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『孟子』巻第十四盡心章句下 二百二十九節、二百三十節、二百三十一節、二百三十二節

2019-08-29 10:29:26 | 四書解読
二百二十九節
孟子は言った。
「私は今になってはじめて、人の身内を殺すことが、どんなに重大なことか分かった。もし人の父を殺したとしたら、人も亦た私の父を殺すだろうし、人の兄を殺したとしたら、人も亦た私の兄を殺すだろう。そうなれば、自分が身内を直接殺したのではなくても、自分が殺したのと大した変わりはない。」

孟子曰、吾今而後、知殺人親之重也。殺人之父、人亦殺其父、殺人之兄、人亦殺其兄。然、則非自殺之也、一閒耳。

孟子曰く、「吾今にして而る後、人の親を殺すの重きを知るなり。人の父を殺せば、人も亦た其の父を殺し、人の兄を殺せば、人も亦た其の兄を殺す。然らば、則ち自ら之を殺すに非ざるも、一閒のみ。」

<語釈>
○「一閒」、自分と他人との間に、一人を隔てるだけ、ということから、両者を比べて大差のないことを言う。

<解説>
この節の内容は儒教の最も特徴的なものである。同じ人殺しでも自分の親を殺すのは最も罪が重いとされている。この考えは二千年以上の長きにわたって、わが国でも保たれてきた。最近まで、我が国の刑法でも、親殺しは他人を殺すより罪が重かった。今は憲法による人は全て平等であるという考えから、刑法も改善され同じ扱いになっている。人の親を殺せば、人も自分の親を殺すことになり、これは自分が殺したのと同じく罪が重いことを述べ、戒めているのである。それは又逆に范祖禹が、「此を知れば、則ち人の親を敬愛し、人も亦た其の親を敬愛す。」と述べているように、人を敬愛する心の大切さを説いているのである。

二百三十節

孟子は言った。
「昔、国境に関所を設けたのは、暴乱を防ぐためであったが、今の関所は出入りの人や物に税金をかけて民に暴虐を行う為のものである。」

孟子曰、古之為關也、將以禦暴。今之為關也、將以為暴。

孟子曰く、「古の關を為るや、將に以て暴を禦がんとす。今の關を為るや、將に以て暴を為さんとす。」

<語釈>
○「古之為關也~」、趙注:古の關を為るは、将に以て暴亂を禦ぎ、非常を譏閉せんとす、今の關を為るは、反って出入の人に征税し、将に以て暴虐の道を為さんとす。

<解説>
君主の善政の一つとして取り上げられるのが、「關市は譏して征せず」である。すなわち、人や物の出入は調べはするが税金はかけないということであって、当時これは非常に大きな問題であったようだ。

二百三十一節
孟子は言った。
「自分自身が道を行わなければ、身近な妻子さえ道を行わさせることはできない。正しい道でもって人を使わなければ、妻子さえ言いつけ通りにさせることはできない。」

孟子曰、身不行道、不行於妻子。使人不以道、不能行於妻子。

孟子曰く、「身、道を行わざれば、妻子にも行われず。人を使うに道を以
てせざれば、妻子にも行わるること能わず。」

<解説>
先ずは己が道を行う、そうして初めて人を教え導くことが出来るということだ。趙岐の章指に云う、「人を率いるの道は、躬ら行い首と為る、故に論語に曰く、其の身正しからざれば、令すと雖も従わず、と。

二百三十二節
孟子は言った。
「営利に用意周到な者は、それなりに蓄えているので、凶年になっても命を失うことはない。人間の本性である徳を養うことに、周到にして自ら努めようとする者は、どんな邪な世に遭遇しても、その志を乱されることはない。」

