昔、仕事で出張してほんの少しだけ立ち寄ったことがある博多が入っている。古代史の視点からも出雲は一度行ってみたいところ。松江は小泉八雲を私はまず連想する。そんなところから、第4弾を読んでみた。本書の監修はNHK「ブラタモリ」制作班。標題が長くなるのでここに記す。
本書には「松江」(2015年8月1日放送)、「出雲」(2015年8月22日放送)、「軽井沢」(2015年8月29日放送/11月21日)、「博多・福岡」(2015年9月19日/10月3日放送)が収録されている。なぜか、軽井沢の後半のテーマには日付だけで「放送」という語句が明記されていない。
本書の基本構成コンセプトについて繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
*ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
*番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
*番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
*同行アナウンサーの番組裏話 本書は桑子真帆さんのトーク
である。
本書でおもしろいと感じたのは、そのテーマ設定のしかた。「松江」では湿地帯になぜ城下町ができたかというアプローチ。「出雲」には、なぜ日本有数の観光地になったかの視点からアプローチしている。「軽井沢」を避暑地としてアプローチするのは定石だろう。だが、軽井沢へ至るためにどう「峠」を超えたのかという視点は考えもしなかった。「博多」の誕生を「高低差」でとらえる発想はタモリさん好みのアプローチと言える。「福岡」の発展のカギとして鉄道を重視するのも興味深い。
本書から学んだ要点を私なりに整理し覚書としてまとめてみたい。機会があれば現地を訪ねてみたい下準備でもある。専門家と一緒に歩き回れるわけではないので・・・・・。
<松江> テーマ 国宝松江城の城下町はどうつくられた?
冒頭がまずおもしろい。松江城が国宝に指定されたのは、何とごく最近! 2015(平成27)年。城の地階の通し柱に穿たれた小さな釘穴が平成24年に松江神社で発見された祈祷札の2つの穴と一致した。祈祷札に記載の年号が松江城の築城年を特定することになったという。釘穴疎かにできず、という次第。
*松江城:現存12天守のひとつ。附櫓のある複合式望楼型。1,2層目は大入母屋屋根・下見板張り。木部は全て黒塗り。南北に千鳥破風。実戦に備えた強固な造りの城。別名「千鳥城」。堀尾吉晴が築城した。
松江城の築城当時は城下全体に低湿地が広がっていた。かつての松江は一面の湿地帯。
*松江城は砂州の上にあった白潟という松江一の商業地を城下町に取り込んだ。
*松江城は多くの掘を巡らし、「防備」「排水」「埋め立て」の一挙三得を図る。宇賀丘陵中の「赤山」(横約240m、縦約90m)を切り崩し、城下町全体の埋め立てに使ったという。松山城と城下町の完成はわずか5年で。
湿地からの排水と松江城の設計を、堀尾吉晴の臣下小瀬甫庵-『太閤記』の著者-が補佐したと言われる。
*かつての掘に面した武家屋敷は「舟入り」を敷地内に設けていた。マイマリーナ所有!
*「ぐるっと松江堀川めぐり」の小さな遊覧船は、ルート上の16の橋のうち4つの橋下を通過する際、屋根を下げる。暗渠状の水路箇所がある。
*四十間堀川河口近くにある「松江堀川浄化ポンプ場」が国宝松江城の掘の水位を一定に管理する。この水位は上記遊覧船にも影響する。
*宍道湖と中海をつなぐ大橋川の拡幅工事の実施が、宍道湖名産のシジミという副産物を産む。満潮時に海水が湖に流入することで海水と淡水が混ざり合い塩分濃度が高くなったことによる。江戸時代には大橋川流域にしかヤマトシジミはいなかったそうだ。
*松江に茶の湯文化を伝え根づかせたのは松江藩七代藩主松平治郷(不昧公)。風雅な松江の和菓子が発展。治郷の時代に松江では100品を超える菓子が作られたという。
<出雲> テーマ 出雲はなぜ日本有数の観光地になった?
