遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『明智光秀・秀満』  小和田哲男  ミネルヴァ書房

2020-08-17 22:25:02 | レビュー
 本書の新聞広告記事が目に止まり、読んでみた。2019年6月に、「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの一冊として出版されている。明智光秀とその女婿となった秀満、この二人の戦国武将としての行動と人となりを諸史料及び現在までの諸研究の成果を引用し、その解説を踏まえて著者の見解を展開する。人物評伝である。

 冒頭の表紙に、「ときハ今あめが下しる五月哉」という発句が記され、明智光秀像が載っている。明智光秀像は大阪府岸和田市の本德寺藏の掛幅だそうである。
 この発句は世に親炙しているし、この発句が光秀の人生を象徴するものとなる。この評伝も、この発句に至るまでの彼の人生を史実から明らかにし、この発句をどう解釈し、本能寺の変をどうみるかへと展開していく。
 
 光秀は信長から安土城での徳川家康接待役を命じられた。この接待準備の途中で、光秀の用意した魚が腐り、失態を演じたことで、接待役を降ろされたという『川角太閤記』の記述が残され、世に流布している。著者はこれはなかったと断じている。
 著者は当時の戦の情勢変化から信長が判断して光秀を接待役からはずし、秀吉の中国攻めの強化のために光秀に出陣を命じたのだとする。それで5月17日、光秀は安土から坂本城にもどり、さらに出陣の準備のために26日、丹波亀山城に戻ったのだとみる。
 信長は光秀の出陣にあたり、「出雲・石見の二か国を与える。その代わり、丹波と近江の志賀郡を召し上げる」と使いの青山与三に伝えさせた。『明智軍記』にこのことが記されている点について、それは信長への怨恨説の理由にはあたらないが、光秀にとっては政権中枢で近畿管領的な役割を担うことから遠ざけられるという左遷意識を強めることになったと解している。それより、著者は中国攻め強化のために光秀が出陣するのは、秀吉の指揮下に入ることを意味し、プライドを傷付けられる形になったことに光秀が我慢できなかったのではないかと考察し、著者はこの点を重視している。興味深い視点だ。
 信長から出陣命令を受けた後、光秀は愛宕山に登り、愛宕大権現に戦勝祈願をするとともに、連歌の会を催した。その発句が「ときハ今あめが下しる五月哉」である。なぜ出陣の前に連歌会をするのか、今まで疑問を抱いていた。著者は当時の戦国武将の風習として、戦勝祈願の一環として連歌会を行うのは普通のことだったと説明している。
 この戦勝祈願と連歌会が、中国攻めへの出陣ではなく、信長打倒のための戦勝祈願だったことになる。これは第六章で詳しく語られて行く。

 さて、この評伝の構成と興味深い点をご紹介して行こう。
 第一章 明智光秀とはそもそも何者か
 著者は諸研究の成果と現存する明智氏系図などを材料に紹介・引用しつつ、光秀の前半生は謎だらけであり、確実な説がない実状だという。ここでは諸説が提示されている。文献の信憑性をどうとらえるのかに関心が湧く。
 その結果、光秀の人生の期間を「1528?~1582」と表記することにもなっている。
 光秀が土岐氏の庶流である明智氏の中のさらに支流に位置することだけはまず事実といえそうだ。
 
