遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『エチュード』  今野 敏  中央公論新社

2014-04-08 09:54:03 | レビュー
「そういえば、降りるときに、妙なことを言ったんですよ」 ・・・・
「ぽつんと独り言を・・・。たしか、こう言ったんです。『エチュードなんですよ』って・・・・・・」

 この作品のタイトルは、後半に出てくる冒頭の返答に由来する。
 その後に、こんな会話が記されている。
「エチュードって何のことです?」
「フランス語で、勉強という意味です。日本では、主に芸術の世界で使われます。美術の世界では、習作という意味です。絵画や彫刻のための下絵のこともそう呼びます。演劇の世界では、即興で演じていく稽古のことをいいます。そして、音楽の世界では練習曲のことです。」

 この会話でエチュードの意味を説明しているのは、藤森紗英(さえ)、警察庁刑事局に所属の心理調査官。通り魔事件や立てこもりなどの、特殊事案を専門に研究している女性である。藤森紗英は指示により、特捜班に参加することになる。そして、今年48歳になり、警部補にようやくなったばかりの碓井弘一と組むことになる。碓井弘一は警視庁の捜査一課第5係に所属する。係長はノンキャリアで3歳年下の鈴木滋警部である。
 著者の作品で、心理調査官が活躍する作品を読むのは記憶する限りで初めてだと思う。
 なぜ、心理調査官が特捜班に参加したのか。それは発生した事件の見かけとは違った特異性にあった。

 6月17日金曜日午後5時すぎ、渋谷のハチ公前広場で通り魔事件発生の報が入る。鈴木第5係長以下、碓井を含む係員全員が現地に向かう。若い男が喚きながら次々と人を刺した。だが現行犯逮捕されていた。目撃者の証言では、犯人は俺じゃない、俺じゃないと、捕まるときに繰り返していたという。あっという間の出来事であり、またたく間の逮捕だったのだ。それには善意の第三者の逮捕協力があったからだという。協力者は返り血を浴びていた被疑者にしがみついていたのだ。警察官が現行犯逮捕した直後、その協力者は事情聴取される前に姿を消していた。鈴木係長の質問に対し、協力者の人着(にんちゃく)について、逮捕に携わった巡査は口ごもってこう言ったのだ。「身柄確保の後、しがみついた男のことを思い出そうとしたんですが、どうしても確保した犯人のことしか頭に残っていなかったんです」「それはどういうことだ?」「さあ、自分にもよくわかりません。その男のことを思い出そうとすると、確保した犯人のことしか浮かんでこないんです」(p11)被疑者が渋谷署に確保されている以上、捜査1課のできることはなく、現場を引きあげることになる。釈然としないまま鈴木係長以下、現場を去る。

 そして2日後の日曜日、久しぶりに呼び出しもないことから、碓井は家族と一緒新宿に出かけた。久しぶりの家族サービス。家族で専門店を見て、歩行者天国を歩き、午後3時過ぎに駅のほうに向かっていた。そして、悲鳴や怒号を耳にし、事件の発生に偶然にも遭遇する。休日で警察手帳を持っていない碓井だが、家族と別れて現場に駆けつける。彼の頭には、金曜日の渋谷の通り魔事件がよぎっていた。
 新宿駅前広場の事件。渋谷の事件と同様に、通り魔は現行犯逮捕されていた。逮捕された男は、「俺じゃない。俺じゃない。」と喚いていた。勇敢な市民の協力者は既に、直後に現場から居なくなっていたのだ。碓井にとってはまるでデジャヴを起こしたような気分である。碓井は即座に鈴木係長に携帯電話で連絡を入れる。

 人通りの多い駅前広場での通り魔殺傷事件。いずれも現行犯逮捕された被疑者が居る。犯人は俺じゃないと喚いていたのも同じ。市民の逮捕協力者は事情聴取を受ける前に現場を去っていた。逮捕に携わった警察官は誰一人、協力者の人着を思い出せないという現象も同じ。事件の被害者は死者1、軽傷者2でこの数まで同じ。
 現行犯逮捕の被疑者が居るので、捜査本部を設置される事件にはならない。だが、どこか異常である。これらの事件は、池田管理官に報告されており、碓井は新宿の事件を直に管理官に説明することになる。池田管理官は2つの事案の共通点に気づいていた。新宿の事件は、渋谷の通り魔事件を知った模倣犯の仕業なのか・・・・偶然の一致か・・・・イヤ・・・。様々な疑問が呼び起こされる。

 その結果、第5係に若干名を加えて、特捜班としての捜査を続行する方針がとられる。被疑者を自白に追い込む材料の捜査という名目が当面旗印となる。善意の協力者についても調べてみる指示が出る。この協力者の行動が一番気になると田端課長は言う。
 そして、この特捜班の捜査に藤森紗英心理調査官が派遣されたのである。

 碓井は藤森紗英と組み、捜査に従事させられることになる。彼は同僚に言う。「美人かなんか知らんが、いい迷惑なんだよ」と。プロファイリングというものになじまない現場の刑事たちは当初は彼女の参加の意義を理解しない。美人の心理調査官に近づいて、気分を害した梨田刑事は事あるごとに彼女の発言に反論する。
 具体的な情報が収集されていくにつれて、藤森の分析が進展していく。最初は迷惑がっていた碓井は、捜査の過程で徐々に彼女の分析に納得していく。
 具体的な情報が集積されるにつれ、藤森心理調査官の頭脳には、これらの事件のからくりが見え始めるのである。それは、「だとしたら、この事件はとてもやっかいなものかもしれない」「私たちは、事件を最初から見直さなければならないかもしれない」という語り口になっていく。碓井はこの発言を気に入らない。その気持ちを彼女に投げかける。二人は現場に足を運ぶことから、初めて行く。
 そして、藤森心理調査官は第3の事件発生を推測する。実際、事件は起こる。
 そこから、意外な展開が始まって行く。

