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『孟子』巻第十四盡心章句下 二百四十一節、二百四十二節、二百四十三節、二百四十四節

2019-09-27 10:25:03 | 四書解読
二百四十一節
貉稽という者が言った。
「私は人から悪口を言われ悩んでいます。」
孟子は言った。
「気にすることはありません。士という者は見識が増えれば増えるほど人から憎まれるものです。『詩経』邶風、柏舟篇にも、『悄悄として心が憂えるのは、小人どもが寄り集まって、謗るからだ』とあるのは、孔子のような場合を指すのでしょう。『詩経』大雅、文王之什緜篇に、『けっきょく、小人どもの怒りを断ち切ることはできなかったが、その名声も失墜させることはなかった』とあるのは、文王のような場合を指すのです。孔子や文王でさえ悪口を言われるのですから、心配することはありません。」

貉稽曰、稽大不理於口。孟子曰、無傷也。士憎茲多口。詩云、憂心悄悄、慍于群小、孔子也。肆不殄厥慍、亦不隕厥問、文王也。

貉稽(ハク・ケイ)曰く、「稽大いに口に理あらず。」孟子曰く、「傷むこと無かれ。士は茲の多口に憎まる。詩に云う、『憂心悄悄たり、羣小に慍らる』とは、孔子なり。『肆(ついに)に厥に慍りを殄(たつ)たず、亦た厥の問を隕とさず』とは、文王なり。」

<語釈>
○「不理於口」、趙注:衆口の訕る所と為す、理は、頼なり。謗られて悩んでいる意。○「士憎茲多口」、諸説有り、「憎」を「増」の仮借として、「益々」の義に読む例が多いが、安井息軒氏はそのまま“にくむ”と読み、士は多くの人から憎まれる、と解する。この説を採用する。○「詩」、『詩経』邶風、柏舟篇。○「憂心悄悄、慍于群小」、趙注:憂、心に在るなり、群小に慍るは、小人聚まりて議して賢者を非るを怨むなり。「悄悄」は、憂える貌。○「肆不殄厥慍、亦不隕厥問」、『詩経』大雅、文王之什緜篇。「肆」は“ついに”、「殄」は“たつ”、「厥」は“この”と訓ず、「問」は名声、

<解説>
趙岐の章指に云う、「己を正しくし心を信にすれば、衆口を患えず、衆口の諠嘩、大聖も有する所なり、況や凡品の能く禦ぐ所をや、故に貉稽に對えて曰く、傷むこと無かれ、と。

二百四十二節

孟子は言った。
「賢者は自らの明徳をもって、人々をも明らかにさせようとするが、今の国を治める者たちは、自ら暗愚でありながら、人々を明らかにさせようとしている。」

孟子曰、賢者以其昭昭、使人昭昭。今以其昏昏使人昭昭。

孟子曰く、「賢者は其の昭昭を以て、人をして昭昭たらしむ。今、其の昏昏を以て、人をして昭昭たらしめんとす。」

<語釈>
○「昭昭・昏昏」、朱注:昭昭は、明なり、昏昏は、闇なり。

<解説>
趙注に云う、「賢者、國を治むるに、法度は昭昭にして、道徳を明らかにす、是れ躬ら化するの道にして可なり、今の國を治むるものは、法度昏昏にして、亂潰の政なり、身、治むること能わずして、他人をして昭明せしめんと欲す、得可からざるなり。」通釈はこの趙注の内容を取り入れて理解してほしい。

二百四十三節
孟子は嘗て弟子であった高子に向かって言った。
「山の峰の小道も、しばらく確固として使い続ければ、まともな道になるが、しばらくの間使わなければ、茅が生い茂って道を塞いでしまう。ここしばらく、おまえは正道を歩んでいないから、茅がお前の心を塞いでしまているのだ。」