孟子曰、周于利者、凶年不能殺。周于德者、邪世不能亂。

孟子曰く、「利に周き者は、凶年も殺すこと能わず。徳に周き者は、邪世も亂すこと能わず。」

<語釈>
○「周于利者~」、趙注:利に周達して、苟も得るの利を營めば、凶年と雖も之を殺すこと能わず、徳に達して、身ら之を行わんと欲すれば、邪世に遭うと雖も、其の志を亂すこと能わず。

<解説>
何事も用意周到にすることが大切であり、それは物事だけでなく、心の修養に於いても同じであり。それがきちんと出来るということは、志が堅いということで、色々な誘惑にも乱されることはないということである。

『孫子』巻第十地形篇

2019-08-24 10:22:09 | 四書解読
孫子言う。戦場における地形には、道が四方に通じていて、敵も味方も共に往来することができる通形、草や木の遮蔽物が多く、行けばそれに捉われて戻れない挂形、容易に進むことができず、両軍相対峙するような支形、山に挟まれた細い道が一本あるだけの隘形、山や川などの険しい所の険形、遠くまで見渡せる平たい地の遠形の六種類がある。我が軍がどこを通っても敵を撃つことができ、敵軍もどこを通っても我を撃つことができる開けた地形を通形と言う。通形では、敵より先に南に向いた高所を占め、糧道を確保して戦えば、有利に戦いを進めることができる。木や草などに阻まれて何とか進むことは出来ても、退くには困難が多い地形を挂形と言う。挂形では、敵が油断して備えがなければ、攻めて勝つことができるが、備えがあれば攻めても勝つことができず、退くにも困難な地形なので窮地に陥る。我が軍も敵軍も共に出撃しても利にならないような地形を支形と言う。支形では、敵が我が軍の方が有利であるように見せかけても出て攻めてはいけない。軍を引いて去る方がよい。そうして敵が追いかけて来たら、半分出撃してきたところを撃てば我が軍は有利である。山に挟まれた細い道が一本だけあるような隘形では、先に到着すれば其の口を塞いで敵を迎え撃ち、敵が先に到着して其の口を塞いでいれば、敵の行動に合わせて攻撃してはいけない。険しい山などが存在する険形では、南に向いた高所に居り、そこで敵を迎え撃つ。もし敵が先にこの地に居れば、兵を引いて立ち去れ。敵の動きに合わせて行動するな。遠くまで見渡せる平地の遠形では、勢力が等しければ戦いを挑むのは困難である。戦っても不利になる。およそ以上六つの地形は地の利の法則である。それを知ることは将の最大の任務である。よく考察すべきである。更に軍が敗北に至る道は、走・弛・陥・崩・亂・北の六つがある。この六つの軍が敗れる原因は天によるものでなく将軍の過ちによるものである。両軍の兵力が同じであるのに、その十分の一の兵力で十倍の敵を撃ちかなわず逃げるのを走と曰う。士卒が強く荒々しく、部隊長が弱ければ、内部が緩み統御することができない。これを弛と曰う。反対に部隊長が強く、士卒が弱ければ、強いて戦わせても死地に陥る、これを陥と曰う。将軍が武将の能力を理解せず理不尽に叱責することにより、武将は敵に遇えば将軍の命を聞かずに独断で戰う、これを崩と言う。将軍が軟弱で威厳がなく、軍に教え導くことも明らかでなく、部下は規則を守らず、陣形もまともに整えられない、これを乱と言う。将軍が敵の勢力を分析する能力に欠けており、少数で多数の敵と戦い、弱兵で強兵を撃ち、精鋭を選ぶことも出来ない、これを北と曰う。およそこの六つのものが軍に敗北をもたらすものである。これらを知ることは将軍の最大の任務である。よく知っておくべきである。地形というものは戦いを助けるものであるから、敵情を知り勝ちを制する計をたて、その地形が険しく狭いか、遠いか近いかということを明らかにすることは、最高指導者である将軍が必ず守らなければならない道である。この事を知って戦う者は必ず勝ち、知らないで戦う者は必ず敗れる。だから戦争の道は必ず勝てる情勢であれば、主君が戦うなと命令しても戦ってもよい。逆に勝てない情勢であれば、主君が戦えと命令しても戦わなくてよい。だから戦争の道を知っている将軍は進撃して戦いに勝っても名誉を求めないし、退却しても罪を免れようとはしない。その思いは人民の安らかな生活を保ち国に利益をもたらすことである。このような将軍はまさに国の宝である。将軍が兵士を赤子のように慈しみ、危険な深い谷間でも俱に下りていき、兵士を愛する我が子のように見るので、兵士たちは死をも厭わずに将軍に従う。しかし将軍が兵士を厚遇するだけで彼らを使い用いることができず、兵を愛するだけで彼らに命令することができず、隊内が乱れて秩序を保つことができない。このような兵はたとえて言うなら父母の言う事を聞かないわがままな子のようなもので、用いることはできない。我が兵が敵に打ち勝つ能力があることを知っていても、敵の戦力が備わっていて破ることが困難であることを知らなければ勝敗は五分五分である。敵を撃ち破ることができることを知っていても、我が兵が敵に撃つ勝つ能力がないことを知らなければ勝敗は五分五分である。敵を撃ち破ることを知っていて、我が兵も敵を破る能力があることを知っていても、地形が我が軍に不利であることを知らなければ勝敗は五分五分である。それゆえ戦争の上手な者は彼我の実情を知り地形の利便を知ることに務め、しかる後に行動を起こすので迷いはなく、事を挙げても窮することはない。だから敵を知り己を知れば危なげなく勝つことができ、天の時を知り地の利を得れば、勝は完全なものになる。