*出雲大社参拝への神門通りは突き当たりの正門(木製の鳥居)までゆるい上り坂。鳥居前は「勢溜(せいだまり)」と称する広場、鳥居から先の参道は一直線の下り道。このあたり、かつては砂丘だったところという。出雲大社の祭神は大国主大神。
*出雲大社の本殿は八丈(24m)。2000(平成12)年の本殿前の発掘調査で、3本で1セットになっていた中世の本殿の柱が発掘された。これで、古代の本殿は十六丈(48m)という言い伝えが事実だとわかった。古い平面図と発掘位置が合致した。
「古代の出雲大社推定復元模型」の作製・展示。島根県立古代出雲歴史博物館にて。
*出雲大社では約60年に一度「遷宮」を行う。傷みの修繕、屋根の葺き替えレベルで。
直近の遷宮は「平成の大遷宮」で、2016(平成28)年3月に実施。
現在の本殿は約270年前の「延享の遷宮」で建て替えられたもの。内部は4部屋構成。
本殿の天井には「八雲之図」が描かれている。ただし、雲の数は7つ。完成させず永遠性を求めるためだとか。(本殿内は非公開。本書には「八雲之図」を部分掲載)
*本殿の両側には、細長い社に19の扉がついた「十九社」がある。神在月に神が集い留まるための建物。
*出雲大社の正式な名称は「杵築(きづき)大社」。地名として「杵築」が使われている。
*初めは造営遷宮費用の調達のために17人の上級神官が各地の大庄屋を訪ねたのが起源。 江戸時代中期頃から「出雲御師」が全国に布教に出かけ出雲大社の信仰を広めた。
⇒幕府のお墨付き。町村の役人が配札や集金を代行するので非常に効率的。
大社参拝を勧誘。出雲御師の屋敷が参拝者の宿泊所となる。最大のご利益が縁結び。
出雲御師は、お札や暦と一緒に「蕎麦預」(そば1杯が無料になるクーポン券)を配った。海苔や椀、薬などを手土産にした。
*上記の神門通りは、大正時代に鉄道・大社線が敷かれてできた道。旧大社駅が現存。
<軽井沢>
テーマ1 軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった!?
*江戸時代、旧軽井沢は中山道の宿場町「軽井沢宿」で、約20軒の宿屋があり栄えた。
1884(明治17)年、中山道の南側に碓氷新道が開通し、町はすたれた。
*1885(明治18)年、カナダの宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を訪れ、明治21年に避暑のための別荘を建てたのが最初となる。宣教師たちが夏の間、避暑のために軽井沢に逗留するようになる。
⇒ショーの頭には、西欧がアジアを植民地化した時に、「ヒルステーション」(高原避暑地)
を造っていたというモデルと「サマーキャンプ」というモデルがあったのではないか、
と安島博幸教授は考察されている。
*尚、その7年前の1877年には陸軍が軽井沢に脚気患者療養所を開設。その後も軍の療養所が開設されている。つまり、療養目的で軽井沢が見直されたという。
*1895(明治28)年に軽井沢ショー記念礼拝堂が軽井沢初の教会として建てられる。
1906(明治39)年に軽井沢ユニオンチャーチが教派に関係なく礼拝できるようにとの趣旨で建てられる。木造建築でシンプルに造られている。ウィリアム・M・ヴォーリスの設計。
*多くの外国人が避暑に来るようになり、町にも変化が起こる。外国人のニーズに対応。
靴屋・パン屋・ジャム屋・レース屋・家具屋・クリーニング店など。英語表記の看板も。
*1893(明治26)年、碓氷峠を越える鉄道が開通し、東京と直結することになる。
*1893年に、日本人では初めて元陸軍大佐の八田裕二郎が軽井沢に別荘を建てた。
「八田別荘」は現在、軽井沢町が管理している。(建物内部は非公開)
*軽井沢は高原だが広大な平地。それは軽井沢駅近くの離山(はなれやま)が2万年前に噴火して、噴出した火砕流が一帯を埋め尽くした結果だという。そこに、浅間山の噴火による火山灰も痕跡を残すことに。軽井沢の地名の語源が「かるいしざわ」という説もあるとか。
*軽井沢別荘地開発の創始者のひとりは野沢源次郎という貿易商を営んだ実業家。
軽井沢の美しい林は人工的に作られ、野沢はパリのような放射状の町並みを計画した。
円弧状の曲線を描く道、洋館建築の町並み、ロータリー。ラウンドアバウトという発想。
テーマ2 軽井沢への道 人はどう「峠」を超えてきた?
