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『孟子』巻第九萬章章句上 百二十九節

2018-09-30 10:03:59 | 四書解読
百二十九節

弟子の萬章は尋ねた。
「伊尹は料理の腕で殷の湯王に取り入ったという人がいますが、本当でしょうか。」
孟子が答えた。
「いや、それは違う。伊尹は有莘の地で農業をしながら、堯・舜の道を楽しんでいた。そして義にそむき道に外れていれば、たとえ禄として天下を与えると言われても、顧みもしなかった。贈り物として馬四千頭を繋いで見せても、見向きもしなかった。義にそむき道に外れていれば、塵一つ人に与えないし、人から受け取らなかったのである。湯王は人を遣わし、礼物を整えて伊尹を招聘させた。しかし伊尹は無欲で関心を示さずに、『私にとって湯王の礼物など何の関心もない。私は田畑の間で百姓をしながら、堯・舜の道を楽しんでおり、これ以上のものはない。』と言った。湯王はあきらめず招聘すること三たびに及んで、遂に伊尹は態度を改めて思った、『私は田畑の中に居り、百姓しながら堯・舜の道を楽しむより、この君をして堯・舜のような王にする方がよいのではないか。この君の民をして堯・舜の民のように幸福にする方がよいのではないか。そして堯・舜時代の社会を私自身が見届けるのがよいのではないか。そもそも、天がこの世に人間を生じさせるに当たっては、先に物事を知った者に、まだ知らない者を教えさせ、先に目覚めた者が、まだ目覚めていない者を目覚めさせようとしているのであって、私は当にその先覚者だ。私が堯・舜の道を以てこの民を目覚めさせなければ、一体誰が目覚めさせるというのだ。』かくして伊尹は天下の人民の内、一人の男、一人の女でも堯・舜の恩沢を被っていない者が有れば、あたかも自分が彼らを溝の中へ突き落したかのように感じたのであった。このように人民を幸福にするという天下の重大事を己の任務としたのだ。だから湯王のもとへ出かけ、夏を伐ち民を救うことを説いたのである。私は己の道理を曲げて、人の不正を正すという話は聞いたことがない。まして自分を恥ずかしめるような行為をしながら天下を正すことなどもってのほかである。聖人の行動はみな同じではない。君主から遠ざかる者もいれば使づく者もいる、去る者もいれば去らずに仕える者もいる。だがその帰するところは唯一つわが身の潔白を保つことだ。私は伊尹が堯・舜の道を以て湯王に仕えたとは聞いているが、料理の腕前で取り入ったとは聞いたことがない。『書経』の伊訓篇に、『天は夏の罪を誅せんとして、桀王の宮殿である牧宮から始めた。私伊尹は亳から始めよう。』と言っている通りである。」

萬章問曰、人有言。伊尹以割烹要湯。有諸。孟子曰、否、不然。伊尹耕於有莘之野、而樂堯舜之道焉。非其義也、非其道也、祿之以天下、弗顧也。繫馬千駟、弗視也。非其義也、非其道也、一介不以與人、一介不以取諸人。湯使人以幣聘之。囂囂然曰、我何以湯之聘幣為哉。我豈若處畎畝之中、由是以樂堯舜之道哉。湯三使往聘之。既而幡然改曰、與我處畎畝之中、由是以樂堯舜之道、吾豈若使是君為堯舜之君哉。吾豈若使是民為堯舜之民哉。吾豈若於吾身親見之哉。天之生此民也、使先知覺後知、使先覺覺後覺也。予天民之先覺者也。予將以斯道覺斯民也。非予覺之、而誰也。思天下之民匹夫匹婦有不被堯舜之澤者、若己推而內之溝中。其自任以天下之重如此。故就湯而說之以伐夏救民。吾未聞枉己而正人者也。況辱己以正天下者乎。聖人之行不同也。或遠或近、或去或不去。歸潔其身而已矣。吾聞其以堯舜之道要湯、未聞以割烹也。伊訓曰、天誅造攻、自牧宮。朕載自亳。