孫子曰、地形有通者、有挂者、有支者、有隘者、有險者、有遠者。我可以往、彼可以來曰通。通形者、先居高陽、利糧道以戰、則利。可以往、難以返曰挂。挂形者、敵無備、出而勝之。敵若有備、出而不勝。難以返不利。我出而不利、彼出而不利曰支。支形者、敵雖利我、我無出也。引而去之、令敵半出而撃之利。隘形者、我先居之、必盈之以待敵。若敵先居之、盈而勿從、不盈而從之。險形者、我先居之、必居高陽以待敵。若敵先居之、引而去之、勿從也。遠形者、勢均,難以挑戰。戰而不利。凡此六者、地之道也。將之至任、不可不察也。故兵有走者、有弛者、有陷者、有崩者、有亂者、有北者。凡此六者、非天之災、將之過也。夫勢均、以一撃十曰走。卒強吏弱曰弛。吏強卒弱曰陷。大吏怒而不服、遇敵懟而自戰、將不知其能曰崩。將弱不嚴、教道不明、吏卒無常、陳兵縱橫曰亂。將不能料敵、以少合衆、以弱撃強、兵無選鋒曰北。凡此六者、敗之道也。將之至任、不可不察也。夫地形者、兵之助也。料敵制勝、計險阨遠近、上將之道也。知此而用戰者必勝。不知此而用戰者必敗。故戰道必勝、主曰無戰、必戰可也。戰道不勝、主曰必戰、無戰可也。故進不求名、退不避罪、唯民是保、而利合於主、國之寶也。視卒如嬰兒、故可與之赴深谿。視卒如愛子、故可與之俱死。厚而不能使、愛而不能令、亂而不能治、譬若驕子、不可用也。知吾卒之可以撃、而不知敵之不可撃、勝之半也。知敵之可撃、而不知吾卒之不可撃、勝之半也。知敵之可撃、知吾卒之可以撃、而不知地形之不可以戰、勝之半也。故知兵者、動而不迷、舉而不窮。故曰、知彼知己、勝乃不殆。知天知地、勝乃可全。