*「木曽の桟(かけはし)、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」碓氷峠は交通の難所だった
*長野・群馬両県の県境、碓氷峠の山頂には熊野信仰の神社がある。神社は県境にまたがる。
群馬側は「熊野神社」、長野側は「熊野皇大神社」と称しそれぞれに宮司さんが居る。
⇒戦後の宗教法人法で県ごとに法人登記をする規定となった結果による。
*碓氷峠は日本海と太平洋への分水嶺(界)にあたり、「中央分水界」と呼ぶ。
*長野側の軽井沢宿(標高960m)、碓氷峠(標高1190m)、群馬側の坂本宿(標高450m)
碓氷峠は「片峠」(非対称の峠)の代表。群馬側に高低差が大きく、旅人泣かせの峠。
*旧中山道は溶岩流が作ったなだらかな尾根を通る道だった。坂本宿は中山道の整備に伴って三代将軍家光の時代に計画的に作られた宿場町。江戸時代、信州に向かう旅人が「碓氷関所」を抜けるのに時間がかかり、山越えに困難を伴うことによったためという。
*1893(明治26)年に軽井沢駅-横川駅間、11.2kmに「アプト式鉄道」が開通した。
開通当初は蒸気機関車で約80分、1912年にアプト式電気機関車が導入され約50分の所要。
1934(昭和9)年、国産電気機関車ED42形を運行。1963(昭和38)年アプト式廃止。
1963年、粘着運転方式に変更し、電気機関車EF63形を導入。所要約20分に。
*1997(平成9)年、新幹線開通により横川-軽井沢間(標高差553m)は廃線となる。
*「アプトの道」という遊歩道:旧信越本線の横川-熊ノ平間の約6kmの区間
⇒めがね橋(碓氷第三橋梁、長さ91m、高さ31m、アーチが4つ)は勾配66.7パーミル
変電所跡と10のトンネル。レンガ造りの鉄道施設跡を歩くことができる。
<博多> テーマ 博多誕生のカギは「高低差」にあり!?
*博多:中世以来、アジアとの貿易港として栄えてきた商人の町
福岡:関ヶ原の戦い後に戦功として筑前国を得た黒田長政が開いた城下町
黒田氏ゆかりの地岡山の福岡という地名から名付けられたという。
博多と福岡は那珂川の中州が町の境目となる。中州は長政が河口近くに土を盛り架橋した。
*薬院新川から那珂川まで続く石垣が、2つの町だった時代の痕跡を示す。
石垣は、かつては高さ8mを超え、800m以上も続いていたという。
*博多を復興したのは九州を平定した豊臣秀吉。太閤町割で碁盤目状に区画整理した。
⇒西の那珂川(博多川)と東の御笠川に挟まれた地域。南北の基準線を軸に(現大博通り)
*大博通りは2つの高まりを結ぶ細い高地を背骨のように貫いていて、基準軸となった。
海抜5~6m程度の2つの砂丘の高まりの周囲に海が入り込んでいる地形だった。
北側の砂丘のピークに当たるのは大博通りと昭和通りの交差点。
*博多の総鎮守、東西方向に向いた櫛田神社の鳥居の先の石段が段差(地形)の痕跡。
石段の先にはかつて入り江が広がっていた。
⇒石段下に小舟を着け、櫛田神社で航海の安全を神に感謝したという。
*福岡城跡に、古代は外交使節に関わる鴻臚館という施設が建っていた。舞鶴公園内。
平安時代後半、博多は宋との唯一の外交窓口になった。
*鎌倉時代の僧・栄西が創建した日本初の禅寺、聖福寺は博多で最も高い場所にある。
かつての南側の砂丘のピーク。聖福寺周辺の町割は太閤町割と約10度のズレがある。
*「HKT203」(博多遺跡203次発掘調査現場)は、複数の時代の生活面が重なる「複合遺跡」で、珍しいもの。わずか3mほどの断面に江戸~弥生と5面の生活面が凝縮されている。
<福岡> テーマ 福岡発展のカギは「鉄道:にあり!?
