり本人の趣味が大きく影響していると思います。画家の評価は時代にも大きく関係していて、忘れられていたボッチチェリはラファエル前派が再評価し、19世紀に低評価だったカラバッジオは、ロンギが再評価したわけですが、社会主義が高揚した時代、浮浪者や街の女を聖母や聖人のモデルにした事で、高評価を得たという側面もあります。フェルメールもかなりの程度忘れられていたが、ある画商が持ち上げたことで、評価が高まった。現代アートの評価が、世界で100人ほどの画商や評論家が決めているという話もあるわけで(アートワールド)、このあたりは昔から一貫してきたと思います。やはり絶対的な基準などないのでは。
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通りがかりの者さん (花耀亭)
2020-09-03 02:29:02
『イタリア絵画史』を再読すると、確かにロンギ本人の趣味かもと思えました(^^;。私的にはロンギはやはり素晴らしい存在ですが、通りがかりの者さんがご指摘されたような北方絵画やリベーラの写実に対する言及や、引用している作品も恣意的で、やはり本人の趣味でしょうね(;'∀')。なんだかミケランジェロの北方絵画に対する見解をロンギも引き継いでいるように思え、イタリア人特有の造形感覚なのではないかと考えてしまいました(^^;
で、なるほど、絵画の評価は時代の影響を受けるものなのですねぇ。画商や評論家の思惑で動く現代アートはどうも苦手です。評価に絶対的基準は無いのですから、自分の眼を鍛えるしかないのかもしれませんね。
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Unknown (通りすがりの者)
2020-09-03 16:45:08
現代アート特に抽象は、そこに何が描いてあるのかすら誰にもわかりません。ロスコの巨大塗り絵やイブ・クラインの青一色、ポロックの現代書道を見せられて、何か言える人はいないでしょう。そこで、意味を与える評論家が必要になるわけで、その他大勢は彼がいうことを真に受けて信じるしかない。詐欺師とその信徒のようですね。それに対して、何もわからなくてもよい、感じれば良いのだ、というのはある種の欺瞞です。投機ならば、買う人と売る人だけでぐるぐる回るゲームで、さらに気味の悪い世界となるわけです。だから、現代アートといえども具象を離れない人を応援するしかないのだ、と思っています。。ただし具象でも、村上隆とかは勘弁してほしいし、奈良美智も本人がよく飽きないと感心してしまいます。ただ美大では、かっこいい抽象を見つけたものが勝ち、のようで未来は暗いですね
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通りがかりの者さん (花耀亭)
2020-09-04 01:01:13
「疑惑のカラヴァッジョ」で美術マーケットは魑魅魍魎の住む世界だと思ったのですが、現代アートの世界もマーケットがらみで奇々怪々のようですね(;'∀')
作家や評論家、美術マーケットに関わる人たちは意味とか解釈とかを付加価値にして高く売らなくてはならないのでしょうから大変ですね(^^;
通りがかりの者さんと同じで、私も抽象画よりも具象画の方が好みなのですが、稀に素晴らしい作品に出合うことがあります。川村記念美術館で観たバーネット・ニューマン《アンナの光》は素敵でした(*^^*)
現代アート苦手の美術ど素人が言うのもおかしいのですが(汗)、西洋美術の歴史は既存の価値観を絶えず覆しながら歩んできたのですから、デュシャン以降の現代アーティストも各自格闘しているとは思いますが、小手先ではなくデュシャンを超えるインパクトある革新を期待してしまいます。
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