孫子曰く、地形に通なる者有り(注1)、挂(カイ)なる者有り(注2)、支なる者有り(注3)、隘なる者有り(注4)、險なる者有り(注5)、遠なる者有り(注6)。我以て往く可く、彼以て來る可きを通と曰う。通形は、先づ高陽に居り、糧道を利にして以て戰えば、則ち利あり。以て往く可くして、以て返り難きを挂と曰う。挂形は、敵備え無ければ、出でて之に勝つ。敵若し備え有れば、出でて勝たざらん。以て返り難くして不利なり。我出でて利あらず、彼出でて利あらざるを支と曰う。支形は、敵、我を利すと雖も、我出づること無かれ。引きて之を去り、敵をして半ば出でしめて之をを撃たば利あり(注7)。隘形は、我先づ之に居らば、必ず之を盈たして以て敵を待つ。若し敵先づ之に居り、盈つれば從うこと勿れ、盈たざれば之に從う(注8)。險形は、我先づ之に居らば、必ず高陽に居りて以て敵を待つ。若し敵先づ之に居らば、引きて之を去り、從うこと勿れ。遠形は、勢均しければ、以て戰いを挑み難し。戰いて利あらず。凡そ此の六者は、地の道なり。將の至任、察せざる可からざるなり。故に兵に走る者有り、弛む者有り、陷る者有り、崩るる者有り、亂るる者有り、北ぐる者有り。凡そ此の六者は、天の災に非ず、將の過なり。夫れ勢均しくして、一を以て十を撃つを走と曰う。卒強く吏弱きを弛と曰う(注9)。吏強く卒弱きを陷と曰う(注10)。大吏怒りて服せず、敵に遇えば懟(うらむ)みて自ら戰い、將其の能を知らざるを崩と曰う(注11)。將弱くして嚴ならず、教道明らかならず、吏卒常無く、兵を陳ぬるに縱橫なるを亂と曰う。將敵を料る能わず、少を以て衆に合わせ、弱を以て強を撃ち、兵に選鋒無きを北と曰う(注12)。凡そ此の六者は、敗の道なり。將の至任、察せざる可からざるなり。夫れ地形は兵の助けなり。適を料り勝を制し、險阨遠近を計るは、上將の道なり。此を知りて戰に用うれば必ず勝つ。此を知らずして戰に用うれば必ず敗る。故に戰道必ず勝たば、主、戰う無かれと曰うも、必ず戰いて可なり。戰道勝たずんば、主、必す戰えと曰うも、戰うこと無くしても可なり。故に進みて名を求めず、退きて罪を避けず、唯だ民を是れ保ちて、利、主に合うは、國の寶なり。卒を視ること嬰兒の如し、故に之と深谿に赴く可し。卒を視ること愛子の如し、故に之と俱に死す可し(注13)。厚くして使う能わず、愛して令する能わず、亂れて治むる能わず。譬えば驕子の若し、用う可からず。吾が卒の以て撃つ可きを知りて、敵の撃つ可からざるを知らざるは、勝の半ばなり。敵の撃つ可きを知りて、吾が卒の撃つ可からざるを知らざるは、勝の半ばなり。敵の撃つ可きを知り、吾が卒の以て撃つ可きを知りて、地形の以て戰う可からざるを知らざるは、勝の半ばなり。故に兵を知る者は、動きて迷わず、舉げて窮せず(注14)。故に曰く、彼を知り己を知らば、勝ちは乃ち殆うからず。天を知り地を知らば、勝ちは乃ち全かる可し(注15)。