*福岡市中央区の薬院駅前は福岡の公共交通網の重要なハブのひとつ。現在は立体交差化。
*江戸時代「天神」は福岡城下の武士の町。廃藩置県で武士が福岡を離れると一時はゴーストタウン化した。その転機は明治末の民間の路面電車だった。
福博電気軌道と博多電気軌道の路線が現在の福岡パルコに面した交差点でクロスした。
⇒福博電気軌道は福岡と博多を東西方向に一直線の線路で結ぶ。
博多電気鉄道は、福岡と博多を半円状にまたぐような形で線路を敷設。
そこで天神が市内交通のハブになった。
昭和に入り2社の経営が一元化される。戦後、西鉄福岡市内線として黄金期を迎える。
1979(昭和54)年、モータリゼーションの発展により市内線は完全に姿を消す。
*市内の各所に路面電車の痕跡が残る。路面電車の専用軌道がバス専用道路に転用される。
筥崎参道脇のゲートには路面電車のレールを使用。また電停の安全地帯跡がバス停に。
*JR博多駅は、かつては現在の地下鉄祇園駅付近にあった。移転当時周囲に田畑があった。
1975(昭和50)年の山陽新幹線の博多延伸が急激な周辺の開発発展の契機となる。
*新幹線0形は博多と東京を6時間56分で結んだ。500形の登場で4時間49分になった。
*博多駅と博多総合車両所の間の回送線は、旅客線としても利用されている。運賃300円。
⇒1日に14,000人近くの乗客が利用。地域社会の旅客線としても貢献
この基礎的な知識情報はやはり、当時の写真や地図、イラスト図を併用したビジュアルな説明によるとわかりやすい。本書を開いてみてほしい。
お読みいただきありがとうございます。
本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
国宝松江城 ホームページ
小泉八雲記念館 ホームページ
宍道湖 :「出雲観光ガイド」
出雲大社 ホームページ
境内全域図
古代出雲歴史博物館に展示されている出雲大社本殿の模型について :「島根県」
軽井沢を知る 軽井沢の歴史 :「美しい村 軽井沢」
軽井沢ユニオンチャーチ ホームページ
軽井沢ユニオンチャーチ :「軽井澤銀座商店会」
軽井沢ショー記念礼拝堂 :「軽井澤銀座商店会」
アプト式 :ウィキペディア
【碓氷峠と同じ方式】アプト式鉄道 大井川鉄道井川線に乗車【1906四季島】千頭駅→奥大井湖上駅 6/23-01 YouTube
アプト式の電気機関車「ED42形1号機」模擬走行 碓氷峠鉄道文化むら(安中市)
碓氷峠 :ウィキペディア
碓氷峠周辺マップ :「碓氷峠鉄道文化むら」
長野新幹線 :ウィキペディア
北陸新幹線 :ウィキペディア
聖福寺 ホームページ
櫛田神社 :「博多の魅力」
博多祇園山笠 公式サイト
福博電気軌道 :ウィキペディア
博多電気軌道 :ウィキペディア
福岡市内電車 鉄道路線の歴史 :「にしてつWebミュージアム」
新幹線車両 :ウィキペディア
新幹線車両の変遷 :「日本車両」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 1 長崎 金沢 鎌倉』 角川書店
『ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台』 角川書店
『ブラタモリ 7 京都(嵐山・伏見)志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』 角川書店
『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』 角川書店
『ブラタモリ 13 京都(清水寺・祇園) 黒部ダム 立山』 角川書店
『ブラタモリ 15 名古屋 岐阜 彦根』 角川書店
『ブラタモリ 16 富士山・三保松原 高野山 宝塚 有馬温泉』 角川書店
