遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『暗幕のゲルニカ』 原田マハ  新潮社

2021-05-09 11:48:57 | レビュー
 著者のアート関連小説に関心があり、読み継いできている。本書はまずそのタイトルに惹かれた。「ゲルニカ」といえば、ピカソの絵。なぜ「暗幕の」という修飾語が冠されるのか。表紙には、「GUERUNICA UNDERCOVER」と併記されている。読後印象としては、この併記自体もそこにあるニュアンスの違いが興味深くおもしろい。人により、その感じ方は異なることだろうが・・・・。この点はお読みいただいて感じていただくのがよいと思う。本書は「小説新潮」(2013年7月号~2015年8月号)に連載された後、2016年3月に単行本として出版された。2018年6月に文庫本になっている。上掲の単行本の表紙と少し装幀は異なるが、「ゲルニカ」が表紙の装画になっているのは同じである。

 扉の裏面にパブロ・ピカソの言葉が引用されている。
  「芸術は、飾りではない。敵に立ち向かうための武器なのだ。」
この言葉がこの小説のまさにテーマとなっている。

 この小説では、具体的な敵は2つの時空間でそれぞれに現れ、ストーリーが並行しつつ進行していく。「ゲルニカ」が共有項となること、この作品に込められた意図において全体が一つのストーリーに統合される。戦争そのものへの抗議である。
 冒頭にこのストーリーの主人公、八神瑤子の原体験が3ページで描かれる。銀行員だった父の赴任に伴いニューヨークに移り住んだ10歳の瑤子が、家族揃って初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)を訪れた。そして、瑤子は「ゲルニカ」に出会い衝撃的な体験をする。

 2つの時空間とは何か? 序章の見出しは「空爆」。
 まず20世紀でのストーリーから始まる。1937年4月29日のパリ。こちらのストーリーは芸術家でありピカソの愛人でもあるドラ・マールの視点から描かれて行く。ピカソがグランゾーギュスタンの館へ引っ越す3ヶ月前に3人の人物がピカソの許を訪れてきた。パリ万博のスペイン館、パビリオンの中にピカソの大きな絵をまるで壁画のように壁に掛ける形で展示したいので引き受けて欲しいという依頼。グランゾーギュスタンの館のアトリエには縦・約350cm、横・約780cmの巨大なカンヴァスがスペイン大使館より届けられた。そのカンヴァスが運び込まれて3週間後、巨大なカンヴァスに暗幕が掛けられていた。ドラが「どうかしたの、これ?」と尋ねたのに対し、ピカソは「別に。まぶしかっただけだよ」と答えて、暗幕を引き剥がした。カンヴァスは真っ白のままだった。ドラはそこにピカソの苦悩が思いのほか深いと感じ取る。ドラの回想として、この日の朝の場面に書き込まれる。
 ピカソの秘書を務めているハイネ・サバルテスが到着すると、彼は青ざめた顔で大変なことになったと、ピカソに新聞を差し出した。新聞は特大の見出しで報じていた。スペイン内戦が始まって以来、もっとも悲惨な爆撃がゲルニカを襲った。ヒトラーとムッソリーニの空軍が数千発の焼夷弾をバスク地方最古の町、ゲルニカに投下したと。
 これが起点となり、ピカソの怒りが「ゲルニカ」という作品を創造していく。そのプロセスと、その作品「ゲルニカ」が数奇な運命を経て行く経緯が描き出されて行く。この20世紀のストーリーは史実に基づいてフィクション化されている。スペイン内戦からパリに亡命しているイグナシオ家の嫡男バルド・イグナシオが架空の人物として登場する。彼はドラを介してピカソと面識を持つことにより、ピカソの芸術の理解者、支援者として主体的に関わりを深めていく。つまり、「ゲルニカ」という作品の運命に大きく関与する人物となっていく。このバルトがこの小説では重要な登場人物の一人となっていく。
 ここでは、ゲルニカへの空爆という事実がピカソの怒りを引き出す。それが「ゲルニカ」という作品を生み出していくプロセス。パリ万博のスペイン館に「ゲルニカ」が展示された時、その前でピカソが見に来たドイツ軍将校たちと行うやり取り。スペイン内戦から第二次世界大戦への進展下におけるピカソ、ドラたちの姿。作品「ゲルニカ」の所在地の変転とMoMAへの「ゲルニカ」の疎開とそのときピカソが付けた条件。その後の経緯がが描かれて行く。
 ピカソにとっての直接の敵はスペインのフランコ政権とヒトラーなどのファシストたちだった。1937年から1945年のヨーロッパの情勢と戦争の拡大状況、そしてピカソ、ドラたちの状況が描き出されて行く。

