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『孟子』巻第十一告子章句上 百四十五節、百四十六節

2018-12-31 10:31:58 | 四書解読
百四十五節

孟季子が孟子の弟子の公都子に尋ねた。
「どういうわけで義は内であると言うのか。」
「我が心に在る敬意を実行するから、内に在ると言うのだ。」
「村人であなたの兄より一歳年上の人がいれば、あなたはどちらを敬するのか。」
「兄を敬する。」
「では村の宴会でお酒を進めるとき、あなたはどちらを先にするのか。」
「村人を先にする。」
「普段敬するのは兄さんの方だが、年長者ということで相手を立てるのは村人の方だ。それはやはり外的条件であって、内より発するものではない。」
公都子は答えることが出来ず、このことを孟子に告げた。孟子は言った。
「おじさんを敬するか、弟を敬するか、と尋ねてみよ。彼は恐らく、おじさんを敬する、と言うだろう。そうしたら次いで、弟がかたしろになった時はどちらを敬するか、と問え。彼は弟を敬する、と言うだろう。そこで、おじさんを敬すると言ったのはどうなったのだ、と言え。きっとかたしろになっているからだ、と言うだろう。そうしたらお前も、かたしろの地位にいるからだと言うのなら、私も平常なら兄を敬するだろうが、宴会などの席上では一時的に村人の年長者を敬するのだ、と言ってやれ。」
公都子からその話を聞いた孟季子は言った。
「おじさんを敬すべきときはおじさんを敬し、弟を敬すべきときは弟を敬するなら、やはり義は外的条件によるもので、内から発するものとは言えない。」
公都子は言った。
「冬はお湯を飲み、夏は水を飲む。これは外的条件によるものだから、飲食も外にあることになり、食欲と性欲は性にして内にあるというあなたの論と矛盾するのではないか。」

孟季子問公都子曰、何以謂義內也。曰、行吾敬。故謂之內也。鄉人長於伯兄一歲、則誰敬。曰、敬兄。酌則誰先。曰、先酌鄉人。所敬在此、所長在彼、果在外。非由內也。公都子不能答。以告孟子。孟子曰、敬叔父乎、敬弟乎。彼將曰、敬叔父。曰、弟為尸、則誰敬。彼將曰、敬弟。子曰、惡在其敬叔父也。彼將曰、在位故也。子亦曰、在位故也、庸敬在兄、斯須之敬在鄉人。季子聞之曰、敬叔父則敬、敬弟則敬。果在外、非由內也。公都子曰、冬日則飲湯、夏日則飲水。然則飲食亦在外也。

孟季子、公都子に問いて曰く、「何を以て義は內と謂うや。」曰く、「吾が敬を行う。故に之を內と謂うなり。」「鄉人、伯兄より長ずること一歲ならば、則ち誰をか敬せん。」曰く、「兄を敬せん。」「酌まば則ち誰をか先にせん。」曰く、「先づ鄉人に酌まん。」「敬する所は此に在り、長ずる所は彼に在り。果して外に在り。内に由るに非ざるなり。」公都子、答うること能わず。以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「叔父を敬せんか、弟を敬せんか、ととえ。彼將に曰んとす、『叔父を敬せん。』曰え、『弟、尸為らば、則ち誰をか敬せん。』彼將に曰んとす、『弟を敬せん。』子曰え、『惡にか在る其の叔父を敬するや。』彼將に曰んとす、『位に在るの故なり。』子亦た曰え、『位に在るの故ならば、庸の敬は兄に在り、斯須の敬は鄉人に在り。』」季子之を聞きて曰く、「叔父を敬すべければ則ち敬し、弟を敬すべければ則ち敬す。果して外に在り。内に由るに非ざるなり。」公都子曰く、「冬日は則ち湯を飲み、夏日は則ち水を飲む。然らば則ち飲食も亦た外に在るか。」