本書には「松江」(2015年8月1日放送)、「出雲」(2015年8月22日放送)、「軽井沢」(2015年8月29日放送/11月21日)、「博多・福岡」(2015年9月19日/10月3日放送)が収録されている。なぜか、軽井沢の後半のテーマには日付だけで「放送」という語句が明記されていない。
本書の基本構成コンセプトについて繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
*ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
*番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
*番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
*同行アナウンサーの番組裏話 本書は桑子真帆さんのトーク
である。
本書でおもしろいと感じたのは、そのテーマ設定のしかた。「松江」では湿地帯になぜ城下町ができたかというアプローチ。「出雲」には、なぜ日本有数の観光地になったかの視点からアプローチしている。「軽井沢」を避暑地としてアプローチするのは定石だろう。だが、軽井沢へ至るためにどう「峠」を超えたのかという視点は考えもしなかった。「博多」の誕生を「高低差」でとらえる発想はタモリさん好みのアプローチと言える。「福岡」の発展のカギとして鉄道を重視するのも興味深い。
本書から学んだ要点を私なりに整理し覚書としてまとめてみたい。機会があれば現地を訪ねてみたい下準備でもある。専門家と一緒に歩き回れるわけではないので・・・・・。
<松江> テーマ 国宝松江城の城下町はどうつくられた?
冒頭がまずおもしろい。松江城が国宝に指定されたのは、何とごく最近! 2015(平成27)年。城の地階の通し柱に穿たれた小さな釘穴が平成24年に松江神社で発見された祈祷札の2つの穴と一致した。祈祷札に記載の年号が松江城の築城年を特定することになったという。釘穴疎かにできず、という次第。
*松江城:現存12天守のひとつ。附櫓のある複合式望楼型。1,2層目は大入母屋屋根・下見板張り。木部は全て黒塗り。南北に千鳥破風。実戦に備えた強固な造りの城。別名「千鳥城」。堀尾吉晴が築城した。
松江城の築城当時は城下全体に低湿地が広がっていた。かつての松江は一面の湿地帯。
*松江城は砂州の上にあった白潟という松江一の商業地を城下町に取り込んだ。
*松江城は多くの掘を巡らし、「防備」「排水」「埋め立て」の一挙三得を図る。宇賀丘陵中の「赤山」(横約240m、縦約90m)を切り崩し、城下町全体の埋め立てに使ったという。松山城と城下町の完成はわずか5年で。
湿地からの排水と松江城の設計を、堀尾吉晴の臣下小瀬甫庵-『太閤記』の著者-が補佐したと言われる。
*かつての掘に面した武家屋敷は「舟入り」を敷地内に設けていた。マイマリーナ所有!
*「ぐるっと松江堀川めぐり」の小さな遊覧船は、ルート上の16の橋のうち4つの橋下を通過する際、屋根を下げる。暗渠状の水路箇所がある。
*四十間堀川河口近くにある「松江堀川浄化ポンプ場」が国宝松江城の掘の水位を一定に管理する。この水位は上記遊覧船にも影響する。
*宍道湖と中海をつなぐ大橋川の拡幅工事の実施が、宍道湖名産のシジミという副産物を産む。満潮時に海水が湖に流入することで海水と淡水が混ざり合い塩分濃度が高くなったことによる。江戸時代には大橋川流域にしかヤマトシジミはいなかったそうだ。
*松江に茶の湯文化を伝え根づかせたのは松江藩七代藩主松平治郷(不昧公)。風雅な松江の和菓子が発展。治郷の時代に松江では100品を超える菓子が作られたという。
<出雲> テーマ 出雲はなぜ日本有数の観光地になった?