孟子謂高子曰、山徑之蹊、閒介然用之、而成路。為閒不用、則茅塞之矣。今茅塞子之心矣。

孟子、高子に謂いて曰く、「山徑の蹊、閒く介然として之を用うれば、路を成す。閒く用いざるを為せば、則ち茅、之を塞ぐ。今や、茅、子の心を塞げり。」

<語釈>
○「高子」、趙注:高子は齊の人なり、嘗て孟子に學び、道に郷いて明らかならず、去りて他術を學ぶ。○「山徑之蹊、閒介然用之」、趙注:山徑は、山の領(峰)。蹊は小道。この句の区切りについて異説が多い、「閒」を前につけ「蹊閒」で区切ぎる説、「閒介」を熟語とする説などいろいろあるが、安井息軒氏は、「兩つの閒の字は相喚して文を為す、兩物相去るの中、之を閒と謂う、近き自り遠きに至る、始め自り終わりに至る、皆以て閒と言う可し、此の閒は始め自り終わりに至るの中閒を謂う、猶ほ數月を言うがごとし、言う、數月介然として一定に之を用うれば、則ち路を成す、と。」と述べ、「閒」をしばらくの間の意に解している。これを採用する。「介然」は、堅固の貌。

<解説>
趙岐の章指に云う、「聖人の道は、學びて時に習う、仁義は身に在りて、常常被服す、舎てて脩めずんば、猶ほ茅の是を塞ぐがごとし、善を為すの倦む可からざるを明らかにするなり。」

二百四十四節
嘗ての弟子であった高子が言った。
「禹の音楽は、文王の音楽より勝っていると思います。」
孟子は言った。
「どのような理由でそういうことを言うのか。」
「禹の鐘のほうが、取っ手がよりすり減っていることからして、禹の音楽の方が優れているから、その鐘を多く使ったという証拠でしょう。」
「そんなものは大した証拠にはならない。城門のところにあるわだちの跡は、一台や二台の車によるものではない。長い年月にわたって通行した車によるものである。禹の鐘も同じことで、優劣で無く年月の差なのだ。」

高子曰、禹之聲、尚文王之聲。孟子曰、何以言之。曰、以追蠡。曰、是奚足哉。城門之軌、兩馬之力與。

高子曰く、「禹の聲は、文王の聲より尚し。」孟子曰く、「何を以て之を言う。」曰く、「追(タイ)の蠡(レイ)せるを以てなり。」曰く、「是れ奚ぞ足らんや。城門の軌は、兩馬の力ならんや。」

<語釈>
○「以追蠡」、服部宇之吉氏の解説が分かりやすいのでそれを紹介する。云う、「追(タイ)は鐘鈕(鐘の取っ手)、蠡(レイ)は囓木蟲、ここにては摩滅絶えんとする形容とす、必ずしも蝕の義に非ず、(中略)鐘は音楽中の主聲にして、其の鐘鈕を見るに禹のは破損して絶えなんとし、文王のは然らず、以て禹の鐘を使用したること文王より多かりしを知るべしという義。」

<解説>
趙注に云う、「先代の楽器、後王皆之を用う、禹、文王の前に在ること、千有餘歳、鐘を用うること日久し、故に追、絶えんと欲するのみ。」この注と語釈で述べた服部宇之吉氏の注とを合わせて、この節の意義を理解してほしい。

『孟子』巻第十四盡心章句下 二百三十七節、二百三十八節、二百三十九節、二百四十節

2019-09-22 10:12:41 | 四書解読
二百三十七節
孟子は言った。
「聖人は、百世にわたって師たる人物である。周の伯夷や魯の柳下惠などがそれである。だから今でも伯夷の清廉な人柄を聞けば、貪欲な人も清廉となり、惰弱な男でも志を立てて頑張るようになる。柳下惠の度量の広い人柄を聞けば、薄情な人も敦厚になり、度量の狭い人も寛大になる。百世の昔に有名であった者が、百世の後でもその人柄を聞けば感化されて奮い立たぬ者はいない。聖人でなければ、どうしてこのような事があり得ようか。百世の後の人間でさえこのように感化されるのだから、当時直接に感化を受けた人々は言うまでも無いことだ。」