萬章問いて曰く、「人言えること有り。『伊尹は割烹を以て湯に要む。』諸れ有りや。」孟子曰、「否、然らず。伊尹は有莘(シン)の野に耕して、堯舜の道を樂しむ。其の義に非ざるや、其の道に非ざるや、之に祿するに天下を以てするも、顧みざるなり。繫馬千駟も、視ざるなり。其の義に非ざるや、其の道に非ざるや、一介も以て人に與えず、一介も以て諸を人に取らず。湯、人をして幣を以て之を聘せしむ。囂(ゴウ)囂然として曰く、『我何ぞ湯の聘幣を以て為さんや。我豈に畎畝の中に處り、是に由りて以て堯舜の道を樂しむに若かんや。』湯三たび往きて之を聘せしむ。既にして幡然として改めて曰く、『我、畎畝の中に處り、是に由りて以て堯舜の道を樂しむより、吾豈に是の君をして堯舜の君為らしむるに若かんや。吾豈に是の民をして堯舜の民為らしむるに若かんや。吾豈に吾が身に於いて親しく之を見るに若かんや。天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覺らしめ、先覺をして後覺を覺らしむるなり。予は天民の先覺者なり。予將に斯の道を以て斯の民を覺さんとす。予、之を覺すに非ずして誰ぞや。』天下の民、匹夫匹婦の堯舜の澤を被らざる者有るを思うこと、己、推して之を溝中に内るるが若し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此くの如し。故に湯に就きて之を說くに、夏を伐ち民を救うを以てす。吾は未だ己を枉げて人を正す者を聞かざるなり。況んや己を辱しめて、以て天下を正す者をや。聖人の行いは同じからざるなり。或いは遠ざかり或いは近づき、或いは去り或は去らず。其の身を潔くするに歸するのみ。吾其の堯舜の道を以て湯に要むるを聞くも、未だ割烹を以てするを聞かざるなり。伊訓に曰く、『天誅、攻むることを造すは、牧宮自りす。朕は亳自り載む。』」

<語釈>
○「囂囂然」、趙注:囂囂然は、自ら得るに志、無欲の貌なり。無欲で関心がないこと。○「幡然」、趙注:幡は反なり。改める意。○「伊訓」、趙注に逸篇とあり、現在伝わっている『書経』の伊訓篇は偽作である。○「天誅造攻、自牧宮。朕載自亳」、趙注:牧宮は桀の宮、載は始なり。亳は殷の都なり。意は桀を誅伐せんと欲し、攻討す可きの罪を造作する者を言う。朕については、趙注は、湯王とし、朱注は伊尹とする、伊訓篇ということからすれば、伊尹とするほうが妥当であるので、そのように解釈した。

<解説>
伊尹についての話はほとんど伝説であり、真実のほどは分からないが、伊尹は割烹を以て湯に要む、という話は当時でも有名な話だったらしい。それを孟子が、未だ割烹を以てするを聞かざるなり、と言っているのは少し無理があるように思われる。ただ『孟子』の中には伊尹に関する記述が多くあり、孟子自身かなり伊尹を尊敬していふしがあり、料理の腕だけで湯王に仕えたということを潔しとしなかったのではないか。

