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『中庸』第二十五節

2015-03-26 10:44:40 | 漢文
                    第二十五節
前節までに述べられているように、至誠なる者は天より与えられた性であり、人間本来の働きである。それ故に誠は外部からの力によって具現するもので無く、自らその力を発揮するものであり、その至誠に進むべき道を人は誰しも進むべき道だとするのである。このような至誠は万物を形成する絶対的なものであり、誠を内に含まないものは存在しない。それだから君子は至誠への道を進み、それを実践することを貴ぶのである。このように天下の万事万物は誠が無ければ何事も成立しない、それ故に誠は自ら成すだけでなく、天下の万事万物をも成長させて行く手段である。自己を成長させ完成させるのは、仁愛であり、万事万物を成立させるのは、知の働きである。それら仁・知の働きは天性としての至誠に因って、徳として人や万物に影響を与えるものとなり、又誠は外なる知と内なる仁とを和合させるものである。それ故に自己を成し、万物を形成するに於いて、至誠は常に適切であり理に適っているものである。それだから、至誠の自己を形成し、事の理を極める真実の働きは、常に止む事無く活動し続けるのであり、活動し続ける限りその働きは長久であり、長久であれば人間本来の働きである至誠により、徳は次第に顕著となり四方に表れる。そうなると益々永続的に広範囲に至誠の徳は現れるようになり、いよいよ博く上下に厚く万民にその影響を及ぼし、遂に高大光明を極めて、万民から仰がれるようになる。此くも広博に上下に厚く影響を及ぼす誠は、あたかも大地が万物を育んでいるようであり、高大光明を極めて万民から仰がれるのは、あたかも万物を包み込んでいる天のようであり、その働きが悠久に限り、万事を形成することが出来るし、全てに達することが出来るであろう。このように至誠がもたらす、博厚は大地の如く、高明は天の如く、悠久は無限の宇宙の如くで、万民が自然と畏怖敬愛するものである。故にことさらに其れを外に示そうとしなくても自然と現れれて明らかになるし、ことさらに事に応じて変化しなくても、適切に対応することが出来るので、意図的に事を為さなくても自然と物事は治まって行くのである。

誠者自成也。而道自道也。誠者物之終始。不誠無物。是故君子誠之為貴。誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也、成物知也。性之也。合外內之道也。故時措之宜也。故至誠無息。不息則久、久則徵。徵則悠遠、悠遠則博厚。博厚則高明。博厚所以載物也。高明所以覆物也。悠久所以成物也。博厚配地、高明配天、悠久無疆。如此者、不見而章、不動而變、無為而成。

誠は自ら成すなり。而して道は自ら道とするなり。誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す。誠は自ら己を成すのみに非ざるなり。物を成す所以なり。己を成すは仁なり、物を成すは知なり。性のなり。外內を合するの道なり。故に時に之を措きて宜しきなり。故に至誠は息むこと無し。息まざれば則ち久し、久しければ則ち徴あり。徴あれば則ち悠遠なり。悠遠なれば則ち博厚なり。博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載する所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆無し。此の如き者は、見わさずして章らかに、動かずして變じ、為す無くして成る。

<解説>
この節は、仰ぐこと天の如く、伏すこと地の如く、限りなきこと宇宙の如し
と、至誠が如何に偉大であるかを述べている。更にそれは偉大であるだけでなく、誠ならざれば物無しと述べられているように、万事万物を成り立たせる根本的なものであり、その働きは外部からの力によらず内に秘められたもので自ら成長していく。だから至誠を身に備えている者は、ことさらに事を為そうと右往左往しなくても、自然と世の中を治める事が出来るのである。それ故に至誠を身に備えている聖人君子は人々から尊び敬われるのである。果たして現実は如何なものであろうか。

『中庸』第二十一節~二十四節

2015-03-07 10:15:49 | 漢文
                 第二十一節
身に至誠を備えることによって、徳を明らかにすることが出来るもの、それが天より与えられた性と言うものであり、逆に徳を明らかにすることに由り、身に誠を備えることが出来るもの、それが教えと言うものである。それだから誠を身に備えていれば、明徳の道理を明らかにすることが出来るし、それを明らかにすることが出来ると言うことは、至誠を身に備えていると言うことが出来る。

自誠明、謂之性、自明誠、謂之教。誠則明矣、明則誠矣。

誠なるに自りて明らかなる、之を性と謂い、明らかなるに自りて誠なる、之を教と謂う。誠なれば則ち明らかに、明らかなれば則ち誠なり。

<語釈>
○この節の鄭注を読めば、大体この節の趣旨は理解できるので、全文を紹介しておく。鄭注:「自」は「由」なり。至誠に由りて明徳有るは、是れ聖人の性なる者なり、明徳に由りて至誠有るは、是れ聖人の学びて以て之を成す者なり。至誠有れば則ち必ず明徳有り、明徳有れば則ち必ず至誠有り。