孟子曰、聖人百世之師也。伯夷柳下惠是也。故聞伯夷之風者、頑夫廉、懦夫有立志。聞柳下惠之風者、薄夫敦、鄙夫寬。奮乎百世之上、百世之下、聞者莫不興起也。非聖人而能若是乎。而況於親炙之者乎。

孟子曰く、「聖人は百世の師なり。伯夷・柳下惠是れなり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り。柳下惠の風を聞く者は、薄夫も敦く、鄙夫も寬なり。百世の上に奮い、百世の下、聞く者興起せざるは莫きなり。聖人に非ずんば、能く是の若くならんや。而るを況んや之に親炙する者に於いてをや。」

<語釈>
○「頑夫・懦夫」、趙注:頑は、貪なり、懦は、弱なり。○「鄙夫」、趙注:鄙は、狭なり。度量の狭いこと。○「親炙」、親しくその人に接して感化を受けること。親炙に浴するなどと今でも使われるが、その出典がここである。

<解説>
「聖人は百世の師なり」と述べられているが、聖人に限らず、人は心の師とする人物を持っていることが多い。人として後世にまで心の師とされるのは、誠に尊敬されるべき人物である。百三十二節に伯夷・柳下惠に関する同文があり、参照されたし

二百三十八節
孟子は言った。
「仁というものは、人が人たる所以の根本であり、それを行うのは人である。仁とそれを行う人とを合わせて道というのである。」

孟子曰、仁也者、人也。合而言之、道也。

孟子曰く、「仁なる者は、人なり。合せて之を言えば、道なり。」

<解説>
この節は、このままでは理解し難く、昔から脱文があるのではと言われている。程子は云う、「或いは曰く、外國本に、人也の下に、有義也者宜也、禮也者履也、智也者知也、信也者實也の凡そ二十字有り、今按ずるに此の如ければ、則ち理極分明なり、然れども未だ其の是非詳らかならざるなり。」この外国本は朝鮮の高麗で刊行された本らしい。今は一応朱注に従って解釈しておく。朱注:仁なる者は、人の人為る所以の理なり、然り、仁理なり、人物なり、仁の理を以て人の身に合わせて之を言う、乃ち所謂道なる者なり。

二百三十九節
孟子は言った。
「孔子が故郷の魯を去るとき、『遅々として進まぬ吾が歩みよ。』と言われた。これは父母の国を去るのだから当然の姿である。齊を去ったときは、米を水に漬けながら、炊飯する暇も惜しんで、米をそのまま持って去るほどに、足早に去って行った。これは他国を去るのだから当然のことである。」

孟子曰、孔子之去魯、曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。去齊、接淅而行。去他國之道也。

孟子曰く、「孔子の魯を去るや、曰く、『遲遲として吾行くなり。』父母の國を去るの道なり。齊を去るや、淅を接して行く。他國を去るの道なり。」

<語釈>
○「接淅而行」、服部宇之吉氏云う、「接」は乾かすなり、「淅」は水に漬せる米なり、「接淅」は水に漬せる米の水を去り、乾かし、炊がずして去ると云うことなり、去ること急にして、飯を炊ぐの暇なく。米のままににて持ち去るなり。

<解説>
百三十二節に同様の文章があり、参照されたし。

二百四十節
孟子は言った。
「孔子が陳国と蔡國との間で困厄に遭遇したのは、その国の君臣俱に悪人で信頼関係も無く、孔子が交わりを通じるに足るだけの人物がいなかったからである。」

孟子曰、君子之戹於陳蔡之閒、無上下之交也。

孟子曰く、「君子の陳蔡の閒に戹するは、上下の交わり無ければなり。」

<語釈>
○「君子」、趙注:君子は孔子なり。○「戹」、朱注:戹は、厄と同じ。困厄のこと。○「無上下之交」、趙注:其の國の君臣皆惡にして、上下交接する所無し、故に戹するなり。