 第二章 織田信長に仕えるまでの光秀
 まず、斎藤道三二代がかりの国盗り説を紹介するとともに、光秀の叔母小見の方が道三の後妻になったとすれば、光秀が道三の近習に仕えていた可能性があることを論じている。道三と義龍との間での長良川の戦いには、理由は不明だが光秀が中立の立場を取ったという。そして、義龍が明智城を攻めた折に、この戦いで討ち死にした明智光安(宗宿)の勧めにより、光秀が一族とともに城から脱出し家名再興を期すという経緯を考察していく。またこの明智城がどこかについては、長山城と瀬戸城の二説があるという。
 ここで、秀満の出自を考察しているが、史料に諸説あり現状では秀満もまたその確定ができないようだ。それを踏まえて著者としての可能性を考察している。秀満の人生の期間は「?~1582」と期されることに。
 いずれにしても、光秀が浅倉義景に仕えるまでの期間の彼の遍歴は不詳のままなのだ。 著者は寛永7年(1630)に筆写された時宗の同念上人の記録にある文を引用する。「惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前浅倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」という一文である。著者はこれを確かな情報と判断し、考察を展開している。
 結果的に、足利義昭の越前入国、細川藤孝との出会いと関係の深まりが、光秀にとり戦国の世に頭角を現す機会を得る契機となる。つまり、光秀が義昭入京に関して、義昭・藤孝主従と信長との橋渡し役を担当することになる

 第三章 織田信長に仕える光秀
 光秀が義昭と信長の双方に仕えるという両属の立場にあった状況を考察していく。
 義昭入京後、京都堀川の本圀寺を仮御所としていた時、三好三人衆の反撃で京都本圀寺の戦いが起こった。この時の光秀の働き。さらに、二条城築城の折の光秀の立場。京都奉行の一人としての光秀の立場。著者はこれらを考察している。
 信長の越前攻めが淺井長政の謀反により頓挫し、信長が危地を脱出する。この際、「金ヶ崎退き口」で秀吉が殿をつとめたことは小説などでもよく描かれる。この殿の戦いの中に光秀が加わっていたということがわかる史料(文書)が残されているという。このことを本書で初めて知った。一方、著者は姉川の戦いに光秀が加わっていたかどうかはわからないという。
 著者は光秀の両属の立場について、「義昭が将軍として信長に推戴されている間は光秀も義昭を見限ることができなかったのかもしれない」と、見限る時点の判断には慎重な見解表明にとどめている。
 
第四章 信長家臣として頭角を現す光秀
 信長家臣として光秀が頭角を現していくプロセスで重要なポイントになる局面の考察を展開していく。興味深い記述を要約してみよう。詳細は本書をお読みいただきたい。
*志賀の陣で、光秀は宇佐山城将に抜擢された。これは城をまかされたにすぎない。
*比叡山焼討ちにおいて、光秀は信長の命令を忠実に実行して行った。
*比叡山焼討ち後に、光秀は志賀郡を知行地として信長から受け、坂本城築城を始める。 これは城付知行であり、著者は光秀を「一国一城の主」第一号と述べる。
*信長は義昭を追放した後、村井貞勝を京都所司代に、光秀を補佐役に任じている。
*義昭が立て籠もった宇治・槇島城の戦いで、光秀は信長軍として加わっていた。
*光秀の軍事力構成は、直臣、一族衆、与力(土豪を配下に組み込む)、旧幕府衆。
 つまり与力・旧幕府衆との主従の絆はそんなに強いものではない。光秀は熟知のはず。
 第五章 光秀の丹波経略と丹波の領国経営
 丹波経略をまかされた光秀がかなり苦労した経緯が史料ベースで考察される。
 一方、光秀の領国経営は善政を布いたものだった事実が具体的な事例をあげて解説されている。どちらかといえば、地元の人以外はあまり知らない事実であり、光秀のイメージを変えるものとも言えよう。

 第六章 本能寺の変の謎を解く
 この章が読者にとっては一番関心のあるところだと思う。私自身やはり一番興味を覚えた。というのは、今までに小説や風説でイメージを抱いていた「本能寺の変」とはかなり異なる軌道修正と見方の広がりを得ることができた。現在時点での史料の新発見や研究成果が幅広く取り込まれていて、分かりやすく解説されている。

