二百四十一節
貉稽という者が言った。「私は人から悪口を言われ悩んでいます。」
孟子は言った。
「気にすることはありません。士という者は見識が増えれば増えるほど人から憎まれるものです。『詩経』邶風、柏舟篇にも、『悄悄として心が憂えるのは、小人どもが寄り集まって、謗るからだ』とあるのは、孔子のような場合を指すのでしょう。『詩経』大雅、文王之什緜篇に、『けっきょく、小人どもの怒りを断ち切ることはできなかったが、その名声も失墜させることはなかった』とあるのは、文王のような場合を指すのです。孔子や文王でさえ悪口を言われるのですから、心配することはありません。」
貉稽曰、稽大不理於口。孟子曰、無傷也。士憎茲多口。詩云、憂心悄悄、慍于群小、孔子也。肆不殄厥慍、亦不隕厥問、文王也。
貉稽(ハク・ケイ)曰く、「稽大いに口に理あらず。」孟子曰く、「傷むこと無かれ。士は茲の多口に憎まる。詩に云う、『憂心悄悄たり、羣小に慍らる』とは、孔子なり。『肆(ついに)に厥に慍りを殄(たつ)たず、亦た厥の問を隕とさず』とは、文王なり。」
<語釈>
○「不理於口」、趙注:衆口の訕る所と為す、理は、頼なり。謗られて悩んでいる意。○「士憎茲多口」、諸説有り、「憎」を「増」の仮借として、「益々」の義に読む例が多いが、安井息軒氏はそのまま“にくむ”と読み、士は多くの人から憎まれる、と解する。この説を採用する。○「詩」、『詩経』邶風、柏舟篇。○「憂心悄悄、慍于群小」、趙注:憂、心に在るなり、群小に慍るは、小人聚まりて議して賢者を非るを怨むなり。「悄悄」は、憂える貌。○「肆不殄厥慍、亦不隕厥問」、『詩経』大雅、文王之什緜篇。「肆」は“ついに”、「殄」は“たつ”、「厥」は“この”と訓ず、「問」は名声、
<解説>
趙岐の章指に云う、「己を正しくし心を信にすれば、衆口を患えず、衆口の諠嘩、大聖も有する所なり、況や凡品の能く禦ぐ所をや、故に貉稽に對えて曰く、傷むこと無かれ、と。
二百四十二節
孟子は言った。
「賢者は自らの明徳をもって、人々をも明らかにさせようとするが、今の国を治める者たちは、自ら暗愚でありながら、人々を明らかにさせようとしている。」
孟子曰、賢者以其昭昭、使人昭昭。今以其昏昏使人昭昭。
孟子曰く、「賢者は其の昭昭を以て、人をして昭昭たらしむ。今、其の昏昏を以て、人をして昭昭たらしめんとす。」
<語釈>
○「昭昭・昏昏」、朱注:昭昭は、明なり、昏昏は、闇なり。
<解説>
趙注に云う、「賢者、國を治むるに、法度は昭昭にして、道徳を明らかにす、是れ躬ら化するの道にして可なり、今の國を治むるものは、法度昏昏にして、亂潰の政なり、身、治むること能わずして、他人をして昭明せしめんと欲す、得可からざるなり。」通釈はこの趙注の内容を取り入れて理解してほしい。
二百四十三節
孟子は嘗て弟子であった高子に向かって言った。「山の峰の小道も、しばらく確固として使い続ければ、まともな道になるが、しばらくの間使わなければ、茅が生い茂って道を塞いでしまう。ここしばらく、おまえは正道を歩んでいないから、茅がお前の心を塞いでしまているのだ。」
孟子謂高子曰、山徑之蹊、閒介然用之、而成路。為閒不用、則茅塞之矣。今茅塞子之心矣。
孟子、高子に謂いて曰く、「山徑の蹊、閒く介然として之を用うれば、路を成す。閒く用いざるを為せば、則ち茅、之を塞ぐ。今や、茅、子の心を塞げり。」
<語釈>
○「高子」、趙注:高子は齊の人なり、嘗て孟子に學び、道に郷いて明らかならず、去りて他術を學ぶ。○「山徑之蹊、閒介然用之」、趙注:山徑は、山の領(峰)。蹊は小道。この句の区切りについて異説が多い、「閒」を前につけ「蹊閒」で区切ぎる説、「閒介」を熟語とする説などいろいろあるが、安井息軒氏は、「兩つの閒の字は相喚して文を為す、兩物相去るの中、之を閒と謂う、近き自り遠きに至る、始め自り終わりに至る、皆以て閒と言う可し、此の閒は始め自り終わりに至るの中閒を謂う、猶ほ數月を言うがごとし、言う、數月介然として一定に之を用うれば、則ち路を成す、と。」と述べ、「閒」をしばらくの間の意に解している。これを採用する。「介然」は、堅固の貌。
<解説>
趙岐の章指に云う、「聖人の道は、學びて時に習う、仁義は身に在りて、常常被服す、舎てて脩めずんば、猶ほ茅の是を塞ぐがごとし、善を為すの倦む可からざるを明らかにするなり。」
二百四十四節
嘗ての弟子であった高子が言った。「禹の音楽は、文王の音楽より勝っていると思います。」
孟子は言った。
「どのような理由でそういうことを言うのか。」
「禹の鐘のほうが、取っ手がよりすり減っていることからして、禹の音楽の方が優れているから、その鐘を多く使ったという証拠でしょう。」
「そんなものは大した証拠にはならない。城門のところにあるわだちの跡は、一台や二台の車によるものではない。長い年月にわたって通行した車によるものである。禹の鐘も同じことで、優劣で無く年月の差なのだ。」
高子曰、禹之聲、尚文王之聲。孟子曰、何以言之。曰、以追蠡。曰、是奚足哉。城門之軌、兩馬之力與。
高子曰く、「禹の聲は、文王の聲より尚し。」孟子曰く、「何を以て之を言う。」曰く、「追(タイ)の蠡(レイ)せるを以てなり。」曰く、「是れ奚ぞ足らんや。城門の軌は、兩馬の力ならんや。」
<語釈>
○「以追蠡」、服部宇之吉氏の解説が分かりやすいのでそれを紹介する。云う、「追(タイ)は鐘鈕(鐘の取っ手)、蠡(レイ)は囓木蟲、ここにては摩滅絶えんとする形容とす、必ずしも蝕の義に非ず、(中略)鐘は音楽中の主聲にして、其の鐘鈕を見るに禹のは破損して絶えなんとし、文王のは然らず、以て禹の鐘を使用したること文王より多かりしを知るべしという義。」
<解説>
趙注に云う、「先代の楽器、後王皆之を用う、禹、文王の前に在ること、千有餘歳、鐘を用うること日久し、故に追、絶えんと欲するのみ。」この注と語釈で述べた服部宇之吉氏の注とを合わせて、この節の意義を理解してほしい。