<解説>
趙岐の章指に云う、「君子固より窮す、窮すとも道を變えず、上下交わり無く、賢に援け無し。」

『史記』吳王濞列伝

2019-09-16 10:15:45 | 四書解読
吳王濞は、高帝の兄劉仲の子なり。高帝已に天下定めて七年、劉仲を立てて代王と為す。而して匈奴、代を攻むるや、劉仲堅く守ること能わず。國を棄てて亡げ、閒行して雒陽に走り、自ら天子に歸す。天子、骨肉の為の故に、法を致すに忍びず、廢して以て郃陽侯と為す。高帝十一年秋、淮南王英布反し、東のかた荊の地を并せ、其の國兵を劫し、西のかた淮を度り、楚を撃つ。高帝自ら將として往きて之を誅す。劉仲の子沛侯濞年二十、氣力有り、騎將を以て從い布の軍を蘄の西、會甀(スイ)に破り、布走る。荊王劉賈、布の殺す所と為り、後無し。上、呉・會稽の輕悍(気性が荒く不安定)にして、壯王の以て之を填する無きを患う。諸子少し。乃ち濞を沛に立てて吳王と為し、三郡五十三城に王とす。已に拜して印を受く。高帝、濞を召して之を相し、謂いて曰く、「若の狀、反相有り。」心獨り悔ゆれども、業已(二字で“すでに”)に拜す。因りて其の背を拊で、告げて曰く、「漢の後五十年、東南に亂有らんには、豈に若か。然れども天下同姓にして一家為り。慎んで反すること無かれ。」濞頓首して曰く、「敢てせず。」會々孝惠・高后の時、天下初めて定まり、郡國の諸侯各々務めて自ら其の民を拊循す。呉に豫章郡の銅山有り。濞則ち天下の亡命者を招致して、盜(ひそかに)かに銭を鑄、海水を煮て鹽を為る。故を以て賦無くして、國用富饒なり。孝文の時、呉の太子入りて見え、皇太子に侍して飲博するを得たり。呉の太子の師傅は皆楚人、輕悍にして、又素より驕る。博して道を爭い不恭なり。皇太子、博局を引きて呉の太子に提(なげうつ)ちて之を殺す。是に於て其の喪を遣り歸葬せしむ。呉に至る。呉王慍りて曰く、「天下同宗なり、長安に死せば即ち長安に葬らん。何ぞ必ずしも來りて葬らんや(「為」は反語の助辞)。」復た喪を派り長安に之きて葬る。
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『孟子』巻十四盡心章句下 二百三十三節、二百三十四節、二百三十五節、二百三十六節

2019-09-10 10:24:14 | 四書解読
二百三十三節
孟子は言った。
「真に名誉を願う人は、その為なら兵車千台を有するような国でも譲ることが出来る。苟くもそうでない人は、一わんの食べ物や一杯の汁物という粗末な食べ物でも争い、利欲の心をむき出しにするものである。」

孟子曰、好名之人、能讓千乘之國。苟非其人、簞食豆羹見於色。

孟子曰く、「名を好むの人は、能く千乘の國を讓る。苟くも其の人に非ざれば、簞食豆羹も色に見わる。」

<語釈>
○「好名之人~」、趙注:不朽の名を好む者は、千乘を輕んず、子臧・季札の儔(たぐい)、是れなり、誠に名を好む者に非ざれば、簞食豆羹を争い、色を變じ、之を訟い禍を致す、鄭の子公、指を黿(本来別字であるが、義は同じでスッポンのこと)羹に染むるの類、是れなり。他説もあるが、趙注に従って解釈をする。

<解説>
ここで言われている「好名」とは、単なる目立ちたがり屋の名誉ではない。この時代「名」というのは非常に重く大切なものである。「好名」の根底には「行道」があると思う。故に道の為なら、千乘の国も讓ると解釈してもよいだろう。


二百三十四節

孟子は言った。
「仁者や賢者を信じて用いなければ、国は人材がおらず、人がいないのも同然となる。国に礼義が無ければ、上下の関係が乱れてしまう。政治政策が正しくなければ、無理な税の取り立てや浪費で、国の財政は足らなくなる。」