<語釈>
○注1、十注:梅堯臣曰く、道路交達なり。杜牧曰く、通は、四戰の地なり。道が四方に通じていて、彼我両軍が行き来できる地形。○注2、住注:梅堯臣曰く、網羅の地、往けば必ず綴に掛かる。道が網で塞がれているように、草や木の遮蔽物があり、それに捉われて戻れないような地形。○注3、十注:梅堯臣曰く、相持するの地。容易に進めず両軍相対峙するような地形。○注4、十注:梅堯臣曰く、兩山通谷の閒。山に挟まれた細い道が一本あるだけの地形。○注5、十注:梅堯臣曰く、三川邱陵なり。険阻な地形。○注6、十注:梅堯臣曰く、平陸なり。遠くまで見渡せる平らな地形。○注7、十注:張預曰く、我を利すとは、佯りて我に背きて去るを謂うなり、出でて攻む可からず、我、険阻を捨てば則ち反って乘ずる所を為す、自ら引きて去るに當り、敵若し來たり追わば、其の出づるを伺いて、之を邀撃す、敵若し我を躡(おう)わば、其の半ば出づるを候いて、兵を發して之を撃たば、則ち利あり、若し敵人先づ去りて以て我を誘わば、我、出づる可からざるなり。○注8、十注:張預曰く、左右高山にして、中に平谷有り、我先づ之に至らば、必ず山の口を齊満して、以て陳を為し、敵をして進を得ざらしむるなり、我以て奇兵を出だす可し、彼以て我を撓すこの能わず、敵若し先づ此の地に居りて隘口を盈塞して陳すれば、從う可からず、○注9、十注:張預曰く、士卒豪悍にして、将吏懦弱なれば、統轄約束すること能わず、故に軍政、弛壊するなり。○注10、十注:杜牧曰く、攻取を為さんと欲するも、士卒怯弱にして、其の力を量らず、強いて之を進ましむれば、則ち死地に陥没す。○注11、十注:陳皥曰く、此れ大將理無くして小將にに怒り、之をして心内に不服を懐かしむ、怨怒に因縁して敵に遇えば、便ち戰い、能否を顧みず、大敗する所以なり。○注12、十注:梅堯臣曰く、敵情を量る能わずして、少を以て衆に當り、精鋭を選ぶ能わず、弱を以て強を撃つ、皆奔北の理なり。○注13、十注:張預曰く、将の卒を視ること子の如ければ、則ち卒の将を視ること父の如し、未だ父、危難に在りて、子、死を致さざること有らず。○注14、十注:張預曰く、妄動せず、故に動けば則ち誤らず、輕舉せず、故に舉ぐれば則ち困らず、彼我の虚實を識り、地形の便利を得て、而る後戰うなり。○注15、十注:張預曰く、天時に順い、地の利を得れば、勝を取ること極むる無し。

<解説>
解題について、十注:張預曰く、「凡そ軍は行く所有り、先の五十里の内、三川形勢、軍士をして其の伏兵を伺わしめ、将は自ら地の勢いを行きて見、因りて之を圖り、其の険易を知る、故に師を行り、境を越え、地形を審らかにして勝を立つ、故に行軍に次す。」
篇名は地形であるが、この篇の構成は、六つの地形の在り方、六つの敗北の原因、将の在り方になっており、恐らく後の人によって書き加えられたものであろう。この篇の趣旨は末分の「彼を知り己を知らば、勝ちは乃ち殆うからず。天を知り地を知らば、勝ちは乃ち全かる可し。」という言葉に表されている。

『孟子』巻第十四盡心章句下 二百二十六節、二百二十七節、二百二十八節

2019-08-18 10:18:47 | 四書解読
二百二十六節
孟子は言った。
「自分は戰の陣立てが得意だし、上手に戦いをこなすことが出来る、などと言う者がいたら、その者は大罪人である。国君が仁を好めば、天下に敵する者はいなくなる。昔殷の湯王が、南方を征伐すれば、北狄の人々が怨み、東方を征伐すれば、西夷の人々が怨み、どうして我々を後回しになさるのか、と言ったし、周の武王が殷の紂王を伐ったときは、兵車はわずか三百台、兵士は三千人に過ぎなかったが、武王が殷の人民に、恐れることはない、お前たちを安んずる為にきたのだ。民をを敵としているのではないぞ、と言うや、人々は雪崩を起こしたように一斉に武王の前に頓首してなびき従った。征という言葉は、正すということである。各々人民が、仁者がやってきて、己の国を正しくしてくれることを望んでいるようなら、どうして戦争などする必要があろうか。」

