遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ブラタモリ 8 横浜 横須賀 会津 会津磐梯山 高尾山』 角川書店

2021-05-03 11:57:04 | レビュー
 藤沢市に短期間住んでいた時に横浜には数度でかけた程度。会津磐梯山は一度観光で五色沼に行ったことがあり、その沼の色が印象深かった。それくらいの接点だけだが、やはり訪れたことがある場所が出てくるのでこのブラタモリシリーズの第8弾を続きに読んでみた。NHK「ブラタモリ」制作班の監修による出版(2017年6月)である。
 本書には「横浜」(2016年5月14日放送)、「横須賀」(2016年6月18日放送)、「会津」(2016年7月2日)、「会津磐梯山」(2016年7月16日)、「高尾山」(2016年9月17日放送)の5回分が収録されている。
 それぞれ単発の放送であり、その地形・地質をまずベースにしながらタモリさんがブラリと歩く探訪からテーマの意図を解き明かしていく。読後印象として、今回はそれぞれのテーマがかなり絞り込まれた内容になっている印象をもった。

 本書の基本構成コンセプトは繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
  *ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
  *番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
  *番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
  *同行アナウンサーの番組裏話 本書は近江友里恵さんのトーク
である。
 第6弾の「熊本」で桑子真帆さんが最後のブラタモリと記されていた。本書掲載の「横浜」の放送日時から考えると、近江友理恵さんが二代目同行アナウンサーとなるようだ。 
 例によって、本書から私が学んだ要点を覚書としてまとめてみたい。それが本書を開いてみようという誘いになれば幸いである。

<横浜> テーマ 横浜の秘密は”ハマ”にあり!?
 横浜に開港場が置かれた時、横浜村は小さな村だったことは歴史で学び知ってはいたが、地形がどうだったかの意識はなかった。この番組内容を読んでナルホドと思った次第。
*現在の横浜中華街、横浜スタジアムあたり一帯、江戸時代には静かな内海であり、県庁のあたりは横に長い砂州が広がっていたという。その砂州こそが”ハマ"だった。
*横浜村の住民を現在の元町に移住させ、内海を埋め立てて”ハマ”を「開港場」として整備した。
 ⇒派大岡川(運河)、堀割を設け開港場を分断。現吉田橋のところに関門を設置。
  吉田橋:安政6(1859)年に仮橋架橋。文久2(1862)年に木造橋完成。
*JR関内駅は、この関門に由来する。つまり関門の「内」。開港場は関外。
*派大岡川の河床を利用して首都高速横羽線が走る。
 開港場当時の川幅は現在の根岸線の線路まで含まれる広さ。関内駅下に護岸の痕跡あり
*旧東海道に面した大綱金比羅神社の先にある「台の坂」あたりは、台町と名付けられ、、このあたりが「神奈川宿」だった。江戸時代の横浜の中心地。
 歌川広重の「東海道五十三次之内 神奈川 台之景」が描くごとく台の坂は海に隣接
 神奈川宿は宿場町かつ重要な港町(海上交通の拠点)。また眺望で知られる観光地。
 江戸前の魚が揚がる漁港で、御菜八ヶ浦の一つ(海産物上納/漁業権の保障)。
  ⇒”ハマ”は神奈川宿を開港地にしないための幕府の政略。ハマを神奈川湊と主張。
   当時は大型船は沖合に停泊し、はしけ船で神奈川湊に積荷を揚げ降ろししていた。
*”ハマ”の交通の不便さを、明治5(1872)年新橋・横浜間の日本初の鉄道開通で解消
 ⇒蒸気機関車に必要な真水は、掃部山公園の下に横井戸を掘り取水施設を設けた。
*相模川(取水口)から逆サイフォンの原理で日本初の近代水道を敷設 ⇒発展の一因に
<横須賀> テーマ なぜ横須賀は要港っスか?
*横須賀には米海軍横須賀基地と海上自衛隊の基地が並ぶ。
*横須賀にはもう一つの要港・浦賀港がある。ペリーが浦賀に来た。
 ⇒東京湾の浦賀水道は、浦賀側の水深が深く、千葉県側に浅瀬が広がる地形
  2万年前に陸地だった頃川が流れていた。それが海底の谷として残っているため
  浦賀港の入口にある燈明崎は夜間航行用に燈明堂が置かれたことにちなむ名称。
*浦賀の元廻船問屋の宮井家にペリーの鉄鍋と孫・ロジャスが贈った水牛の角が残る
*横須賀の起点は150年以上前にここにドライドックの近代的造船所が作られたこと。
 ⇒横須賀製鉄所(ドック建設)は幕末の幕臣、小栗上野介の構想から始まる。
 ⇒フランス人技術者レオンス・ヴェルニーが指導。ヴェルニー公園の名の由来になる
 ⇒浦賀港は用地確保が困難なため横須賀となる。横須賀の地形はトゥーロン港と近似
  ヴェルニーは「白仙山」(小丘)を切り崩し、伊豆石(安山岩)を使いドック建設
  3つのドライドックは現在も現役で稼働。
*白仙山を掘り下げて第1号ドックの建設工事中にナウマンゾウの化石が発見された。
*旧日本海軍の拠点が置かれ、軍港になるのに伴い第6号ドック(昭和15年)まで建設