『孟子』巻第九萬章章句上 百二十八節

2018-09-24 10:17:16 | 四書解読
百二十八節

弟子の萬章は尋ねた。
「禹に至って徳が衰え、天子の位を賢者に伝えず、子に伝えるようになった、という人がおりますが、事実でございますか。」
孟子は答えた。
「いや、それはちがう。天下を伝えるのは天意であって、天が賢者に伝えようと思えば、賢者に与えられ、天が子に伝えようと思えば、子に与えられるのだ。昔、舜は禹を天に推薦すること十七年に及んだ。舜が亡くなり、三年の喪が終わると、禹は舜の子に遠慮して陽城に身を隠した。ところが天下の人民たちは、かって堯が亡くなると、堯の子の下へ行かずに舜に従ったように、禹に附き従った。禹は益を天に推薦すること七年に及んだ。禹が亡くなり、三年の喪が終わると、益は禹の子に遠慮して箕山の北に身を隠した。すると天子に朝見する者や訴訟のある者は皆益の所へ行かずに禹の子の啓の所へ行き、『我が君のご子息だ。』と言った。徳を称え歌う者たちも、益を称えずに啓を称えて歌い、『我が君のご子息だ。』と言った。堯の子の丹朱は不肖の子であり、舜の子も亦た不肖の子であった。舜は堯の宰相を、禹は舜の宰相を長年務め、民に長きにわたり恩沢を施した。ところが禹の子の啓は優れた人物であり、慎んで禹の道を受け継ぎ、一方益が禹の宰相として勤めた期間は短く、民に恩沢を施した期間もそれほど長くはなかった。舜・禹・益の三人が宰相を務めた期間はそれぞれ差があったとか、その子供に賢・不賢の差があったとかは、皆天命であり、人がどうこう出来るものではない。つまり人が望まなくても自然とそう為るのが天であり、呼び寄せようと思っていないのに、自然とやってくるのが命である。一介の平民から天子と為る者は、その徳は必ず舜や禹のごとく高く、更に天子がその人物を天に推薦する者である。だから孔子は舜や禹に劣らぬほど徳が高かったにもかかわらず、天子の推薦がなかったから、天下を保つに至らなかったのである。一方天意により世襲を定められると、それは天の意思であるから、天によりその天子が廃止されるのは、必ず桀・紂のような暴虐の天子に限られるのである。だから益・伊尹・周公はあれほどの徳を有しながら天子になれなかったのである。伊尹は殷の湯王の宰相となって湯王を天下の王者とした。湯王が亡くなり、太子の太丁は王位に就かないうちに亡くなったので、弟の外丙を立てたが二年で亡くなり、更に弟の仲壬を立てたが四年で亡くなった。そこで太丁の子供の太甲を立てたが、彼は湯王の常法を守らず勝手な事をしたので、伊尹は彼を湯王の墓地がある桐邑に追放した。追放されて三年、太甲は過ちを悔い改め、己の為した悪事を怨み、自らを責めて、仁に務め、義に志すこと三年にわたり、伊尹の訓戒をよく聴いたので、都の亳に戻り天子の位に復することが出来た。周公が天子の位に就かなかったのは、夏に於いて益が、殷に於いて伊尹が天子にならなかったのと同じである。だから孔子も、『堯・舜が一代限りで賢者に位を譲ったのも、夏・殷・周が代々王位を世襲したのも、天意に従ったもので、その根本は同じである。』と言っておられるのだ。」

萬章問曰、人有言。至於禹而德衰、不傳於賢而傳於子。有諸。孟子曰、否、不然也。天與賢、則與賢。天與子、則與子。昔者舜薦禹於天、十有七年。舜崩、三年之喪畢、禹避舜之子於陽城。天下之民從之、若堯崩之後、不從堯之子而從舜也。禹薦益於天、七年。禹崩、三年之喪畢、益避禹之子於箕山之陰。朝覲訟獄者不之益而之啓。曰、吾君之子也。謳歌者不謳歌益而謳歌啓。曰、吾君之子也。丹朱之不肖、舜之子亦不肖。舜之相堯、禹之相舜也。歷年多、施澤於民久。啓賢、能敬承繼禹之道。益之相禹也、歷年少、施澤於民未久。舜禹益相去久遠。其子之賢不肖、皆天也。之所能為也。莫之為而為者、天也。莫之致而至者、命也。匹夫而有天下者、德必若舜禹、而又有天子薦之者。故仲尼不有天下。繼世以有天下、天之所廢、必若桀紂者也。故益伊尹周公不有天下。伊尹相湯以王於天下。湯崩、太丁未立、外丙二年、仲壬四年。太甲顛覆湯之典刑。伊尹放之於桐三年。太甲悔過、自怨自艾、於桐處仁遷義三年、以聽伊尹之訓己也、復歸于亳。周公之不有天下、猶益之於夏、伊尹之於殷也。孔子曰、唐虞禪、夏后殷周繼、其義一也。

萬章問いて曰く、「人言える有り。『禹に至りて德衰う、賢に傳えずして子に傳う。』諸れ有りや。」孟子曰く、「否、然らざるなり。天、賢に與うれば、則ち賢に與う。天、子に與うれば、則ち子に與う。昔者、舜、禹を天に薦むること、十有七年。舜崩じ、三年の喪畢り、禹、舜の子を陽城に避く。天下の民、之に從うこと、堯が崩ずるの後、堯の子に從わずして、舜に從うが若し。禹、益を天に薦むること、七年。禹崩じ、三年の喪畢り、益、禹の子を箕山の陰に避く。朝覲・訟獄する者、益に之かずして、啓に之く。曰く、『吾が君の子なり。』謳歌する者、益を謳歌せずして、啓を謳歌す。曰く、『吾が君の子なり。』丹朱は之れ不肖なり、舜の子も亦た不肖なり。舜は之れ堯に相たり、禹は之れ舜に相たり。年を歷ること多く、澤を民に施すこと久し。啓賢にして、能く敬みて禹の道を承繼す。益の禹に相たるや、年を歷ること少く、澤を民に施すこと未だ久しからず。舜・禹・益、相去ること久遠に、其の子の賢不肖なる、皆天なり。人の能く為す所に非ざるなり。之を為すこと莫くして為す者は、天なり。之を致すこと莫くして至す者は、命なり。匹夫にして天下を有つ者は、德必ず舜・禹の若くにして、又天子の之を薦むる者有り。故に仲尼は天下を有たず。世を繼ぎて以て天下を有つものにして、天の廢する所は、必ず桀・紂の若き者なり。故に益・伊尹・周公は天下を有たず。伊尹は湯に相として以て天下に王たらしむ。湯崩じ、太丁未だ立たず。外丙は二年、仲壬は四年。太甲は湯の典刑を顛覆す。伊尹、之を桐に放つこと三年なり。太甲過ちを悔い、自ら怨み自ら艾めて、桐に於いて仁に處り義に遷ること三年、以て伊尹の己に訓うるを聽くや、亳に復歸す。周公の天下を有たざるは、猶ほ益の夏に於ける、伊尹の殷に於けるがごときなり。孔子曰く、『唐虞禪り、夏后・殷・周は繼ぐ。其の義は一なり。』」