*出雲大社参拝への神門通りは突き当たりの正門(木製の鳥居)までゆるい上り坂。鳥居前は「勢溜(せいだまり)」と称する広場、鳥居から先の参道は一直線の下り道。このあたり、かつては砂丘だったところという。出雲大社の祭神は大国主大神。
*出雲大社の本殿は八丈(24m)。2000(平成12)年の本殿前の発掘調査で、3本で1セットになっていた中世の本殿の柱が発掘された。これで、古代の本殿は十六丈(48m)という言い伝えが事実だとわかった。古い平面図と発掘位置が合致した。
「古代の出雲大社推定復元模型」の作製・展示。島根県立古代出雲歴史博物館にて。
*出雲大社では約60年に一度「遷宮」を行う。傷みの修繕、屋根の葺き替えレベルで。
直近の遷宮は「平成の大遷宮」で、2016(平成28)年3月に実施。
現在の本殿は約270年前の「延享の遷宮」で建て替えられたもの。内部は4部屋構成。
本殿の天井には「八雲之図」が描かれている。ただし、雲の数は7つ。完成させず永遠性を求めるためだとか。(本殿内は非公開。本書には「八雲之図」を部分掲載)
*本殿の両側には、細長い社に19の扉がついた「十九社」がある。神在月に神が集い留まるための建物。
*出雲大社の正式な名称は「杵築(きづき)大社」。地名として「杵築」が使われている。
*初めは造営遷宮費用の調達のために17人の上級神官が各地の大庄屋を訪ねたのが起源。 江戸時代中期頃から「出雲御師」が全国に布教に出かけ出雲大社の信仰を広めた。
⇒幕府のお墨付き。町村の役人が配札や集金を代行するので非常に効率的。
大社参拝を勧誘。出雲御師の屋敷が参拝者の宿泊所となる。最大のご利益が縁結び。
出雲御師は、お札や暦と一緒に「蕎麦預」(そば1杯が無料になるクーポン券)を配った。海苔や椀、薬などを手土産にした。
*上記の神門通りは、大正時代に鉄道・大社線が敷かれてできた道。旧大社駅が現存。
<軽井沢>
テーマ1 軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった!?
*江戸時代、旧軽井沢は中山道の宿場町「軽井沢宿」で、約20軒の宿屋があり栄えた。
1884(明治17)年、中山道の南側に碓氷新道が開通し、町はすたれた。
*1885(明治18)年、カナダの宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を訪れ、明治21年に避暑のための別荘を建てたのが最初となる。宣教師たちが夏の間、避暑のために軽井沢に逗留するようになる。
⇒ショーの頭には、西欧がアジアを植民地化した時に、「ヒルステーション」(高原避暑地)
を造っていたというモデルと「サマーキャンプ」というモデルがあったのではないか、
と安島博幸教授は考察されている。
*尚、その7年前の1877年には陸軍が軽井沢に脚気患者療養所を開設。その後も軍の療養所が開設されている。つまり、療養目的で軽井沢が見直されたという。
*1895(明治28)年に軽井沢ショー記念礼拝堂が軽井沢初の教会として建てられる。
1906(明治39)年に軽井沢ユニオンチャーチが教派に関係なく礼拝できるようにとの趣旨で建てられる。木造建築でシンプルに造られている。ウィリアム・M・ヴォーリスの設計。
*多くの外国人が避暑に来るようになり、町にも変化が起こる。外国人のニーズに対応。
靴屋・パン屋・ジャム屋・レース屋・家具屋・クリーニング店など。英語表記の看板も。
*1893(明治26)年、碓氷峠を越える鉄道が開通し、東京と直結することになる。
*1893年に、日本人では初めて元陸軍大佐の八田裕二郎が軽井沢に別荘を建てた。
「八田別荘」は現在、軽井沢町が管理している。(建物内部は非公開)
*軽井沢は高原だが広大な平地。それは軽井沢駅近くの離山(はなれやま)が2万年前に噴火して、噴出した火砕流が一帯を埋め尽くした結果だという。そこに、浅間山の噴火による火山灰も痕跡を残すことに。軽井沢の地名の語源が「かるいしざわ」という説もあるとか。
*軽井沢別荘地開発の創始者のひとりは野沢源次郎という貿易商を営んだ実業家。
軽井沢の美しい林は人工的に作られ、野沢はパリのような放射状の町並みを計画した。
円弧状の曲線を描く道、洋館建築の町並み、ロータリー。ラウンドアバウトという発想。
テーマ2 軽井沢への道 人はどう「峠」を超えてきた?