孟子曰、有人曰、我善為陳、我善為戰。大罪也。國君好仁、天下無敵焉。南面而征、北狄怨、東面而征、西夷怨。曰、奚為後我、武王之伐殷也、革車三百兩、虎賁三千人。王曰、無畏、寧爾也。非敵百姓也。若崩厥角稽首。征之為言、正也。各欲正己也、焉用戰。

孟子曰く、「人有り曰く、『我善く陳を為し、我善く戰いを為す。』大罪なり。國君、仁を好めば、天下に敵無し。南面して征すれば、北狄怨み、東面して征すれば、西夷怨む。曰く、『奚為れぞ我を後にする。』武王の殷を伐つや、革車三百兩、虎賁三千人。王曰く、『畏るること無かれ、爾を寧んずるなり。百姓を敵とするに非ざるなり。』崩るるが若く厥角稽首す。征の言為る、正なり。各々己を正しくせんと欲せば、焉くんぞ戰いを用いん。」

<語釈>
○「南面而征」、朱注:南面而征云々は、此れ湯の事を引き、以て之を明らかにす。○「厥角稽首」、趙注、朱注共に分かりにくい、服部宇之吉氏の解説が分かりやすいので、それを採用する。云う、「厥は頓首の頓に同じ、角は獣角にて又人の額ともなる、厥角は獣が角を以て地に觸るるが如く、民の武王を迎えて降り、頓首せるを云う」。○「各欲正己也」、趙注:各々武王をして來たり己の国を征しめんと欲す、安くんぞ善く戰陳する者を用いん。

<解説>
前節、前々節と併せて読むべき内容であり、その趣旨は改めて述べるまでもないので、趙岐の章指を紹介しておく、「民、明君を思うこと、旱に雨を望むが若し、仁を以て暴を伐たば、誰か欣喜せざらん、是を以て殷の民、厥角し、周の師、歌舞す、焉くんぞ善く戰うものを用いん、故に云う、罪なり。」

二百二十七節

孟子は言った。
「大工や車作りの職人は、ぶんまわしや定規の使い方を教えることはできるが、人を巧者にすることはできない。」

孟子曰、梓匠輪輿能與人規矩、不能使人巧。

孟子曰く、「梓匠・輪輿は、能く人に規矩を與うるも、人をして巧みならしむること能わず。」

<語釈>
○「梓匠・輪輿」、梓匠は、大工、輪輿は、車作り。梓・匠・輪・輿と四分割する説もあるが、執らない。

<解説>
趙岐云う、「規矩の法、喩うるに典禮の若し、人、仁を志さずんば、憲籍を誦すと雖も、以て善くすること能わず。」と。人に道理を教えることはできるが、それを実践し、仁者とすることはできない。それを可能にするのは本人の努力だけである。

二百二十八節
孟子は言った。
「舜が微賤であったころ、乾し飯を食らい、草を食らい、生涯そうして暮らすように思われた。ところが堯から天子の位を譲られると、模様のある衣を着、琴を演奏し、堯の娘二人を娶って側に侍らせるようになったが、昔からそうであったかのように特にそれらに心を動かされることも無く、平然としていたそうだ。」