<語釈>
○「舜禹益相去久遠」、この句の意はよく分からない。中井履軒は、三人の宰相としての年数の差が大きいと言う意味に解釈しており、大体は之を採用しているが、納得しがたい。宰相としての年数は、舜が二十八年、禹が十七年、益が七年である。それぞれの差は約十年であるが、「久遠」という言葉で表すほどの差なのか疑問である。しかし他の解釈を思いつかないので中井説を採用しておく。○「太丁未立,外丙二年,仲壬四年。太甲」、趙注:太丁は湯の太子なり、未だ立たずして薨ず、外丙は立ちて二年、仲壬は立ちて四年、皆太丁の弟なり、太甲は太丁の子なり。○「典刑」、朱注:典刑は常法なり。○「桐」、朱注:桐は湯の墓の在る所なり。○「唐虞」、唐は堯、虞は舜。

<解説>
中井履軒は、前節とこの節とは内容からして一つの節であると主張している。それが正しいかどうかは別にして、関係が深いことは確かである。前節では、天意は民意に基づくものである、と説き、この節では天子になるのは天意と天への推薦という二条件を示している。これにより孔子のようにいかに高徳の人物でも、それだけでは天子になれないことを明確にしている。孟子の天命思想を知るうえで大切な節である。

酈生陸賈列伝

2018-09-20 10:08:55 | 四書解読
酈生陸賈列伝

酈生食其は、陳留の高陽の人なり。書を讀むを好む。家貧にして落魄し(集解:應劭曰く、落魄(ラク・ハク)は、志行衰惡の貌なり。困窮して志を得ない貌)、以て衣食の業を為す無く、里の監門(門番、士にとって、賤しい職)の吏と為る。然るに縣中の賢豪敢て役せず。縣中皆之を狂生と謂う。陳勝・項梁等起こるに及び、諸將地を徇え(正義:徇は、略なり。略奪の意)、高陽を過ぐる者數十人。酈生、其の將を聞く、皆握齱(アク・サク、集解:應劭曰く、握齱は、急促の貌。人をせかせることで、狭量の人を意味する)にして苛禮(索隠:賈逵云う、苛は、煩なり。煩瑣な禮)を好みて自ら用い、大度の言を聽くこと能わず。酈生乃ち深く自ら藏匿す。後、沛公、兵を將い地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士適々酈生の里中の子なり(集解:服虔曰く、食其の里中の子、適々沛公の騎士と作る)。沛公時時邑中の賢士豪俊を問う。騎士歸る。酈生見て之に謂いて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易り、大略多し、と。此れ真に吾が從游を願う所なれども、我が為に先くもの莫し(索隠:案ずるに、先は、先容(推挙)を謂う、人、我が為に紹介を作す無きなり。これにより「先」は“みちびく”と訓ず)。若沛公に見えて、謂いて曰え、『臣の里中に酈生というもの有り。年六十餘、長八尺、人皆之を狂生と謂う。生自ら我は狂生に非ずと謂う』。」
続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/