 もう一つは21世紀のストーリーである。2001年9月11日のニューヨークから始まる。
21世紀のストーリーは当時の史実をふまえた上で、登場人物はすべてフィクションとして描かれて行く。
 世界中に顧客を持つイーサン・ベネットと結婚した八神瑤子が浅い眠りから覚めたところから始まる。瑤子はMoMAのキュレーター。瑤子はピカソという芸術の巨人を追いかけ、寄り添っていこうと、己の人生の方向を決め、ピカソ研究者となり、35歳の時にMoMAの絵画・彫刻部門にキュレーターとして転職を果たしていた。そして、この日、瑤子は企画展「マティスとピカソ」のプレゼンテーションをする予定だった。
 だが、9月11日。そう、ワールド・トレードセンターがテロにより破壊された。イーサンはそれに巻き込まれて亡くなったのだ。そして、ストーリーは2年後へと飛ぶ。その間に、瑤子の企画案は「マティスとピカソ」から「ピカソの戦争:ゲルニカによる抗議と抵抗」に転換していた。MoMAからスペインに引き渡された「ゲルニカ」を、再びMoMAに展示するために借り出すことができる可能性はゼロに近かった。だが、瑤子はキャリアを賭けて交渉することに挑戦したかった。理事長のルース・ロックフェラーは瑤子の企画を後押ししてくれた。ルースも重要な登場人物の一人として描かれて行く。
 この21世紀のストーリーは、「ゲルニカ」の借り出し交渉に関わるそのプロセスとして進展していく。そこには重大な背景がある。2001年の9.11テロ行為で多大な犠牲者がニュウヨークで発生した事実。そして、2月5日、夜7時のニュースで、国連安全保障理事会がイラクへの武力行使はやむなしと決議したという状況の推移。
 問題は、アメリカ合衆国国務長官、コーネリアス・パワーが国連安保理議場のロビーの演説台で決議結果を語り始めたとき、その背後の<ゲルニカ>のタペストリーが暗幕で覆い隠されていたのだった。「ゲルニカ」はピカソが戦争への抗議として描き上げた作品。
 暗幕を掛ける指示は何処から出され、誰が暗幕を掛けたのか? なぜ暗幕が掛けられたのか?「暗幕のゲルニカ」事件が大きな波紋を起こしていく。

 アメリカが9.11のテロ行為を受けた形で、イラク戦争に踏み込んで行くという情勢の最中で、瑤子は理事長ルース・ロックフェラーの支援を得、一旦拒否された「ゲルニカ」を借り出すという交渉に再びチャレンジしていく。「ゲルニカ」が、ピカソの戦争への抗議を表出する作品であり、それは即、9.11の惨劇とイラクへの軍事行為の進展への抗議に繋がっているからだ。
 著者はルース・ロックフェラーに語らせている。
「国連も、ホワイトハウスも、いかなる国家権力も、芸術を暗幕の下に沈めることはできないと証明するのよ」(p124)と。

 瑤子の「ゲルニカ」借り出し交渉へのチャレンジは紆余曲折を経ながら進展して行く。最後の段階で、瑤子自身がテロ行為に巻き込まれ窮地に陥ることに!

