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『呉子』圖國第一 第六章

2020-07-26 10:53:45 | 漢文
第六章

魏の武侯は尋ねた、「陣営を構えれば必ず安定し、守れば必ず固く、戦えば必ず勝つ方法を聞かせてもらいたい。」呉子は答えた、「ただお聞かせするだけではありません、それは今すぐにでもお見せすることができます。主君が賢者を高い地位につけ、愚かな者を低い地位につけるようにすれば、戦場においても上下が乱れず陣営は安定します。民の生業と生活が安定しており、人民が役人に親しんでいれば、国内は乱れず守りは堅くなります。人民が主君の政治を正しいと信じ、隣国の政治が正しくないと考えるなら、戦いになってもそれは正義の戦いであるので、既に勝ったも同然であります。」武侯が国の大事について臣下と相談したことがある。群臣の誰もが武侯より優れた意見を述べられなかった。朝議が終わって武侯は喜び満足の様子であった。呉子は進み出て言った、「昔楚の荘王が国の大事について臣下と相談したことがあります。群臣の誰もが荘王より優れた意見を述べませんでした。退朝してきたとき荘王は心配そうな顔色をしていました。それを見て申公が尋ねました、『主君は心配そうな顔色をしておられますが、どうしてでございますか。』荘王は答えました、『私はこのような事を聞いている。いつの世にも聖人はおり、どこの国にも賢者は乏しくない。聖人を見出して師とすることができる者は王者となることができ、賢者を見出して友とすることができる者は覇者となることができる、と。しかるに今私が至らないばかりに、群臣たちの中で私に及ぶ者がいない。これでは楚国も危ういことであろう。』これが荘王の心配事なのです。それなのに主君はこれを喜んでおられます。私は魏の将来について竊かに恐れております。」これを聞いて武侯の顔に慙愧の色がうかんだ。

武侯問曰、願聞陳必定、守必固、戰必勝之道。起對曰、立見且可。豈直聞乎。君能使賢者居上、不肖者處下、則陳已定矣。民安其田宅、親其有司、則守已固矣。百姓皆是吾君而非鄰國、則戰已勝矣。武侯嘗謀事、群臣莫能及。罷朝而有喜色。起進曰、昔楚莊王嘗謀事、群臣莫能及。退朝而有憂色。申公問曰、君有憂色、何也。曰、寡人聞之、世不絕聖、國不乏賢、能得其師者王、得其友者霸。今寡人不才、而群臣莫及者。楚國其殆矣。此楚莊王之所憂。而君說之。臣竊懼矣。於是武侯有慚色。

武侯問いて曰く、「願わくは陳すれば必ず定まり、守れば必ず固く、戰えば必ず勝つの道を聞かん。」起對えて曰く、「立ちどころに見ること且つ可なり。豈に直に聞くのみならんや。君能く賢者をして上に居り、不肖者をして下に處らしむれば、則ち陳已に定まる。民、其の田宅に安んじ、其の有司に親しめば、則ち守り已に固し。百姓皆吾が君を是として鄰國を非とすれば、則ち戰い已に勝つ。」武侯嘗て事を謀る。群臣能く及ぶ莫し。朝を罷めて喜べる色有り。起進みて曰く、「昔楚の莊王嘗て事を謀る。群臣能く及ぶ莫し。朝を退きて憂うる色有り。申公問いて曰く、『君憂うる色有るは、何ぞや。』曰く、『寡人之を聞けり、世、聖を絶たず、國、賢に乏しからず、能く其の師を得る者は王たり、其の友を得る者は霸たり、と。今寡人不才にして、群臣及ぶ者莫し。楚國は其れ殆うからん。』此れ楚の莊王の憂うる所なり。而るに君は之を說ぶ。臣竊かに懼る。」是に於て武侯、慚づる色有り。