 プロファイリングがどういうものなのか。それが中軸になりながらストーリーが展開していく。プロファイリングの意味を初めて知ったのは、パトリシア・コーンウエルの小説『検屍官』(1992年文庫本刊)に登場するベントン・ウェズリーを介してだっだと記憶する。それ以来、プロファイリングという分野に関心を抱いている。著者・今野敏がそれを取り入れた作品を書いていたのを知らなかった。そういう意味で、この作品を一気に読んでしまった。

 渋谷の事件、新宿の事件、そして第3の事件の可能性・・・それは起こる。だが、そこまではまだ「エチュード」だったのだ。というところが、この作品のおもしろい展開である。
 真の犯人は、通り魔事件を起こし、その場で現行犯逮捕させる犯人を仕立て上げるというすり替えを巧みに大勢の人の中で実行した。そこには、手品師のやるマジックのようなトリックが仕組まれている。藤森心理調査官は心理の隙をついた人物の記号化によるすり替えだと分析していく。この結論に到るプロセス、碓井との現場調査、対話、集積された情報の分析にある。その展開がこのストーリーの読みどころになる。
 さらに、そのストーリー展開をひきつけるのは、藤森心理調査官が真犯人はこの一連の事件で警察に挑戦しているのではないか、という仮設を立てたことである。
 これから先は、本作品を手に取り楽しんでいただくとよい。

 なお、この作品には少なくとも2つの副次的読みどころがある。
 第1は、碓井が藤森心理調査官を相棒としたことで生じていく碓井の考えと心理の変化プロセスである。田端課長から藤森心理調査官にはベテランと組んでもらうと言い、碓井を相棒に指名したときの碓井の反応、「思わず声を上げそうになった。おい、冗談じゃないぞ」という驚きと戸惑いの心理からスタートし、事件解決後に「いい仕事をしてくれた」と最後に藤森心理調査官に言うまでの相棒としての対応の変化プロセスが事件と並行して進行していく点である。
 第2は、梨田刑事の行動と心理のプロセスである。藤森心理調査官との関わり方がおもしろく描かれて行く。同僚の高木刑事に「おまえ、何をそんなに意固地になっているんだ? おまえの態度こそ現実的じゃないぞ」と言わせる。また碓井刑事が藤森心理調査官に「俺といっしょい飯を食っているところを、梨田に見られると、また面倒なことになるかもしれない。だが、気にすることはない。あいつも、もともと悪いやつじゃないんだ」と言わざるを得なくさせてしまう。こちらは男女間の人間関係と心理から生まれる行動という観点で捜査の進展に影響を投げかけていく。
 
 様々な次元での心理の変化及び心理分析が捜査プロセスの展開、ストーリーに織り込まれていくところにこの作品の読みどころがあるという気がする。勿論、中心となるキーワードは「人物の記号化」である。

 最後に、こんな質疑応答を引用しておこう。
「いいだろう。では、記号化というのは何だ?」
「すべての事象には、固有の性質や属性があります。本来の認識というのは、それぞれの差異を把握することです。ですが、あるひとまとめの事象について、何か象徴的な印象を付加すると、その固有の性質や属性を無視して同質のものと認識されてしまうのです。」この藤森心理調査官の説明に対し、刑事の解釈が続きに書き込まれていく。それは本書を手にとって楽しんでいただきたい。

 ご一読ありがとうございます。


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本書に関連する用語などをネット検索してみた。一覧にしておきたい。

プロファイリング :ウィキペディア
情報分析を一元化 警視庁、捜査支援分析センター発足 2009年4月 1日 (水)
 :「police story」
警視庁司法警察員等の指定に関する規則 
 第2条第2項(1)エ号に「捜査支援分析センター」の規定がある。司法警察員という身分と規定している。
 

こんなサイトに出会った。「心理学総合案内こころの散歩道」の一分野としてのページから。
模倣犯の心理 :「犯罪心理学 心の闇と光」
新たな模倣犯、愉快犯を防ぐために :「犯罪心理学 心の闇と光」
通り魔事件の犯罪心理学 :「犯罪心理学 心の闇と光」
 

「記号化」という概念についてこんな説明、使われ方もネットで見つけた。
符号化(encoding) 月浦崇氏 :「脳科学辞典」
思考の記号化 「ネット世代の心の闇を探る」:「iwatamの個人サイト」
記号化 :「ピクシブ百科事典」
記号   -初心者のための記号論- 田沼正也訳
記号化  -初心者のための記号論- 田沼正也訳
 


  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『ヘッドライン』 集英社
『獅子神の密命』 朝日文庫
『赤い密約』 徳間文庫
『内調特命班 徒手捜査』  徳間文庫
『龍の哭く街』  集英社文庫
『宰領 隠蔽捜査5』  新潮社
『密闘 渋谷署強行犯係』 徳間文庫
『最後の戦慄』  徳間文庫
『宿闘 渋谷署強行犯係』 徳間文庫
『クローズアップ』  集英社

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