 遂に、瑤子のチャレンジは「ピカソの戦争」展開催前日の内覧会へと結実するに至る。
 「『ピカソの戦争』展。戦争とテロが生み出した憎しみの連鎖に陥ってしまったこの世界で、平和について語り合うきっかけを作りたいと願い、私はこの展覧会を企画しました」(p354)という瑤子のプレゼンテーションへとつながって行く。

 この小説の読ませどころはいくつかの視点があると思う。
*ピカソの「ゲルニカ」の創造プロセスでの心理描写と芸術家としての戦争への姿勢
*ドラ・マーロという女性、芸術家でありピカソの愛人の心理の変遷とその描写
*「ゲルニカ」という作品の数奇な変転、運命の史実を知ることができること
 そこに、フィクションレベルで、バルド・イグナシオの「ゲルニカ」並びにピカソとの関わり方が織り込まれる。史実に整合しリンクする形で描き出されていくストーリーがおもしろい。
*キュレーターでありピカソ研究者、八神瑤子が企画展実現に向けてチャレンジするプロセスの描写。

 また、「暗幕のゲルニカ」つまり、暗幕が関係してくる場面がさらに2場面出てくることにふれておこう。その一つは、第二章での20世紀のストーリーに出てくる。それはピカソが「ゲルニカ」の下絵を描いた段階でカンヴァスに「暗幕」を掛けた状態から始まる。ピカソがドラに写真を撮らせる。この後、「ゲルニカ」制作のプロセスを、ドラがローライフレックス6×6二眼レフカメラで克明に撮り続けることになる。そのプロセスが書き込まれていく。ドラ・マールは芸術写真もさることながらこのドキュメンタリー写真で歴史に名を残したそうだ。
 そして、もう一つの「暗幕のゲルニカ」は劇的な登場をすることに・・・・。その場面は本書を開いて味わっていただきたい。

 もう一つ。著者は史実に基づいたフィクション化である20世紀のストーリーを描き、一方、登場人物全員を架空の人物で21世紀のストーリーを描き出した。その2つのリンキングについてである。「ゲルニカ」という作品自体が当然ながら最重要なリンキング要素である。それ以外にもう一つのリンキング要素を著者は織り込んでいる。それが2つのストーリーをつなぐ重要な要素になっている。こちらの意外性がフィクションのおもしろさ、楽しさにつながっている。著者はおもしろい構想をこのストーリーに組み込んだものである。
 チャレンジするひたむきさ、一途さの描写の高まりというプロセスの側面には共鳴していきやすい傾向があるからなのか、数カ所で涙腺が弛んだ。ストーリーの流れに没入していたのだろう。それはさておき、一読をお奨めする。

 ご一読ありがとうございます。


本書を読み、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
MoMA  ホームページ
ロックフェラー家  :ウィキペディア
ゲルニカ(絵画)  :ウィキペディア
ゲルニカ :「週刊NY生活」
  国連アート探訪 よりよい世界への「祈り」のシンボルたち 星野千華子
ドラ・マール    :ウィキペディア
Seven Things to Know: Dora Maar  :「TATE」
Dora Maar  :「Britanica」
ソフィア王妃芸術センター  :ウィキペディア
マドリード「ソフィア王妃芸術センター」 必見20作品、お得なチケット、無料入場など をわかりやすくガイド :「ユアトリップ」
Museo Reina Sofia. Presentacion (Introduction) YouTube
イラク戦争  :ウィキペディア
カタログレゾネ  :「artscape」
ローライ      :ウィキペディア
【フィルムカメラ】『ローライフレックス』の使い方と作例  :「CAMERA」
トルティージャ(スペイン風厚焼きオムレツ):「Nadia」
チュロス  :ウィキペディア
ネクタイ  :「ブルックス・ブラザーズ」
パンプス  :「マロノ・ブラニク」
サルガデロス from Spain :「ラフィオーレ」
ロブマイヤー 公式通販サイト

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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その点、ご寛恕ください。)


こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『<あの絵>のまえで』   幻冬舎
『風神雷神 Jupiter, Aeolus』上・下  PHP
『たゆたえども沈まず』  幻冬舎
『アノニム』  角川書店
『サロメ』  文藝春秋
『デトロイト美術館の奇跡 DIA:A Portrait of Life』  新潮社
『モダン The Modern』   文藝春秋
『楽園のカンヴァス』  新潮文庫
『翼をください Freedom in the Sky』  毎日新聞社