<会津> テーマ 会津人はアイデアマン!?
 白虎隊の「ならぬことはならむものです」という唱和が、頑固で真面目な会津人のイメージを形成するが、会津の地形は会津人がアイデアマンであることを示すという。それを探すブラリ探訪となっていて、おもしろい。
*会津盆地は2本の断層に挟まれた構造盆地(地殻変動により形成された盆地)
 ⇒やませに悩まされない肥沃な土地に。東西13km、南北34km。南東が高く北西が低い
 ⇒湯川の作った南東部の扇状地はひときわ高い場所に広く安定した地盤を形成した
 ⇒盆地南東に蒲生氏郷が若松城を築城。総構。外堀約6km。深い掘と土塁。16の郭門。
*湯川の上流から引いた水路は城下町の道路の真ん中を通り、クランクさせていた。
 ⇒水を町中に行きわたらせるためのクランクではという仮説。水の分散と防災策。
*猪苗代湖を水源とする戸ノ口用水が開削された ⇒水不足解消の切り札
 ⇒ある区間は山を切通して用水を作った。理由は地質が火砕流の堆積物だったため。
 ⇒用水の水量は年間4500t、3万石分の水田を潤した。
 ⇒天保6(1835)年、大規模な改修により、飯盛山に「戸ノ口堰洞穴」を掘削
*江戸時代中期に佐藤与次郎右衛門が、会津の土壌に合わせた農業技術を体系化し「会津農書」執筆。農業に必要な技術を歌で覚える「会津歌農書」を考案した。約1700首。
*飯盛山にたつ「さざえ堂」。六角三層の木造の建物。堂内の通路は二重らせん構造。
 西国三十三観音巡りができたお堂で、かつてはスロープに添い33の観音像を安置。
 各観音像前の賽銭箱のお賽銭は樋を伝い一箇所に集積される工夫が施されていた。

<会津磐梯山> テーマ 会津磐梯山は”宝の山”?
 表磐梯、裏磐梯それぞれに、宝の山と唄われる理由が存在した。おもしろい。
*表磐梯:猪苗代湖畔の高台に立つ「天鏡閣」 塔屋からの猪苗代湖と磐梯山の絶景
 ⇒明治41(1908)年、有栖川宮威仁親王の別邸として竣工。ルネサンス様式の建物。
  3階に設置された「塔屋」は展望室。景色を楽しむためだけに造られた部屋。
*裏磐梯:明治21(1888)年に磐梯山が水蒸気噴火し小磐梯が山体崩壊。「岩なだれ」
 破壊された岩石や土砂が流れて堆積し、多数の「流れ山」(小丘)を造った。
 これが裏磐梯の湖沼群。そこから「五色沼」と称される状態が生まれた。
 ⇒岩なだれにより川が埋まり地下水脈化。地質の酸性度の違いが地中を通る水に影響
  酸性度の違いが水質を変化させ、湖沼に溜まった水の色として影響している。
 ⇒日本における近代的な火山研究のスタートに。帝国大学関谷清景教授らが調査研究
*山体崩壊で滑るのに恰好の斜度ができ、天然の裏磐梯スキー場を生み出した。
*磐梯山の北西、会津米沢街道沿い、大塩裏磐梯温泉。名産品の「山塩」
 ⇒磐梯山周辺は大昔は海の底。海底火山活動で火山灰が噴出・変質し緑色凝灰岩に。
  海水の成分が緑色凝灰岩の中に閉じ込められた。その岩盤を通る地下水が温泉に。
 ⇒「新編会津風土記」江戸時代の絵図に、「塩井」と付記して描かれている。
*山体崩壊後の荒れ野原に、会津若松の実業家、遠藤現夢が私財をなげうち植林。
 明治43(1910)年から2年かけ、アカマツなどを中心に約10万本、規模700ha。
 現在の裏磐梯の森再生のさきがけとなる。
 ⇒日本初の林学博士中村弥六が遠藤現夢に助言。五色沼の最西端、弥六沼の名の由来。*約5万年前、表磐梯側で最初の山体崩壊が発生しそのとき猪苗代湖が誕生した。
 翁島は5万年前の噴火でできた流れ山のひとつと考えられる。