<語釈>
○「庸」、趙注:「庸」は常なり。○「斯須」、一時の意。

<解説>
この節も前節と同じく、義は内か外かについて述べられている。ここでは特に解説することはない。

百四十六節

弟子の公都子が言った。
「告子は、『人の本性には善もなければ不善もない。』と言い、ある人は、『人の本性は善を為すこともできるし、不善を為すこともできる。だから文王や武王のような聖王が現れば、人民も善を好むようになり、幽王や厲王のような暴君が出れば、人民も暴力を好むようになる。』と言っております。又別の人は、『人の本性は生まれつき善なる者もおり、不善なる者もおる。だから堯のような聖人を君としていただきながら、象のような悪人の子もいるし、瞽瞍のような悪人の父を持ちながら、舜のような聖人が現れるし、紂のような暴君を兄に持ち、更に君としていただきながら、微子啟や王子比干のような清廉潔白な賢者が現れたのだ。』と言っております。ところが先生は、性は善であるとおっしゃっておられます。それではこれらの意見はみな間違いでございますか。」
孟子は言った。
「本性が具現したものが情である。それに従って行動すれば、人は必ず善をなすはずである。これが私の『本性は善である』という説である。それなのに不善をなす者がいるが、それは物欲に惑わされるためで人間の資質の罪ではない。人を憐れむ心は誰もが持っている。不義不善を羞じ惡む心は誰もが持っている。人を敬い慎む心は誰もが持っている。是非を判別する心は誰もが持っている。この人を憐れむ惻隱の心は仁であり、不義不善に対する羞惡の心は義であり、敬い慎む心は礼であり、是非を判別する心は智であるのだ。仁義礼智の徳は外からメッキされたものではなく、自分が本より所有しているものだ。ただ人は日頃それに気づいていないだけなのだ。だから私は、『これらの徳は求めれば得られるが、放置しておけば失ってしまうものだ。』と言うのである。人により善悪・賢愚の差が二倍にも五倍にもなり、ついには測ることも出来ないほどに開いてしまうのは、本性に善・不善があるのではなく、本来持っている素質を十分に発揮することが出来たか出来ないかによるのだ。『詩経』の大雅の蒸民篇にも、『天が万民を生んだ時、物事にもすべて正しい法則を有らしめ、民は常にそれを固持しているからこそ、この美徳を好む。』とあるが、孔子は、『この詩を作った人は、人の道をよく心得ているね。』と言ったそうだ。このように物事には必ず法則があるもので、人たる者は皆その常道をその心に保つ。だからこの美徳を好むのである。それは性が善であることの証である。」

公都子曰、告子曰、性無善無不善也。或曰、性可以為善、可以為不善。是故文武興、則民好善、幽厲興、則民好暴。或曰、有性善、有性不善。是故以堯為君而有象、以瞽瞍為父而有舜。以紂為兄之子、且以為君、而有微子啟、王子比干。今曰性善、然則彼皆非與。孟子曰、乃若其情、則可以為善矣。乃所謂善也。若夫為不善、非才之罪也。惻隱之心、人皆有之。羞惡之心、人皆有之。恭敬之心、人皆有之。是非之心、人皆有之。惻隱之心、仁也。羞惡之心、義也。恭敬之心、禮也。是非之心、智也。仁義禮智、非由外鑠我也。我固有之也。弗思耳矣。故曰、求則得之、舍則失之。或相倍蓰而無算者、不能盡其才者也。詩曰、天生蒸民、有物有則。民之秉夷、好是懿德。孔子曰、為此詩者、其知道乎。故有物必有則、民之秉夷也、故好是懿德。

公都子曰く、「告子曰く、『性は善も無く不善も無きなり。』或ひと曰く、『性は以て善を為す可く、以て不善を為す可し。是の故に文武興れば、則ち民善を好み、幽厲興れば、則ち民暴を好む。』或ひと曰く、『性善なる有り、性不善なる有り。是の故に堯を以て君と為して、象有り、瞽瞍を以て父と為して舜有り。紂を以て兄の子と為し、且つ以て君と為して、微子啓・王子比干有り。』今、性は善なりと曰う。然らば則ち彼は皆非なるか。」孟子曰く、「乃ち其の情に若えば、則ち以て善を為す可し。乃ち所謂善なり。夫の不善を為すが若きは、才の罪に非ざるなり。惻隱の心は、人皆之れ有り。羞惡の心は、人皆之れ有り。恭敬の心は、人皆之れ有り。是非の心は、人皆之れ有り。惻隱の心は、仁なり。羞惡の心は、義なり。恭敬の心は、禮なり。是非の心は、智なり。仁義禮智は、外由り我を鑠(シャク)するに非ざるなり。我之を固有するなり。思わざるのみ。故に曰く、『求むれば則ち之を得、舍つれば則ち之を失う。』或いは相倍蓰して、算無き者は、其の才を盡くすこと能わざる者なり。詩に曰く、『天の蒸民を生ずる、物有れば則有り。民は夷を秉(とる)る、是の懿德を好む。』孔子曰く、『此の詩を為る者は、其れ道を知れるか。』故に物有れば必ず則有り。民は夷を秉る、故に是の懿德を好む。」

<語釈>
○「乃若其情」、趙注:「若」は「順」なり。朱注:乃若は發語の辭なり。趙注によれば、「乃ち其の情に順えば」と訓じ、朱注は、「乃ち其の情の若く」と訓ず。趙注を採用する。○「情、才」、「情」、「才」の説明は色々あるが、服部宇之吉氏の説明が分かりやすいので、それを紹介し、これに随い本文を解釈する、「本性の自然に発露する所を情と云い、又其の活用する所を才と名づく。」○「惻隱之心」、服部宇之吉氏云う、「惻隱の心とは、己に利害関係なきものをも憐れむ情なり。」。○「鑠」、金属を高熱で溶かす意。ここでは、溶かした金属でメッキする意。○「倍蓰」、「倍」は二倍、「蓰」(シ)は五倍。○「無算者」、計算出来ないほどに、という意味。○「夷」、趙注:「夷」は「常」なり。

<解説>
この節では性善説が非常に分かりやすく説かれており、孟子の性善説を知るうえで貴重な資料である。本性の発露が仁義礼智であり、それは外に在るのではなく、誰もが内に持っているもので、ただそれを十分に発揮できるかどうかによって、人の善惡賢愚に差がつくのである。だから人はその事を常に思い描いて仁義礼智を実践することが大事なのである、というのがこの節の趣旨であろう。

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