『孟子』巻第九萬章章句上 百二十七節

2018-09-15 10:14:27 | 四書解読
百二十七節

弟子の萬章が尋ねた。
「堯が天下を舜に与えたというのは、事実でございますか。」
孟子は答えた。
「いや、事実ではない。天子は天下を人に与えることはできない。」
「それならば、舜が天下を得たのは、誰が与えたのですか。」
「天が与えたのだ。」
「天が与えたと言うことは、天が事細かに舜に命じられたのですか。」
「いやそうではない。天は何も言われない。ただその行いとそれにより生ずる事柄とにより、天意をお示しになるだけだ。」
「その行いとそれにより生ずる事柄とにより、天意をお示しになるとは、どういうことでございますか。」
「天子は然るべき人物を天に推薦することはできるが、天をしてその人物に天下を与えさせるということはできない。諸侯は然るべき人物を天子に推薦することはできるが、天子をしてその人物を諸侯にさせることはできない。大夫は然るべき人物を諸侯に推薦することはできるが、諸侯をしてその人物を大夫にさせることはできない。昔、堯は舜を天に推薦して、天はそれを受けいれたので、更に舜を人民の前に押し出して事に当たらせたら、人民は喜んで受け入れた。だから言うのだ、天は何も言わない、と。その行いとそれにより生ずる事柄とにより、ただ天意をお示しになるだけだ。」
「あえてお尋ねしますが、天に推薦したら天は受け入れ、それを人民の前に押し出したら、人民も喜んで受け入れた、というのは、どういうことでございますか。」
「舜に天地の祭りを行わせたところ、神々はそれを受け入れ、天地の災いが起こらなかった。これが天が受け入れたと言うことなのだ。そして舜に政治を行わせたところ、よく治まり人民は安心して暮らせるようになった。これが人民が受け入れたと言うことなのだ。このように天下は天が与え人民が与えたものなのだ。だから、私は天子は天下を人に与えることはできない、と言ったのだ。舜が堯の摂政として政治を行ったのは二十八年にもなる。これはとうてい人の力だけで出来るものではない。天の意思があったからこそである。堯が崩御して、三年の喪が終わると、舜は堯の子供に遠慮して、南河の南の方へ隠れ住んだ。ところが天下の諸侯たちで天子に朝見する者は、皆堯の子の所へ行かずに、舜のもとへ参朝した。訴訟のある者も堯の子の所へ行かずに、舜の下へ出かけ訴えた。徳を称えて歌う者も、堯の子を称揚せず舜を称揚した。だから天の意思があったというのだ。こうなって初めて舜は都に出かけ、天子の位に附いたのだ。これが堯の宮殿に居座って、堯の子に位を譲るように迫って位に附いたとしたら、それは奪ったのであって、天が与えたものではない。『書経』の泰誓篇に、『天はわが民の目を通して見、わが民の耳を通して聽く。』とあるのは、この事を言ったものである。民意のあるところに天意があるのだ。」

萬章曰、堯以天下與舜、有諸。孟子曰、否。天子不能以天下與人。然則舜有天下也、孰與之。曰、天與之。天與之者、諄諄然命之乎。曰、否。天不言。以行與事示之而已矣。曰、以行與事示之者如之何。曰、天子能薦人於天、不能使天與之天下。諸侯能薦人於天子、不能使天子與之諸侯。大夫能薦人於諸侯、不能使諸侯與之大夫。昔者堯薦舜於天而天受之。暴之於民而民受之。故曰、天不言。以行與事示之而已矣。曰、敢問薦之於天而天受之、暴之於民而民受之、如何。曰、使之主祭而百神享之。是天受之。使之主事而事治、百姓安之。是民受之也。天與之、人與之。故曰、天子不能以天下與人。舜相堯二十有八載。之所能為也。天也。堯崩、三年之喪畢、舜避堯之子於南河之南。天下諸侯朝覲者、不之堯之子而之舜。訟獄者、不之堯之子而之舜。謳歌者、不謳歌堯之子而謳歌舜。故曰、天也。夫然後之中國、踐天子位焉。而居堯之宮、逼堯之子、是篡也。非天與也。泰誓曰、天視自我民視,天聽自我民聽。此之謂也。

