遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『帝都争乱 サーベル警視庁2』  今野敏  角川春樹事務所

2021-05-17 09:29:06 | レビュー
 サーベル警視庁シリーズの第2弾。日本海海戦で連合艦隊がヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた。その後の日露戦争の終結に向けた日露講和会議の結果、1905年9月、日本側首席全権小村寿太郎外相がロシア側首席全権ヴィッテとの間で、アメリカのポーツマスにて日露講和条約の調印を行った。通称ポーツマス条約である。8月30日(水)に日露講和成立を告げる号外が報道され、この夜は号外合戦が繰り広げられ、翌朝『大阪毎日』がポーツマス条約の全文をすっぱ抜いた。その1月余前に、「講和問題同志連合会」が結成されていて、この連合会が9月1日に日比谷公園で講和条約国民大会という条約反対の抗議集会を開催した。その大会に群集が集まってくる。大量の警察官が配備される。条約内容に不満を抱く群集と警察官との間のいさかいが、日比谷焼き打ち事件へと拡大していく。警察官では鎮圧できない事態に拡大し、軍隊の出動、戒厳令が敷かれるという展開になる。本書のタイトル「帝都争乱」はこの状況をふまえたものと言える。

 高校までの学生時代に日本史を学んだが、授業の中では明治以降の歴史を詳しく習った記憶は無い。せいぜい重要事項を年表事実として受験勉強レベルで記憶するに留まっていたように思う。良くも悪しくも歴史学習はそんな程度の実情だった。
 さて、ここでこの小説の背景をもう少し触れておこう。手許にある『詳説日本史研究』(山川出版社,1988年)という学習参考書を参照する。これ自体がもう古書の部類か・・・。「ロシアとの対立がしだいに深まるなかで、桂内閣はロシアに対抗するため軍備拡張を進め、その財源を確保するため地租増徴継続をはかった。」(p363)一方、当時の日銀副総裁だった高橋是清はアメリカやイギリスで外国債募集の活動を展開した。そんな状況下で、1904(明治37)年2月、日露戦争開戦となる。そして、1905年1月に旅順をおとしいれ、3月の奉天会戦で勝利、同年5月の日本海海戦での勝利となる。一方ロシアの国内では、1月に「血の日曜日事件」が起こり、各地でストライキが頻発する険悪な状況だったという。だが、「日本も軍事的勝利は得たが、兵器・弾薬・兵員の補充が困難となり、戦費調達もおぼつかなくなって、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていた。」(p365)そんな瀬戸際の状況だったらしい。
 上掲学習参考書から少し長くなるがもう少し引用しておこう。
 「日本は110万の兵力を動員し、死傷者20万人を超すという大きな損害を出しながら、ようやく日露戦争に勝利を収めた。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。東京では河野広中ら反政府政治家や有力新聞の呼びかけもあって、講和条約調印の当日、『屈辱的講和反対・戦争継続』を叫ぶ群衆が、政府高官邸・警察署交番や講和を支持した政府系新聞社・キリスト教会などを襲撃したり、放火したりした。いわゆる日比谷焼打ち事件である。政府は戒厳令を発し、軍隊を出動させてこの暴動を鎮圧し、講和条約批准にもち込んだが、その後、こうした都市の民衆暴動がしばしばおこり、社会を動揺させた。」(p366)

 こんな当時の情勢と史実をふまえて、このフィクションが創作されている。
 月刊「ランティエ」(2019年6月号~2020年5月号)の掲載分に加筆・修正され、2020年9月に単行本が出版された。

 この小説には、いくつかのテーマが設定されていると思う。
1.日露戦争のいくつかの局面で勝利し、講和に持ち込みポーツマス条約を締結するに至った明治時代後半の日本の状況をビジュアルに描き出すこと。つまり、帝都が争乱状況になった時代をビビッドに描くこと。それは、読者にとっては、歴史を見つめ直す素材にもなる。
2.明治時代の警視庁という警察組織の実情、雰囲気、警察官の意識を描き出すこと。
3.史実をふまえた中に、フィクション次元の事件を織り込み、自然なストーリーを構築すること。
 少なくとも、こんなテーマがうまく融合してこの「帝都争乱」に結実したものと思う。