孟子曰、舜之飯糗茹草也、若將終身焉。及其為天子也、被袗衣、鼓琴、二女果、若固有之。

孟子曰く、「舜の糗を飯い草を茹うや、將に身を終えんとするが若し。其の天子と為るに及びてや、袗(シン)衣を被り、琴を鼓し、二女果る、之を固有するが若し。」

<語釈>
○「飯糗茹草」、飯は“くらう”と訓じ、「糗」(キュウ)は、乾し飯、「茹」(ジョ)は“くらう”と訓ず。○「袗衣」、趙注、朱注共に、画衣とする。

<解説>
困窮栄達の環境により、己の心が左右されること無く、常に正しい道を守り、平然と過ごすのは、趙岐も云う、「凡人の難しとする所」と。

『孟子』巻第十四盡心章句下 二百二十三節、二百二十四節、二百二十五節

2019-08-12 10:26:59 | 四書解読
二百二十三節

孟子は言った。
「実に不仁だなあ、梁の惠王は。仁者は愛する者に対する心を、愛しない者にまで及ぼす。不仁者は愛しない者に対する心を、愛する者にまで及ぼす。」
弟子の公孫丑は尋ねた。
「それはどのような事を言っておられるのですか。」
「梁の惠王は他国から土地を侵奪することを望み、その民をして骨身を戦場に無残にさらして戦わせ、しかも大敗した。そこでこれに報復しようとしたが、勝てそうにないことを恐れて、自分の愛する子弟までも駆り出し、戦いの犠牲に供してしまった。これが、愛する者に対する心を、愛しない者にまで及ぼすというのである。」

孟子曰、不仁哉、梁惠王也。仁者以其所愛、及其所不愛、不仁者以其所不愛、及其所愛。公孫丑問曰、何謂也。梁惠王以土地之故、糜爛其民而戰之、大敗。將復之、恐不能勝。故驅其所愛子弟以殉之。是之謂以其所不愛、及其所愛也。

孟子曰く、「不仁なるかな、梁の惠王や。仁者は其の愛する所を以て、其の愛せざる所に及ぼし、不仁者は其の愛せざる所を以て、其の愛する所に及ぼす。」公孫丑問いて曰く、「何の謂ぞや。」「梁の惠王は土地の故を以て、其の民を糜爛して之を戰わしめ、大いに敗れたり。將に之を復せんとし、勝つこと能わざるを恐る。故に其の愛する所の子弟を驅りて、以て之に殉ぜしむ。是を之れ謂以其の愛せざる所を以て、其の愛する所に及ぼすと謂うなり。」

<語釈>
○「糜爛其民而戰之」、趙注:野に死亡し、骨肉糜爛して収めず、兵大いに敗る。

<解説>
この節の趣旨は、理解し難い所がある。趙岐の章指を紹介しておく、「政を發するに仁を施さば、一國恩を被る、戰いを好みて民を輕んずれば、災、親しむ所に及ぶ、此の魏王を著するは、人君を戒むるなり。」

二百二十四節
孟子は言った。
「『春秋』の書には、正義の戦いと見なされたものはない。唯だ、あれよりもこちらの方がよいと記された例はある。義戰とは善が惡を討つことで、征とは、天子が諸侯の惡、乃ち不正不義を正す為に討つことであり、対等の敵国どうしの間では、相手を征伐するということはないのである。」

孟子曰、春秋無義戰。彼善於此、則有之矣。征者上伐下也。敵國不相征也。

孟子曰く、「春秋に義戰無し。彼、此れより善きは、則ち之れ有り。征とは、上、下を伐つなり。敵國は相征せざるなり。」

<語釈>
○「春秋無義戰」、趙注:春秋の載する所の戰伐の事、王の義に應ずる者無し、彼の此の相覺わるるは、善惡有るのみ。○「征者上伐下」、朱注:征は人を正す所以なり、諸侯に罪有れば、天子討ちて之を正す。

<解説>
「征者上伐下也」とあるが、意味するところからすれば、「伐」は「討」の字にすべきである。百六十七節に、「天子は討じて伐せず、諸侯は伐して討ぜず」とあり、ここの趙注に、「討とは、上、下を討つなり、伐は、敵國相征伐するなり。」とある。趙岐の章指に云う、「春秋、亂を撥(書き立てる意)するに、時に争戰多し、事實に禮に遠し、文を以て正に反さんとす、征伐討誅、王命自りせず、故に義戰無しと曰う。」