孟子曰、不信仁賢、則國空虚。無禮義、則上下亂。無政事、則財用不足。

孟子曰く、「仁賢を信ぜざれば、則ち國空虚なり。禮義無ければ、則ち上下亂る。政事無ければ、則ち財用足らず。」

<解説>
国の大事として、仁賢・禮義・政事の三者を挙げているが、尹氏云う、「三者、仁賢を以て本と為す、仁賢無ければ、則ち禮義・政事、之に處りて皆其の道を以てせず。」と。乃ち三者の中でも仁賢が最も根本であり、仁者・賢者がおればこそ、国の禮義や政治政策は善く行われるということである。

二百三十五節
孟子は言った。
「不仁であっても、たまたま国を得て諸侯になった者はいてるが、不仁であって、天下を得て天子になった者は、いまだかってないのである。」

孟子曰、不仁而得國者、有之矣。不仁而得天下、未之有也。

孟子曰く、「不仁にして、國を得る者、之れ有り。不仁にして天下を得るものは、未だ之れ有らざるなり。」

<解説>
孟子及び儒家の理想論であろう。服部宇之吉氏云う、「不仁なりとも天子の親なれば、天子之を封じて諸侯と為せる例あり、然れども天子の子なりとも不仁なれば天子の位に居る能わず、民服せず、天許さざればなり。」又趙岐の章指にも云う、「王は、天に當(かなう)い、然る後之に處る、桀・紂・幽・厲は、得ると雖も猶ほ失う、善を以て終えずして、世々祀ること能わざるは、得ると為さざるなり。」

二百三十六節
孟子は言った。
「国にとって、人民は最も貴い者であり、次いで社稷であり、君主は一番軽いものだ。だから人民の心を得て認められた者が天子になり、天子に認められた者が諸侯になり、諸侯に認められた者が大夫になる。諸侯が無道で社稷を危うくするようであれば、その諸侯を変えればよい。社稷に供える犠牲もととのい、穀類も清らかに供えられ、時期を誤らずに祭祀しているのに、干ばつや洪水がおこるようであれば、それは社稷の責任であるから、その社稷を取り壊して、新たに作り替えればよい。」

孟子曰、民為貴、社稷次之、君為輕。是故得乎丘民而為天子、得乎天子為諸侯、得乎諸侯為大夫。諸侯危社稷、則變置。犧牲既成、粢盛既潔、祭祀以時。然而旱乾水溢、則變置社稷。

孟子曰く、「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を輕しと為す。是の故に丘民に得られて天子と為り、天子に得られて諸侯と為り、諸侯に得られて大夫と為る。諸侯、社稷を危うくすれば、則ち變置す。犧牲既に成り、粢盛既に潔く、祭祀時を以てす。然り而して旱乾水溢あれば、則ち社稷を變置す。」

<語釈>
○「丘民」、趙注に、丘は十六井なり、とあり、行政単位のようなものなので、丘民は、天下の民ぐらいに解釈するのが良いと思う。

<解説>
君主が無道で社稷を危うくすれば、それは君主の責任であり、祭祀をきちんと行っているのに、災害などが起こるのは、社稷の責任であると言い、神の責任を問うているのが面白い。

『孟子』巻第十四盡心章句下 二百三十三節、二百三十四節、二百三十五節、二百三十六節

2019-09-04 10:20:39 | 四書解読
二百三十三節
孟子は言った。
「真に名誉を願う人は、その為なら兵車千台を有するような国でも譲ることが出来る。苟くもそうでない人は、一わんの食べ物や一杯の汁物という粗末な食べ物でも争い、利欲の心をむき出しにするものである。」

孟子曰、好名之人、能讓千乘之國。苟非其人、簞食豆羹見於色。

孟子曰く、「名を好むの人は、能く千乘の國を讓る。苟くも其の人に非ざれば、簞食豆羹も色に見わる。」

<語釈>
○「好名之人~」、趙注:不朽の名を好む者は、千乘を輕んず、子臧・季札の儔(たぐい)、是れなり、誠に名を好む者に非ざれば、簞食豆羹を争い、色を變じ、之を訟い禍を致す、鄭の子公、指を黿(本来別字であるが、義は同じでスッポンのこと)羹に染むるの類、是れなり。他説もあるが、趙注に従って解釈をする。