萬章曰く、「堯は天下を以て舜に與う、と、諸れ有りや。」孟子曰く、「否。天子は天下を以て人に與うること能わず。」「然らば則ち舜の天下を有つや、孰か之を與えたる。」曰く、「天、之を與う。」「天の之を與うるは、諄(ジュン)諄然として之を命ずるか。」曰く、「否。天言わず。行いと事とを以て、之を示すのみ。」曰く、「行いと事とを以て、之を示すとは、之を如何。」曰く、「天子は能く人を天に薦むれども、天をして之に天下を與えしむること能わず。諸侯は能く人を天子薦むれども、天子をして之を諸侯を與えしむること能わず。大夫は能く人を諸侯に薦むれども、諸侯をして之に大夫を與えしむること能わず。昔者、堯、舜を天に薦めて、天、之を受く。之を民に暴わして、民之を受く。故に曰く、天、言わず、行いと事とを以て之を示すのみ、と。」曰く、「敢て問う、之を天に薦めて、天之を受け、之を民に暴わして、民之を受くとは、如何。」曰く、「之をして祭を主らしめて、百神之を享く。是れ天之を受くるなり。之をして事を主らしめて、事治まり、百姓之に安んず。是れ民之を受くるなり。天之を與え、人之を與う。故に曰く、天子は天下を以て人に與うること能わず、と。舜は堯に相たること二十有八載。人の能く為す所に非ざるなり。天なり。堯崩じ、三年の喪畢りて、舜、堯の子を南河の南に避く。天下の諸侯の朝覲する者、堯の子に之かずして、舜に之く。訟獄する者、堯の子に之かずして、舜に之く。謳歌する者、堯の子を謳歌せずして、舜を謳歌す。故に曰く、天なり、と。夫れ然る後、中國に之き、天子の位を踐めり。而し堯の宮に居り、堯の子に逼らば、是れ篡うなり。天の與うるに非ざるなり。泰誓に曰く、『天の視るは我が民に自りて視、天の聽くは我が民に自りての聽く。』此を之れ謂うなり。」

<語釈>
○「諄諄然」、よくわかるように教える貌。○「中國」、周の時代になれば、中原を指す言葉になるが、この時代は言葉通り国の中心ということで、都の意。

<解説>
民意のあるところに天意がある。これがこの節の趣旨である。趙岐の章指に云う、「徳、天に合すれば、則ち天爵之に歸し、行い仁に歸せば、則ち天下之を與う。天命常ならず。此を之れ謂うなり。」ここで大事な事は、天命常ならずという言葉である。天命というのは常に変化するもので、それは民意によるのである。故に何事においても天命だから仕方がないとあきらめてはいけない。努力が肝心である。

『孫子』巻第二作戦篇

2018-09-08 10:30:50 | 四書解読
巻二 作戰篇

孫子は言った、およそ戦争を行うということは、戦車千台、輜重車千台、それに武装した兵士十万人を附き従わせ、千里の遠きに食糧を輸送する費用、国内、国外の費用、諸侯の使者を接待するなどの外交上の費用、武器の修理や製造にかかる費用、車の保守点検に要する費用など、一日に千金を費やすもので、こうして初めて十万の大軍を整え動かすことが出来るのだ。その十万の大軍を動かして、久しきにわたって勝ったとしても、鎧や武器を損耗させ、軍隊の士気を鈍らせる。そうなって敵の城を攻めても、戦闘力は尽きてしまう。こうして大軍を久しく戦場にさらせば、国家の費用は足らなくなる。更に武器を損耗させ、士気が鈍れば、諸侯はわが国の疲弊につけこんで兵を興して攻めてくる。そうなればたとえ智者がいたとしても、うまく後始末をつけることはできない。だから戦争は、たとえ作戦に多少問題があっても短期決戦に持ち込んで勝利を得る者だと聞いてはいるが、戦術を巧みにして持久戦に持ち込んで成功した例は見たことがない。持久戦が国に利益をもたらしたという例は今までになかったことである。それゆえ、戦争による害を悉く知らない者は、戦争によって得る利益を悉く知ることはできない。戦争に巧みな者は、二度も民に兵役を課すようなことはしないし、食糧を二度、三度と輸送することはしない。武器や甲を初めとして戦争に必要な機材は国内で調達し、食糧は敵から奪い取る。だから軍の食糧は十分に足りるのだ。国が軍を維持することにより貧しくなるのは、遠くまで食糧を輸送するからである。遠方に食糧などを輸送すれば、人民は負担が増え困窮する。軍が駐屯している近くでは、物価が高騰する。物価が高騰すれば、人民の財力は尽きてしまう。財力が尽きれば、国は増税し民はその負担に迫られる。こうして輸送に疲れ果て、財貨も使い果たし、国内の人民の家には何もないという状況に置かれ、更に収入の十分の七を税金に持っていかれる。国家においても、破損した車、馬の損失、かぶと・よろい・矢・石弓・ほこ・たて・大楯などの武具の調達、牛や輜重車の消耗などによって、国家財政の十分の六を消費してしまう。だから智謀に優れた将軍は食糧を敵地で調達するように努力する。敵地で得た一鍾の食糧は、自国より送られてくる二十鍾の食糧に相当する。敵地で調達した飼料一石は、自国より送られて来る飼料の二十石に相当する。だから進んで敵を殺そうとさせるものは、奮起の心であり、それを引き出すものは、敵から奪い取った財貨である。それ故に、戦車戰で、敵の戦車十台以上捕獲した場合、最初に戦車を捕獲した者を表彰して、その車の旗を自軍の旗に代えて、兵を載せて我が軍に雑ぜ、捕虜にした敵兵は手厚くもてなして、自軍の用に役立たせる。これが勝って益々強くなるということである。それゆえ、戦争は勝つことを貴ぶのであって、持久戦になることを卑しむのである。これらのことから、戦争は速やかに勝つという道理をわきまえた将軍は、民の生命や運命を司る者で、国家を安泰にする者である。