 ストーリーは、明治38年(1905)7月6日(木)から始まる。日比谷公園で上記の国民大会が開催される前の動きがまず警察官の会話として描かれて行く。そこに玄洋社や黒龍会、さらに黒龍会の内田良平の名が出てくる。桂首相のお声がかりで、岡崎巡査の同僚が桂首相の愛妾・お鯉の屋敷周辺の警護に出向いた話、藤田五郎(=斎藤一)がこの戦が負け戦だと述べたことなど。読者はここでストーリーの背景状況に導かれる。
 そして9月1日、鳥居部長が葦名警部に、赤坂の榎坂にある桂首相の愛妾宅での警護を命じたのだ。葦名は巡査4名を連れていくことになる。岡崎、岩井、久坂と角袖(=私服姿)の荒木である。彼等は泊まり込みで警護の任につくことに。後に、警視庁に情報提供し私立探偵を自称する西小路が加わってくる。彼の場合は、事態に対する己の興味関心からなのだが。
 日比谷公園で国民大会が開催され、その後日比谷焼打ち事件が発生し、各所での騒動に拡大していく。そんなさ中で桂首相の愛妾宅における巡査たちの警護の状況が描かれて行く。当初、彼等は騒動の圏外におかれ、情報遮断されたような状況が続く。そして、群集が榎坂にも集まってくることになる。
 遂に、暴徒が一時的に榎坂の屋敷内に侵入してくる事態になっていく。群集を見守っていた藤田が葦名たちに助力する形で加わってくる。面白いのは、要所要所で藤田が適切な行動を取っていくことである。歴戦の強者の経験が生かされいく。
 一時的に暴徒が屋敷内に侵入してきた時、思わぬ事件が屋敷内で発生していた。
 それは、西小路が死体を発見したことから始まる。見知らぬ男が、鳩尾を一突きにされていたのだ。刃先が心臓に達したことで即死だとわかる。ここから葦名らによりこの騒擾のさ中での殺人事件の解明捜査が始まっていくことになる。警護を続けながらの謎解きである。
 翌朝、城戸伯爵令嬢の喜子が近くの井上子爵家のお手伝いさんたちの助力を得て、炊き出しを搬入してきて、葦名たち警察官、藤田、西小路の中に加わってくることになる。
 帝都の争乱と殺人事件の背景に、政治の世界での確執が関わっている局面が徐々に見え始めていく。この点が実に興味深い観点となってストーリーが進展することになる。そこには大きなからくりが仕組まれていたのだった。
 なかなかおもしろい目のつけどころである。藤田五郎の登場のさせかたが特に興味深い。
 もう一人が、黒龍会の内田良平である。彼がどのように関係してくるのか、本書を開くお楽しみに。
 
 この『帝都争乱』どこからどこまで、どこにフィクションを組み込んでいるのか。世に公開されていない資料もあるはずである。それ故、私にはそこに別次元での関心が残る。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。主なものを一覧にしておきたい。
日露戦争  :ウィキペディア
桂太郎   近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
桂太郎   :ウィキペディア
山縣有朋  近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
原敬    近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
小村寿太郎 近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
頭山満  近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
頭山満  :ウィキペディア
内田良平 :「歴史が眠る多摩霊園」
斎藤 一  :ウィキペディア
斎藤一の鮮明な写真見つかる「これが死線くぐった目だ」【新撰組幹部】:「HUFFPOST」
ポーツマス条約  :「コトバンク」
萬朝報  :ウィキペディア
講和問題同志連合会    :「コトバンク」
講和条約反対国民大会   :「コトバンク」
日比谷焼き打ち事件  :ウィキペディア
戦時画報臨時増刊 東京騒擾画報 :「MIT Visualizing Cultures」
玄洋社 :ウィキペディア
黒龍会 :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『清明 隠蔽捜査8』  新潮社
『オフマイク』  集英社
『黙示 Apocalypse』 双葉社
『焦眉 警視庁強行犯係・樋口顕』  幻冬舎
『スクエア 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店
『機捜235』  光文社
『エムエス 継続捜査ゼミ2』  講談社
『プロフェッション』  講談社
『道標 東京湾臨海署安積班』  角川春樹事務所
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新6版 (83冊) 2019.10.18