*「木曽の桟(かけはし)、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」碓氷峠は交通の難所だった
*長野・群馬両県の県境、碓氷峠の山頂には熊野信仰の神社がある。神社は県境にまたがる。
群馬側は「熊野神社」、長野側は「熊野皇大神社」と称しそれぞれに宮司さんが居る。
⇒戦後の宗教法人法で県ごとに法人登記をする規定となった結果による。
*碓氷峠は日本海と太平洋への分水嶺(界)にあたり、「中央分水界」と呼ぶ。
*長野側の軽井沢宿(標高960m)、碓氷峠(標高1190m)、群馬側の坂本宿(標高450m)
碓氷峠は「片峠」(非対称の峠)の代表。群馬側に高低差が大きく、旅人泣かせの峠。
*旧中山道は溶岩流が作ったなだらかな尾根を通る道だった。坂本宿は中山道の整備に伴って三代将軍家光の時代に計画的に作られた宿場町。江戸時代、信州に向かう旅人が「碓氷関所」を抜けるのに時間がかかり、山越えに困難を伴うことによったためという。
*1893(明治26)年に軽井沢駅-横川駅間、11.2kmに「アプト式鉄道」が開通した。
開通当初は蒸気機関車で約80分、1912年にアプト式電気機関車が導入され約50分の所要。
1934(昭和9)年、国産電気機関車ED42形を運行。1963(昭和38)年アプト式廃止。
1963年、粘着運転方式に変更し、電気機関車EF63形を導入。所要約20分に。
*1997(平成9)年、新幹線開通により横川-軽井沢間(標高差553m)は廃線となる。
*「アプトの道」という遊歩道:旧信越本線の横川-熊ノ平間の約6kmの区間
⇒めがね橋(碓氷第三橋梁、長さ91m、高さ31m、アーチが4つ)は勾配66.7パーミル
変電所跡と10のトンネル。レンガ造りの鉄道施設跡を歩くことができる。
<博多> テーマ 博多誕生のカギは「高低差」にあり!?
*博多:中世以来、アジアとの貿易港として栄えてきた商人の町
福岡:関ヶ原の戦い後に戦功として筑前国を得た黒田長政が開いた城下町
黒田氏ゆかりの地岡山の福岡という地名から名付けられたという。
博多と福岡は那珂川の中州が町の境目となる。中州は長政が河口近くに土を盛り架橋した。
*薬院新川から那珂川まで続く石垣が、2つの町だった時代の痕跡を示す。
石垣は、かつては高さ8mを超え、800m以上も続いていたという。
*博多を復興したのは九州を平定した豊臣秀吉。太閤町割で碁盤目状に区画整理した。
⇒西の那珂川(博多川)と東の御笠川に挟まれた地域。南北の基準線を軸に(現大博通り)
*大博通りは2つの高まりを結ぶ細い高地を背骨のように貫いていて、基準軸となった。
海抜5~6m程度の2つの砂丘の高まりの周囲に海が入り込んでいる地形だった。
北側の砂丘のピークに当たるのは大博通りと昭和通りの交差点。
*博多の総鎮守、東西方向に向いた櫛田神社の鳥居の先の石段が段差(地形)の痕跡。
石段の先にはかつて入り江が広がっていた。
⇒石段下に小舟を着け、櫛田神社で航海の安全を神に感謝したという。
*福岡城跡に、古代は外交使節に関わる鴻臚館という施設が建っていた。舞鶴公園内。
平安時代後半、博多は宋との唯一の外交窓口になった。
*鎌倉時代の僧・栄西が創建した日本初の禅寺、聖福寺は博多で最も高い場所にある。
かつての南側の砂丘のピーク。聖福寺周辺の町割は太閤町割と約10度のズレがある。
*「HKT203」(博多遺跡203次発掘調査現場)は、複数の時代の生活面が重なる「複合遺跡」で、珍しいもの。わずか3mほどの断面に江戸~弥生と5面の生活面が凝縮されている。
<福岡> テーマ 福岡発展のカギは「鉄道:にあり!?
