遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『芙蓉の干城 (ふようのたて)』  松井今朝子 集英社

2020-02-24 19:00:18 | レビュー
 この小説は「小説すばる」の2017年7月号~2018年6月号に連載され、それに大幅な加筆・修正を加えて、2018年12月に単行本として出版されている。久しぶりに著者の作品を読んだ。
 本を手に取る切っ掛けになったのは「干城」というめずらしい語句に引かれたからである。本書では「干城」に「たて」とルビをふっている。手許の広辞苑をはじめ数冊の国語辞典を引くと、「かんじょう」という見出しでこの語句が載っている。中国の『詩経』の周南に出てくる語句だと言う。干(=盾・楯、たて)と城の意であることから、国家を守護する武士、戦士、軍人を意味するという説明がある。用例として「国家の干城」が挙げられている。

 この言葉は、この小説の中心人物となる桜木治郎が妻の従妹に当たる大室澪子(みおこ)と交わす会話でまず出てくる。
 治郎「軍人は国家の干城といわれるくらいだからねえ」
 澪子「国家のカンジョウってどういう意味なの?」
澪子の素朴な質問に治郎は上記の意味合いを説明する。なぜ、この会話になったか。それは、江戸歌舞伎を演じる木挽座という大劇場で、澪子が陸軍の二等主計である磯田遼一と観客席で芝居をともに見るという場でお見合いをする羽目になったからだ。桜木夫妻はそのお見合いの場に連なる立場なのだ。
 お見合いの始まる前の木挽座での情景描写からストーリーが始まる。
「芙蓉の」という語句が冠されることで、干城の示す意味合いが大きく変容していく。そのプロセスをお楽しみいただきたい。

 まず面白いのは登場人物の設定である。
 桜木治郎は、江戸歌舞伎最後の大作者、三代目桜木治助の孫であり、早稲田大学に勤める教員である。祖父が木挽座・狂言作者の総帥であったことから、木挽座は治郎の幼い頃の遊び場ともなっていた。
 大室澪子は治郎の妻の従妹であり、桜木宅の居候である。築地小劇場の劇団研究生となり、比較的穏健派に属するが社会主義の洗礼を受けていて、女優となることを志している。治郎を介して知り合った元歌舞伎役者の恋人が既にいる。親には内緒であるために、娘が婚期を逸するのを危惧して澪子の両親が強引に見合いの場を設けたのだ。
 ところが、これがストーリーの発端となっていく。
 芝居が始まる前に、治郎は六代目荻野沢之丞の楽屋に挨拶に出向き、その直前に小宮山先生と役者の荻野沢蔵が挨拶をした人物を目にする。沢蔵に言われて楽屋へ行っての挨拶を控える。大間で、劇場に来るのが遅かった磯田はこの小宮山を偶然見かけて挨拶をする。磯田は、小宮山から「いやはや、お互いとんだ七段目というところだねえ」と返事されるが意味がわからない。澪子はその姿を大間で目に止めていた。
 この小宮山先生が、翌日、三十間堀の三原橋近くの川っ縁で、男女の死骸となっていたのである。男は滅多刺しにされ、女は紐か何かで絞殺されていた。その女は木挽座の芝居に連れとなっていた花柳界の女だった。
 
 この小説の構想には3つのテーマがあるように受けとめた。
 中心となるのは、桜木治郎による謎解きというテーマである。小宮山と呼ばれる人物が殺された原因の究明と犯人の逮捕という捜査に協力するための謎解きである。この事件を担当するのは築地署の笹岡警部とその部下の薗部理(ただす)。木挽座帰りに被害に遭ったと読んだ笹岡警部は、木挽座に聞き込みに行き、そこで千穐楽に沢之丞の楽屋に挨拶に来ていた桜木治郎と出会う。以前に木挽座で発生した事件で治郎が協力して事件を解決していた。そんな事から、治郎は木挽座を起点としたこの小宮山殺害事件に巻き込まれていく羽目になる。謎解きに携わる行動の比重は笹岡から治郎にシフトする。なぜなら、芝居見物の途中で、澪子が小宮山たちの姿を観客席から眺めて、不審な状態を目撃していたことを治郎が聞いていたからである。治郎はこの事件に木挽座との関係もあり関心を寄せることになった。
 もう一つの謎解きが加わっていく。それは、千穐楽の楽屋挨拶に治郎が出向いたときに聞いたことに関係する。沢之丞の養子となった四代目荻野宇源次は二十代で夭折していたのだが、その右源次の一人息子で、沢之丞の孫が、五代目右源次をこの秋に襲名するというのだ。そこで治郎は四代目右源次の評伝をまとめて、五代目襲名へのはなむけとしたいと思う。だが、四代目の芸風に惚れ込んでいた治郎だが、夭折した事情を皆目知らなかった。そこで、評伝を書くにあたり、四代目の年若き晩年の事情を究明しようと、関係者に聞き込みを進め謎解きをする行動が並行する。そして、二つの謎解きに接点が見出されていく。この謎解きのプロセスがおもしろい。