孫子曰、凡用兵之法、馳車千駟、革車千乘、帶甲十萬、千里饋糧、則內外之費、賓客之用、膠漆之材、車甲之奉、日費千金。然後十萬之師舉矣。其用戰也、勝久、則鈍兵挫銳。攻城、則力屈。久暴師、則國用不足。夫鈍兵挫銳、屈力殫貨、則諸侯乘其弊而起。雖有智者、不能善其後矣。故兵聞拙速。未睹巧之久也。夫兵久而國利者、未之有也。故不盡知用兵之害者、則不能盡知用兵之利也。善用兵者、役不再籍、糧不三載、取用于國、因糧于敵。故軍食可足也。國之貧于師者遠輸。遠輸則百姓貧。近于師者貴賣。貴賣則百姓財竭。財竭則急于丘役。力屈財殫,中原內虚于家、百姓之費、十去其七。公家之費、破車罷馬、甲冑矢弩、戟楯蔽櫓、丘牛大車、十去其六。故智將務食於敵。食敵一鍾、當吾二十鍾。キ秆一石、當我二十石。故殺敵者怒也。取敵之利者貨也。故車戰得車十乘以上、賞其先得者、而更其旌旗、車雜而乘之、卒善而養之。是謂勝敵而益強。故兵貴勝、不貴久。故知兵之將、民之司命、國家安危之主也。

孫子曰く、凡そ兵を用うるの法、馳車千駟、革車千乘、帶甲十萬(注1)、千里に糧を饋れば、則ち內外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉(注2)、日に千金を費やす。然る後に十萬の師舉る。其の戰を用うるや、勝つに久しければ、則ち兵を鈍らし銳を挫く(注3)。城を攻むれば、則ち力屈す。久しく師を暴せば、則ち國用足らず。夫れ兵を鈍らし銳を挫き、力を屈し貨を殫くさば、則ち諸侯、其の弊に乘じて起らん。智者有りと雖も、其の後を善くする能わず(注4)。故に兵は拙速を聞く。未だ巧の久しきを睹ざるなり。夫れ兵久しくして國に利ある者、未だ之れ有らざるなり。故に盡く兵を用うるの害を知らざる者は、則ち盡く兵を用うるの利を知る能わざるなり。善く兵を用うる者は、役、再籍せず(注5)、糧、三載せず、用を國に取り、糧を敵に因る(注6)。故に軍食足る可きなり。國の師に貧しきは、遠く輸ればなり。遠く輸れば、則ち百姓貧し。師に近き者は貴賣す(注7)。貴賣すれば、則ち百姓の財竭く。財竭くれば、則ち丘役に急なり(注8)。力屈し財殫き、中原の內、家に虚しく(注9)、百姓の費、十に其の七を去る。公家の費、破車罷馬、甲冑矢弩、戟楯蔽櫓、丘牛大車(注10)、十に其の六を去る。故に智將は務めて敵に食む。敵の一鍾を食むは(注11)、吾が二十鍾に當る。キ(“くさかんむり”に“忌”の字、義は「箕」と同じ)秆一石は、我が二十石に當る(注12)。故に敵を殺すは怒なり。敵に取るの利は貨なり(注13)。故に車戰に車十乘以上を得れば、其の先に得たる者を賞して、其の旌旗を更え、車は雜えて之に乘り(注14)、卒は善くして之を養う。是を敵に勝ちて強を益すと謂う。故に兵は勝ちを貴びて、久しきを貴ばず。故に兵を知るの將は、民の司命、國家安危の主なり(注15)。