<解説>
ここで言われている「好名」とは、単なる目立ちたがり屋の名誉ではない。この時代「名」というのは非常に重く大切なものである。「好名」の根底には「行道」があると思う。故に道の為なら、千乘の国も讓ると解釈してもよいだろう。


二百三十四節
孟子は言った。
「仁者や賢者を信じて用いなければ、国は人材がおらず、人がいないのも同然となる。国に礼義が無ければ、上下の関係が乱れてしまう。政治政策が正しくなければ、無理な税の取り立てや浪費で、国の財政は足らなくなる。」

孟子曰、不信仁賢、則國空虚。無禮義、則上下亂。無政事、則財用不足。

孟子曰く、「仁賢を信ぜざれば、則ち國空虚なり。禮義無ければ、則ち上下亂る。政事無ければ、則ち財用足らず。」

<解説>
国の大事として、仁賢・禮義・政事の三者を挙げているが、尹氏云う、「三者、仁賢を以て本と為す、仁賢無ければ、則ち禮義・政事、之に處りて皆其の道を以てせず。」と。乃ち三者の中でも仁賢が最も根本であり、仁者・賢者がおればこそ、国の禮義や政治政策は善く行われるということである。

二百三十五節
孟子は言った。
「不仁であっても、たまたま国を得て諸侯になった者はいてるが、不仁であって、天下を得て天子になった者は、いまだかってないのである。」

孟子曰、不仁而得國者、有之矣。不仁而得天下、未之有也。

孟子曰く、「不仁にして、國を得る者、之れ有り。不仁にして天下を得るものは、未だ之れ有らざるなり。」

<解説>
孟子及び儒家の理想論であろう。服部宇之吉氏云う、「不仁なりとも天子の親なれば、天子之を封じて諸侯と為せる例あり、然れども天子の子なりとも不仁なれば天子の位に居る能わず、民服せず、天許さざればなり。」又趙岐の章指にも云う、「王は、天に當(かなう)い、然る後之に處る、桀・紂・幽・厲は、得ると雖も猶ほ失う、善を以て終えずして、世々祀ること能わざるは、得ると為さざるなり。」

二百三十六節
孟子は言った。
「国にとって、人民は最も貴い者であり、次いで社稷であり、君主は一番軽いものだ。だから人民の心を得て認められた者が天子になり、天子に認められた者が諸侯になり、諸侯に認められた者が大夫になる。諸侯が無道で社稷を危うくするようであれば、その諸侯を変えればよい。社稷に供える犠牲もととのい、穀類も清らかに供えられ、時期を誤らずに祭祀しているのに、干ばつや洪水がおこるようであれば、それは社稷の責任であるから、その社稷を取り壊して、新たに作り替えればよい。」

孟子曰、民為貴、社稷次之、君為輕。是故得乎丘民而為天子、得乎天子為諸侯、得乎諸侯為大夫。諸侯危社稷、則變置。犧牲既成、粢盛既潔、祭祀以時。然而旱乾水溢、則變置社稷。

孟子曰く、「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を輕しと為す。是の故に丘民に得られて天子と為り、天子に得られて諸侯と為り、諸侯に得られて大夫と為る。諸侯、社稷を危うくすれば、則ち變置す。犧牲既に成り、粢盛既に潔く、祭祀時を以てす。然り而して旱乾水溢あれば、則ち社稷を變置す。」

<語釈>
○「丘民」、趙注に、丘は十六井なり、とあり、行政単位のようなものなので、丘民は、天下の民ぐらいに解釈するのが良いと思う。

<解説>
君主が無道で社稷を危うくすれば、それは君主の責任であり、祭祀をきちんと行っているのに、災害などが起こるのは、社稷の責任であると言い、神の責任を問うているのが面白い。