*信長の京都馬揃えの実施を著者は正親町天皇への圧力と考えている。信長・朝廷対立説である。一方、最近は、信長と朝廷は協調していたとする論調がふえているという。この解説がまず興味深い。
*信長の計画した正親町天皇の安土行幸問題と、朝廷の宣明暦と信長が支持した三島暦の並存をやめ、信長が三島暦に統一しようとした暦問題が具体的に考察されている。
*冒頭で述べた連歌会後の光秀軍の動きが本能寺襲撃に至るまでの経緯が詳細に説明される。
*天正10年3月の武田攻めに従軍した光秀の目に映じた信長の行為に対すし、信長の暴走と写った問題意識が抽出されている。著者の考える本能寺の変の謎にも関わる個所である。
*光秀の愛宕参篭で行われた連歌会の百韻の内容について、それをどのように読み解けるかに触れている。津田勇氏の「愛宕百韻に隠された光秀の暗号」の引用とその解説は興味深い。日本の古典を背景に援用していることと源氏と平氏の抗争にまで言及できうるという解釈がまた一つ、広がりを加えている。
*光秀謀反をめぐる諸説の解説がとりわけおもしろい。
 後藤敦著「本能寺の変学説&推理提唱検索」という諸説整理論文を紹介している。大きくは3分類し、さらに諸説を細分化して50の説に整理されているという。これが「本能寺の変の真相をめぐる諸説」としてその名称が一覧表としてp198に掲載されている。
 これほどに、様々な真相解読説があるとは知らなかった。著者は主な説について、その是非の考察を展開している。諸説の全体像とその問題点を概略理解するのに便利であり、参考になる。
*著者自身は、本能寺の変は、光秀の個人レベルの問題が原因ではなく、光秀のクーデター、政変だと捉え、その原因として「信長非道阻止説」を唱えていると説明する。

 第七章 本能寺の変後の光秀と山崎の戦い
 本能寺の変後、光秀の脳裡に想定していた状況と行動、その影響に齟齬が次々に発生し、光秀のめざす政権への道が破綻をきたして行く経緯がわかりやすく説明されている。
 瀬田城城主山岡景隆が瀬田橋を落としていたことが大きな意味をもっていたことがわかる。細川藤孝・忠興父子に背かれたことと秀吉の中国大返しが光秀にとり想定外の誤算だったことが良く分かる。山崎の戦で陣取りに遅れをとったことも敗因の一つと言えよう。 秀満が坂本城で最後に取った行動を知らなかった。秀満の人となりが窺えるエピソードである。私は秀満という人物に興味を持ち始めた。

 第八章 光秀の人となり
 どうも光秀は、天下をとった秀吉の情報操作により謀叛者・主殺しの悪人イメージを浸透されてしまっているようである。「歴史は勝者が書く勝者の歴史である」ということに連なる一側面なのだろう。光秀の人となりのプラス面がいくつか実例で紹介されている。本書を読み、明智光秀を神として祀る「明智神社」があることを初めて知った。「御霊神社」という名称で、明智光秀を神として祀る神社があるというのもおもしろい。御霊信仰とのつながりを連想させる。

 第八章の後に「参考文献」の一覧が付されいる。巻末には「明智光秀・秀満年譜」も掲載されている。

 改めて、明智光秀の功罪を捉え直してみる上で、参考になる評伝である。
 まず、現存する史料の信憑性ならびに史料に記されている情報をどのように読み込むか。客観的な事実、真相を知るためには、いくつものハードルがあることがよくわかる。

 「おわりに」の中で、著者が記す一節を最後にご紹介しておこう。
「私自身は朝廷黒幕説には批判的で、光秀単独説を唱えてきたが、信長と朝廷が融和的だったとなると私の『信長非道阻止説』も成り立たなくなる。この点は本文の中でふれたように、光秀と親しい公家たちが信長の言動に危機感を抱いていたのに加え、光秀自身も、天正10年3月の武田攻めの後、いくつかの点で信長が異常な行動に及んだことを目のあたりにしており、『非道阻止』の考えはあったとみている」(p298)と。
学者らしい一節だと思った。

 ご一読ありがとうございます。