花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

CARAVAGGIO:The Final Years 展 (7)

2005-05-08 01:29:44 | 展覧会
<第4室> ― シチリア―
「ラザロの蘇生」(1608-9)    シチリア州立メッシーナ美術館 (メッシーナ)
 http://www.wga.hu/html/c/caravagg/10/65lazar.html

「ラザロの蘇生」向かって左方向から注し込む強い光こそラザロを蘇生させる聖なる光だ。「ラザロよ、出て来たれ」と指差すキリストの顔が逆光にシルエットとなっている。ラザロの十字架を思わせる硬直した身体の右手の平は光を直接に受け、今生き還ろうとしている。見守る人々は驚き光源に目を向ける。
教会の設置場所の光窓に応じて構図を決めたCARAVAGGIOを考えれば、多分、この絵が飾られていたクロチーフェリ修道会の礼拝堂は左に窓があったのかもしれない。光源を凝視しようとする人々のなかにCARAVAGGIOの自画像と思われる男がいる。いつでも画家は自らを目撃者として描いているのが面白い。画家の視線は観る者の視線をも誘導する。
構図的に上部空間を広く取り人物をフリーズ状に並べる構成はシチリア時代に共通して見られる。ラザロの側で心配するマルタとマリアを観ていると、ローマ時代より心情的に訴えるかのように感じられた。しかし私的にはシチリア時代の作風はどうも粗過ぎるようで、昔の画家を想うとあまり好もしくは思えない。ちなみに、ミア・チノッティ『カラヴァッジオ』によれば、1950年の修復調査時、マルタやマリアはCARAVAGGIO筆だが、衣装等は助手の手によるものとわかったそうだ。

この「ラザロの蘇生」について、宮下規久朗氏は著書『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』で「マタイの召命」と対比をしながら、両者ともキリストを見ておらず、光とキリストの声だけによる、「マタイ」は内面の覚醒であり「ラザロ」は死からの覚醒であるとしている。なるほど…と、とても興味深い。