二百二十五節
孟子は言った。
「『書経』に書かれていることを、全て信用するようでは、それにより過ちをおかすこともありうるので、それならむしろない方がましである。私は『書経』の武成篇からの二三節を信用するだけだ。誠に仁者であれば天下に敵する者はいない。だから至仁の武王が至不仁の紂を討伐したのだから、血の海に大きな楯が流れるほどの激しい戦いが本当にあったのだろうか。そんなことはあり得ないはずだ。」

孟子曰、盡信書、則不如無書。吾於武成、取二三策而已矣。仁人無敵於天下。以至仁伐至不仁。而何其血之流杵也。

孟子曰く、「盡く書を信ぜば、則ち書無きに如かず。吾、武成に於いて、二三策を取るのみ。仁人は天下に敵無し。至仁を以て至不仁を伐つ。而るに何ぞ其の血の杵を流さんや。」

<語釈>
○「書」、趙注:書は尚書なり。『書経』のこと。○「武成」、『書経』周書の一篇であるが、趙注に、武成は逸書の篇名なり、とあり、現在の『書経』にあるものは、偽作である。武王が紂を討伐したことを書いている。○「杵」、朱注:杵は、舂杵なり、或いは鹵楯(大きい楯)に作るなり。鹵楯説を採用する。

<解説>
『書経』だけの問題でなく、書物を読むに際しても、物事に対しても何が正しくて正しくないかを判断して、取捨選択する能力が大切である。特に現代人は何事も鵜呑みにして自分で判断する能力が乏しいように思われる。

『史記』扁鵲倉公列伝

2019-08-07 10:40:05 | 四書解読
扁鵲(黄帝時代の名医といわれる伝説上の人、この秦越人は、それにあやかって扁鵲と呼ばれた)、勃海郡の鄭の人なり。姓は秦氏、名は越人。少き時、人の舍長(客館の長)と為る。舍の客長桑君過るに、扁鵲獨り之を奇とし、常に謹みて之を遇す。長桑君も亦た扁鵲の常人に非ざるを知るなり。出入すること十餘年、乃ち扁鵲を呼びて私かに坐し、閒かに與に語りて曰く、「我に禁方有り、年老い、公に傳與せんと欲す。泄らす毋かれ。」扁鵲曰く、「敬みて諾す。」乃ち其の懷中より藥を出だし扁鵲に予えて曰く、「是を飲むに上池の水を以てすること三十日、當に物を知るべし。」乃ち悉く其の禁方の書を取り盡く扁鵲に與え、忽然として見えず。殆ど人に非ざるなり。扁鵲、其の言を以て藥を飲むこと三十日、垣の一方の人を視見す(垣の向こう側の人を透視することが出来た)。此を以て病を視るに、盡く五藏の癥結((チョウ・ケツ、腹中にできたしこり)を見るも、特だ脈を診るを以て名と為すのみ。醫と為り、或いは齊に在り、或いは趙に在り。趙に在る者(とき)は、扁鵲と名(よぶ)ばる。晉の昭公の時に當り、諸大夫彊くして公族弱し。趙簡子、大夫と為りて、國事を專らにす。簡子疾み、五日人を知らず,大夫皆懼る。是に於て扁鵲を召す。扁鵲入りて病を視、出づ。董安于、扁鵲に問う。扁鵲曰く、「血脈は治まれり。而るを何ぞ怪しまん。昔秦の穆公嘗て此くの如きこと七日にして寤む。寤むるの日、公孫支と子輿とに告げて曰く、『我、帝の所に之き甚だ樂しむ。吾が久しかりし所以の者は、適々學ぶ所有ればなり。帝、我に告ぐ、「晉國且に大いに亂れ、五世安からず。其の後將に霸たらんとするも、未だ老いずして死し、霸者の子且に而(「其」の義に読む)の國の男女をして別無からしむ、と。』公孫支、書して之を藏む。秦策(「策」は書、秦の歴史書)、是に於いて出づ(秦策の内容が、今晉の国に現れた)。
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