 2つめのテーマは、昭和初期の江戸歌舞伎と劇場の雰囲気(/状況)を描き出すということにある。歌舞伎役者の内実や芸風、楽屋と舞台での姿、歌舞伎芝居の演目、設定された木挽座という劇場を内側から眺めた舞台裏環境の描写、演劇を支える関係者の姿と役割・人間関係など、歌舞伎演劇の全体を当時の時代的有り様として描くという意図があると思う。それが謎解きと絡めて織り込まれていく。治郎の謎解きのプロセスで、劇場関係者が次々と登場してくる。それが、劇場の舞台裏という様々な環境・場所の描写と結びついていく。歌舞伎および劇場全体の構造イメージをバーチャルに形成していく契機にもなる。歌舞伎という伝統芸能の世界を身近に感じる材料を与えてくれている点がいい。

 3つめのテーマは、昭和初期の日本の時代情勢、社会状況の雰囲気を描き出すということだと思う。これは小宮山先生と呼ばれた人物の背景、軍人磯田、社会主義派女優という立ち位置の澪子という対極的な人物設定を介して織り込まれて行く。
 このストーリーは、1932(昭和7)年5月、「五・一五事件」が発生し、総理大臣犬養毅が暗殺された翌年の4月23日から始まって行く。
 小宮山先生とは小宮山正憲のことだとすぐ判明する。欧州大戦(第一次世界大戦)が終わった翌年、大正8年に発足した有名な右翼団体・征西会の幹部である。小宮山自身は関西に拠点を置く人物で、征西会の資金運営面での幹部として描かれている。フィクションという形ではあるが、当時の資金作りの仕組み・裏話にも触れているのが興味深い。また思想的には東冀一が征西会の中枢に位置づけられている。一方、笹岡警部の発言として、当時の暗殺という「一連の事件には神武会の大川周明がからんでた。征西会の東冀一も大川の同類だから、・・・・・」などという部下との会話も織り込まれて行く。五・一五事件が起こった直後の時代状況を直接の背景にしながら、欧州大戦終了後からの国際情勢、国内情勢の推移も描き込まれていく。日本の近代化の一面を、国家主義の形成の雰囲気を漂わせつつ描き込んでいる。
 余談だが、神武会、大川周明は実在した。一方、小宮山正憲や東冀一はこの小説でのフィクションである。だが、著者は東冀一の設定に、北一輝という実在人物を投影させているのでは・・・・とモデルを考えたくなった。

 治郎は2つの謎解きをやり遂げる。2つの謎には接点があった。接点が発見されるプロセスが読ませどころになっている。そして小宮山の殺害には意外な真犯人がいた。真犯人が逮捕された後に、さらに意外な結末を著者は設定していた。それをエピローグで語る。おもしろい。
 
 謎解きのプロセスを第2、第3のテーマと絡めながら描き出して行くところが興味深い。昭和初期の時代情勢、社会状況を考える際のイメージと刺激を与えてくれる作品にもなっている。
 
 ご一読ありがとうございます。

この作品に出てくる時代背景・社会情勢の史実レベルの事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
【近現代(明治時代~)】 五・一五事件と二・二六事件の違い :「中学社会」 
五・一五事件 :「コトバンク」
五・一五事件~なぜ、海軍青年将校たちはテロリズムに走ったのか :「WEB歴史街道」
血盟団事件  :ウィキペディア
『血盟団事件』 - 交わるはずのなかった二つの格差 :「HONZ」
血盟団事件判決文  :「WIKISOURCE」
第一次世界大戦  :ウィキペディア
国際連盟  :「世界史の窓」 
国際連盟  :「コトバンク」
世界恐慌  :ウィキペディア
昭和恐慌  :「コトバンク」
満州国   :ウィキペディア
満州事変  :ウィキペディア
挙国一致内閣 :「コトバンク」
築地小劇場 :ウィキペディア
江戸三座  :ウィキペディア
歌舞伎座の歴史  :「松竹」
歌舞伎座の路地裏 ~木挽町~ :「歌舞伎座写真ギャラリー」
荻野沢之丞  :「コトバンク」
大川周明   :ウィキペディア
神武会    :「コトバンク」
北一輝    :ウィキペディア

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『奴の小万と呼ばれた女』   講談社
『家、家にあらず』
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