<高尾山> テーマ 高尾山はナンバーワンの山?
 都心からわずか1時間で行けるとか。年間300万人もの登山客が訪れるとはスゴイ!
*昭和2(1927)年に開業した山岳ケーブルカー、高尾登山電鉄は、ケーブルカーの斜度が31度18分という急勾配。ケーブルカーの傾斜として日本一。距離約1km、高低差約270m
*高尾山は自然林。登山道1号路は山の尾根筋で、北斜面と南斜面では植生が異なる。
 南斜面は暖かい気候を好む常緑広葉樹。北斜面は冷たい北風が吹き、落葉広葉樹が生育
 植生の異なる木が同じ標高で生育。広葉樹の分布は、年平均気温約13度を境に分かれるのだが、高尾山はちょうどその境目近くの特殊な生育条件を生み出していると言う
*高尾山は標高599m、面積は2600ha。そこに生育している植物は1598種という。
 ⇒面積、標高をふまえて植物数を比べると世界でナンバーワンと言えるそうである。
  比較事例として、屋久島とイギリスを例示。
*高尾山の地質は砂岩と泥岩が交互に重なる「互層」。「小仏層群」と称される。
 その地層が押し上げられ、ほとんど垂直に地層が縦になっている。その地層の縦の割れ目や細かいヒビという無数の隙間に豊かな植物が育つことになった。植物にとって楽園。*高尾山には奈良時代に行基が開いたとされる高尾山薬王院がある。
 戦国時代、八王子城の城主、北条氏照が八王子周辺の土地を薬王院に寄進した。そして、「制札」を定めた。高尾山の竹や木、草でさえも、伐採した者は斬首に処すと。江戸時代、高尾山は幕府直轄領「天領」として保護された。明治以降は、皇室の土地、戦後は国定公園となった。つまり、自然林が守られてきた。
*薬王院内には、天文年間(1532~4555)に富士浅間神社が建立された。北条氏と甲斐の武田氏の争いにより、甲斐を通っての富士山参拝ができなくなった。民衆の心を鎮めるためという。江戸時代は、江戸から近いこと、女人禁制の富士山と違い、女性でも参拝できたことが人気の要因の一つに。高尾山は信仰の対象として多くの人々が訪れる。
*天気がよければ、大見晴台は富士山を眺める絶景スポット。
*戦前は京王御陵線が大正天皇陵まで開通していた。高尾山にほど近く登山者も急増した
*御陵線は昭和20年に運転休止。御陵線の敷地の一部を利用し、昭和42年に京王高尾線が開通した。都心から高尾山ふもとぎりぎりまで鉄道で行けるアクセスの良さが魅力を与える。

 私が今回学んだのはこんなところ。この知識がどのようにわかりやすくビジュアルに説明されていくか、そのアプローチのしかたとプロセスが読ませどころである。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
横浜開港資料館  ホームページ
  横浜波止場ヨリ海岸通異人館之真図 三代広重画 明治初期
  横浜各国商館真図 三代広重画 明治5年(1872)
作者:歌川広重(三代) :「GAS MUSEUM」
東海道五拾三次之内 神奈川 台之景  :「東京富士美術館」
田中家 歴史 :「田中家」
横浜の金比羅神社  ホームページ
横浜水道のあゆみ  :「横浜市」
燈明堂  :ウィキペディア
レオンス・ヴェルニー  :ウィキペディア
国指定重要文化財 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック):「帆船日本丸」
旧横浜船渠株式会社第二号船渠(ドック)  :「文化遺産オンライン」
旧横浜船渠第一号ドック(帆船日本丸係留ドック) :「まちへ、森へ。」
小栗忠順  :ウィキペディア
鶴ケ城を見る  :「会津若松観光ナビ」
什の掟  :「會津藩 日新館」
講演録:戸ノ口堰用水の歴史と現状:「會津のあががわ」(国土交通省阿賀川河川事務所)
会津さざえ堂 オフィシャルサイト
国指定重要文化財 天鏡閣 公式ホームページ
二度の山体崩壊をおこした火山 :「磐梯山ジオパーク」
遠藤現夢  :ウィキペディア
20201125裏磐梯緑化の父 遠藤現夢墓  動画
中村弥六  :ウィキペディア
裏磐梯の五色沼湖沼群 :「ふくしまの旅」
神秘の五色沼ガイドウォーク :「裏磐梯レイクリゾート」
高尾山  :「GO TOKYO」(東京の公式観光サイト)
高尾山薬王院  公式ホームページ
京王御陵線   :ウィキペディア
京王高尾線   :ウィキペディア

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 1 長崎 金沢 鎌倉』 角川書店
『ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台』 角川書店
『ブラタモリ 4 松江 出雲 軽井沢 博多・福岡』 角川書店
『ブラタモリ 6 松山・道後温泉 沖縄 熊本』 角川書店
『ブラタモリ 7 京都(嵐山・伏見)志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』 角川書店
『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』  角川書店
『ブラタモリ 13 京都(清水寺・祇園) 黒部ダム 立山』  角川書店
『ブラタモリ 15 名古屋 岐阜 彦根』  角川書店
『ブラタモリ 16 富士山・三保松原 高野山 宝塚 有馬温泉』  角川書店