<解説>
武侯は軍の戦い方について呉起に尋ねたが、それに対して呉起は政治の在り方をもって答えている。この考え方は『呉子』の根幹をなすものである。

口語訳『荀子』修身篇第二

2020-07-17 10:20:09 | 漢文
修身篇第二

善を見れば、修然(楊注:「修然」は、整飭の貌。身をととのえること)として必ず以て自ら存(かえりみる、王念孫は「存」を「省」、「察」の意に解す)み、不善を見れば、愀然(シュウ・ゼン、楊注:「愀然」は憂懼の貌。うれえつつしむこと)として必ず以て自ら省みるなり。善身に在れば、介然(楊注:「介然」は、堅固の貌。固く守って変わらない事)として必ず以て自ら好み、不善身に在れば、菑然(シ・ゼン、「菑」は「淄」に通じ、泥で汚れ黒ずむこと)として必ず以て自ら惡むなり。故に我を非として當る者は、吾が師なり。我を是として當る者は、吾が友なり。我に諂諛する者は、吾が賊なり。故に君子は師に降りて友に親しみ、以て致(楊注:「致」は、猶ほ「極」のごときなり。きわめてと訓ず)めて其の賊を惡む。善を好みて厭くこと無く、諫を受けて能く誡むれば、進むこと無からんと欲すと雖も得んや。小人は是に反す。亂を致めて而も人の己を非とするを惡み、不肖を致めて而も人の己を賢とせんことを欲し、心虎狼の如く、行い禽獸の如くして、而も又人の己を賊とすることを惡み、諂諛する者は親しみ、諫爭する者は疏んじ、修正(身を修めた人)を笑いと為し、至忠を賊と為す。滅亡すること無からんと欲すと雖も得んや。詩(小雅の小旻篇)に曰く、「滃滃(キュウ・キュウ、軽々しく人と和すること)訿訿(シ・シ、軽々しく人を誹ること)として、亦た孔(「甚」に同じ。はなはだ)だ之れ哀し。謀の其れ臧(「善」に同じ、よし)きには、則ち具に是れ違い、謀の臧からざるには、則ち具に是れ依る。」此を之れ謂うなり。
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『論語』為政第二 23,24,25章

2020-07-05 11:14:36 | 漢文
23
弟子の子游が孝について尋ねた。孔子は答えた、「このごろの孝はよく両親を養うことだと思われているようだ。それでは犬や馬でもよく養っているのだから、敬う心を以て親を養わなければ、どのようにして犬や馬と区別することができようか。孝を行うには敬を忘れてはいけない。」

子游問孝。子曰、今之孝者、是謂能養。至於犬馬、皆能有養。不敬、何以別乎。

子游、孝を問う。子曰く、「今の孝は、是れ能く養うことを謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。」

<解説>
親の面倒を見ていても心が伴わなければ、それは本当の孝行とは言えない。『孟子』盡心上の二百十三節にも、「食いて愛せざるは、之を豕交するなり。愛して敬せざるは、之を獸畜するなり。」とある。

24
弟子の子夏が孝について尋ねた。孔子は答えた、「父母に仕える事に、喜びを感じ自然と顔色に表れることが難しい。父兄に何か仕事があるとき、子弟が代わってその仕事をしたり、ご馳走があれば父兄に勧めるたりすることを世間では孝だと思われているが、果たしてそんなものが孝だと言えるだろうか。」

子夏問孝。子曰、色難。有事、弟子服其勞、有酒食、先生饌。曾是以為孝乎。

子夏、孝を問う。子曰く、「色難し。事有れば、弟子其の勞に服し、酒食有れば、先生に饌す。曾ち是を以て孝と為すか。」

<語釈>
○「色難」、集解:包咸曰く、色難は、父母の顔色に承順するを、難しと為すを謂う。朱注:色難は、親に事うるの際、惟だ色を難しと為す。この二説のように「色」を父母の顔色に解する説と、子の顔色に解する説とがある。どちらも通ずるが、解説に述べた程子の子夏について述べた言葉から、後者を採用しておく。○「先生饌」、集解:馬融曰く、先生は、父兄を謂う。「饌」(セン)は、食を進める事。

<解説>
21から24までの4節はみな孝について述べられているが、その内容はみな異なっている。これについて朱注に程子曰く、「懿子に告ぐるは、衆人に告ぐるなり、武伯に告ぐるは、其の人憂う可きの事多きを以てなり、子游は、能く養いて或いは敬を失うなり、子夏は、能く義に直くして或いは温潤の色少なし、各々其の材の高下、其の失う所を與うるに因りて之に告ぐ、故に同じからず。」とある。教条的に物事を考えず、事に応じて述べていながら、それでいて真理をついている。これが孔子の優れた所である

25
孔子言う、顔回と一日中話していても、質問もしなければ意見も言わない。まるで愚か者のようである。しかし私の前から退いた日常の顔回を見ていると、その行いは私の言ったことを更に発展させており、私の言葉を十分に理解している。顔回は決して愚か者などではない。

子曰:、吾與回言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發。回也不愚。

子曰く、「吾回と言うこと終日、違わざること愚なるが如し。退きて其の私を省すれば、亦た以て發するに足る。回や愚ならず。」

<語釈>
○「回」、孔安國曰く、回は、弟子なり、姓は顔、名は回、字は子淵。○「不違如愚」、集解:孔安國曰く、違わざるとは、孔子の言に怪問する所無く、黙して之を識ること愚者の如きなり。○「足以發」、朱注:發は、言う所の理を發明するを謂う。

<解説>
この節は孔子が顔回を誉めたものである。顔回は弟子の中で孔子が最も愛した弟子であり、その資質を高く評価していた。しかし三十二歳の若さで孔子より先に亡くなり、孔子の落胆は大きかったようである。