                  第二十二節
生まれながらにして身に至誠を備えている人、世に聖人と言われている人だけが、天より与えられた己の性を遺憾なく発揮することが出来、己の性を盡くせば、人にも遺憾なく其の性を盡くさせることができる。そうして人々が性を発揮することが出来れば、それに因って万物もそれぞれが持っている特性を正しく発揮することが出来、適正な発展を遂げるのである。そうなれば万物自身の働きは、天地が自然を育み進化させて行こうとしている働きを助けている事になり、聖人の至誠による徳化が万物をして天地を助けさせているのであれば、聖人の至誠による働きは、天地が自然を化育する働きに並んでいると称することができるのである。

唯天下至誠、為能盡其性。能盡其性、則能盡人之性。能盡人之性、則能盡物之性。能盡物之性、則可以贊天地之化育。可以贊天地之化育、則可以與天地參矣。

唯天下の至誠のみは、能く其の性を盡くす。能く其の性を盡くせば、則ち能く人の性を盡くす。能く人の性を盡くせば、則ち能く物の性を盡くす。能く物の性を盡くせば、則ち以て天地の化育を贊(たすける)く可し。以て天地の化育を贊く可ければ、則ち以て天地と參たる可し。

<語釈」
○「盡其性」、そのものが持っている性質を何者にも妨げられずに発揮すること。○「贊」、鄭注:「贊」は「助」なり。○「參」、三の義に解し、天・地・聖人の三者で、天地に並ぶ意。

                  第二十三節
天下の至誠の次は、たとえ聖人のように生まれながらに至誠を身に備えていなくても、物事を学び些細なことまで智を極めることである。そうすることによって、些細なことの善惡を明らかにして実践していけば、至誠への道が開けて行く。至誠への道が開けていけば、内なる誠は容貌や言動という外なるものへ表れ、それは次第に顕著となり明らかとなる。容貌や言動に誠が備わっていれば、人の心を動かすことが出来るし、心が感動で動けば、その人も變化を遂げて悪を憎み善を為すようになる。このようにたとえ聖人でなくても学ぶことに因って至誠に近づき聖人に近づくことができるのであって、このような天下の至誠のみが万民を教化し、善の道へ進ませることが出来るのである。

其次致曲。曲能有誠。誠則形。形則著。著則明。明則動。動則變。變則化。唯天下至誠為能化。

其の次は曲を致(きわめる)む。曲なるも能く誠有り。誠あれば則ち形る。形れば則ち著し。著しければ則ち明らかなり。明らかなれば則ち動かす。動かせば則ち變ず。變ずれば則ち化す。唯天下の至誠のみ能く化するを為す。

<語釈>
○「其次」、鄭注:明らかなるに自りて誠なる者を謂う。至誠の次の段階、乃ち二十一節で謂う「教」のこと。○「曲」、鄭注:猶ほ小小の事なり。○「動」、鄭注:「動」は人の心を動かすことなり。

                   第二十四節
至誠の道を極めた有徳の人は、何事も事前に察知することが出来る。何となれば、禍福吉凶は天が明らかに之を知り、その兆を人々に報せようとしているからである。たとえば国家が隆盛に向かおうとするときは、必ずその瑞祥が現れるし、亡びに向かうときは、必ず禍の兆が現れる。それは筮竹や龜甲の占いにも表れるし、人の動作や威儀にも現れる。だから天から授けられた性を明らかにして至誠を身に備えている人は、禍福が至らんとすれば、天が示す兆を能く理解して、善事も不善の事も、事前に察知することが出来る。それだから至誠はあたかも神のようであると言えるのである。

至誠之道、可以前知。國家將興、必有禎祥。國家將亡、必有妖孽。見乎蓍龜、動乎四體。禍福將至、善必先知之、不善必先知之。故至誠如神。

至誠の道は以て前知す可し。國家將に興らんとすれば、必ず禎祥有り。國家將に亡びんとすれば、必ず妖孽(ヨウ・ゲツ)有り。蓍龜(シ・キ)に見われ、四體に動く。禍福將に至らんとすれば、善も必ず先に之を知り、不善も必ず先に之を知る。故に至誠は神の如し。

<語釈>
○「禎祥」、瑞祥。○「妖孽」、「孽」は禍、禍の兆。○「蓍龜」、「蓍」(めどぎ)は筮竹のこと、本来はめどはぎの茎を使っていたが、後に竹を使うようになったので、筮竹と呼ばれるようになった。「龜」は龜甲の卜。○「四體」、鄭注は、龜の四足であるとし、朱子は動作威儀の意に解す。朱子説のほうが妥当であると思うので、私は朱子説を採用した。

<解説>
第二十節までは、誠の働きについて、実際の効用について述べられていたが、二十一節からは、誠の本質と、それを生まれながらに具現する人と、学んで具現する人について述べている。乃ち誠は天より与えられた性であり、聖人はそれに基づいて常に徳を明らかにする。君子賢人は学んで徳を明らかにするように務めることによって、誠を身に備えた有徳者になることができる。そのような身に備えた誠こそが万物や人々を化育し、善に導いていくことが出来るのである。又此の世に起こる禍福吉凶は必ず天が其の兆を示しているので、天から与えられた至誠を身に備えていれば、その兆を事前に察知することが出来、物事の善事も不善の事も事前に察知することが出来、道に迷うことも無い。このように誠の本質は神と並び称せられるほどのものである。それが故に至誠を身に備えた聖人や君子は、人々から尊ばれ畏敬の念を寄せられるのである。