<注釈>
○注1、十注:曹公曰く、馳車は輕車なり。杜牧曰く、輕車は乃ち戰車なり、古は車戰なり、革車は輜車重車なり、機械・財貨・衣装を載するなり。輕車七十五人、重車二十五人、故に二乘一百人を兼ねて一隊と為し、十万の衆を舉ぐ。○注2、十注:王晳曰く、内は、國中を謂う、外は、軍所を謂う、賓客は、諸侯の使い、及び軍中に吏士を宴饗するが若し、張預曰く、膠漆は、器械を修飾するの物なり(膠はにかわ、漆はうるし、接着剤と塗料で兵器の修理、製造に必要な物、「奉」はまかなうの意)、車甲は、膏・轄・金・革の類なり(車に必要なあぶら・くさび・金属・革の類を謂う)。○注3、十注:杜牧曰く、「勝久」とは、淹久(久しきにわたる)にして而る後に能く勝つなり、敵と相持し、久しくして而る後に勝たば、則ち甲兵鈍弊し、鋭気挫衄(ザ・ジク、くじける)するなり。○注4、十注:杜牧曰く、蓋し師久しく勝たず、財力俱に困するを以て、諸侯之に乘じて起これば、智能の士有りと雖も、亦た此の後に於いて、善く謀畫を為すこと能わざるなり。○注5、十注:曹公曰く、「籍」は猶ほ「賦」のごときなり、初め民を賦し、便にして勝ちを取り、復た國に歸り兵を發せず。○注6、曹公曰く、兵甲戰具、用を國中に取り、糧食は敵に因るなり。○注7、十注:賈林曰く、師徒の聚まる所、物皆暴貴し、人、非常の利を貪り、財物を竭くし、以て之を賣る、初め利を獲ること殊に多しと雖も、終に當に力疲れ貨竭くべし。○注8、『春秋左氏伝』成公元年の条に、齊の難の為の故に、丘甲を作るとあり、服虔の注に、九夫を井と為し、四井を邑と為し、四邑を丘と為し、四丘を甸と為す、とあり、乃ち「丘」は地方組織の名。更に杜注に云う、丘、十六井毎に戎馬一匹、牛三頭、甸、六十四井毎に戦車一輌、戎馬四匹、牛十二頭、甲士三人、歩卒七十二人を出だす。○注9、「中原內虚于家」この句の読みは、“中原の內、家に虚しく”と読む説と、“中原の內虚し、家に于ては”と読む説とがある。更に「中原」の解釈にも諸説がある。一応前者の読みを採用し、「中原」は国内の意に解しておく。○注10、蔽櫓は車の上に立てる大きな楯、十注:張預曰く、丘牛は大牛なり、大車は必ず革車ならん、始め車を破り馬を疲らすと言うは、攻戰の馳車を謂うなり、次に丘牛大車と言うは、即ち輜重の革車なり。○注11、十注:杜牧曰く、六石四斗を一鍾と為す、一石は百二十斤なり。凡そ十釜分に相当する量。○注12、十注:曹公曰く、キは、豆稭なり、秆は、禾藁なり。豆の身を取り去った茎と稲の稾、共に牛馬の飼料。○注13、十注:張預曰く、吾が士卒を激し、上下をして怒りを同じうせしむれば、則ち敵は殺す可し。通常はこの義に解釈することが多いが、怒りを慎むべきであると解釈する説もある。今は通常の解釈に従っておく。猶ほ「怒」は奮起の意である。○注14、「乘之」は、“之に乘る”と読む説と、“之に乘らしむ”と読む説がある、前者は、自軍の兵士を載せることで、後者は降卒を載せる意である。前者を採用する。○注15、「民之司命」は、原本は「生民之司命」に作るが、『潛夫論』・『通典』・『御覧』は皆「生」の字無し。因りて「生」の字を削る。「司命」は寿命、運命を司るもの。

<解説>
この篇について、十注に張預曰く、計算已に定まり、然る後車馬を完くし、器械を利し、糧草を運び、費用を約し、以て戦備を作す、故に計に次す、とある。
戦争というものが、いかに国家の財政を圧迫し、国民の生活を困窮させるかということであり、戦費を考えずに戦争はできない。それ故にこの問題を第二篇にもってきているのであり、戦争は戦費を考えて、速やかに勝つことに務め、持久戦は極力避けなけるべきであると説いている。