*福岡市中央区の薬院駅前は福岡の公共交通網の重要なハブのひとつ。現在は立体交差化。
*江戸時代「天神」は福岡城下の武士の町。廃藩置県で武士が福岡を離れると一時はゴーストタウン化した。その転機は明治末の民間の路面電車だった。
福博電気軌道と博多電気軌道の路線が現在の福岡パルコに面した交差点でクロスした。
⇒福博電気軌道は福岡と博多を東西方向に一直線の線路で結ぶ。
博多電気鉄道は、福岡と博多を半円状にまたぐような形で線路を敷設。
そこで天神が市内交通のハブになった。
昭和に入り2社の経営が一元化される。戦後、西鉄福岡市内線として黄金期を迎える。
1979(昭和54)年、モータリゼーションの発展により市内線は完全に姿を消す。
*市内の各所に路面電車の痕跡が残る。路面電車の専用軌道がバス専用道路に転用される。
筥崎参道脇のゲートには路面電車のレールを使用。また電停の安全地帯跡がバス停に。
*JR博多駅は、かつては現在の地下鉄祇園駅付近にあった。移転当時周囲に田畑があった。
1975(昭和50)年の山陽新幹線の博多延伸が急激な周辺の開発発展の契機となる。
*新幹線0形は博多と東京を6時間56分で結んだ。500形の登場で4時間49分になった。
*博多駅と博多総合車両所の間の回送線は、旅客線としても利用されている。運賃300円。
⇒1日に14,000人近くの乗客が利用。地域社会の旅客線としても貢献
この基礎的な知識情報はやはり、当時の写真や地図、イラスト図を併用したビジュアルな説明によるとわかりやすい。本書を開いてみてほしい。
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本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
国宝松江城 ホームページ
小泉八雲記念館 ホームページ
宍道湖 :「出雲観光ガイド」
出雲大社 ホームページ
境内全域図
古代出雲歴史博物館に展示されている出雲大社本殿の模型について :「島根県」
軽井沢を知る 軽井沢の歴史 :「美しい村 軽井沢」
軽井沢ユニオンチャーチ ホームページ
軽井沢ユニオンチャーチ :「軽井澤銀座商店会」
軽井沢ショー記念礼拝堂 :「軽井澤銀座商店会」
アプト式 :ウィキペディア
【碓氷峠と同じ方式】アプト式鉄道 大井川鉄道井川線に乗車【1906四季島】千頭駅→奥大井湖上駅 6/23-01 YouTube
アプト式の電気機関車「ED42形1号機」模擬走行 碓氷峠鉄道文化むら(安中市)
碓氷峠 :ウィキペディア
碓氷峠周辺マップ :「碓氷峠鉄道文化むら」
長野新幹線 :ウィキペディア
北陸新幹線 :ウィキペディア
聖福寺 ホームページ
櫛田神社 :「博多の魅力」
博多祇園山笠 公式サイト
福博電気軌道 :ウィキペディア
博多電気軌道 :ウィキペディア
福岡市内電車 鉄道路線の歴史 :「にしてつWebミュージアム」
新幹線車両 :ウィキペディア
新幹線車両の変遷 :「日本車両」
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