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『春秋左氏伝』巻十昭公二

2016-08-08 10:44:53 | 漢文解読
                       昭公二
『經』
・四年(前538年)、春、王の正月、大いに雹雨る。
・夏、楚子・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・除子・滕子・頓子・胡子・沈子・小邾子・宋の世子佐・淮夷、申に會す。
・楚人、除子を執らう。
・秋、七月、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・胡子・沈子・淮夷、呉を伐ち、齊の慶封を執らえて、之を殺す。
・九月、ショウ(“おおざとへん”に“曾”の字)を取る。
・冬、十有二月乙卯、叔孫豹、卒す。

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『孟子』巻二梁惠王章句下 第二十二節、二十三節

2016-08-01 12:05:42 | 漢文解読
                         第二十二節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「滕は小国である。国を挙げて大国に仕えても、その侵略から免れることはできそうにない。どうしたらよかろうか。」
孟子は答えた、
「昔、周の大王(古公亶)は邠に居られましたが、異民族が侵入してきました。そこで大王は、毛皮や絹を献上しましたが、侵略を免れることはできませんでした。次いで犬や馬を献上しましたが駄目でした。更に珠や玉の宝石類を献上しましたが、やはり駄目でした。そこで大王は一族の長老たちを集めてお告げになりました、『彼らが望んでいる物は、我が土地である。私はこういうことを聞いている、君子たる者は、人を養う為の物、乃ち土地の為に争って、人を傷つけることはしないものだと。お前たちは私が去ったとしても、君主がいないと云って心配することはない。次の君主が来るのだから。私はここを去ろうと思う。』こうして邠を去り、梁山を越えて、岐山の麓に邑を作り、そこに落ち着きました。すると邠の人々は、あの方こそ仁徳の君主だ。この君を失うことはできない、と言って、大王に従って、まるで市場に出かけるように、ぞろぞろと附いて行きました。これは一つの考え方です。一方、土地は、代々守り継がれてきたものであって、自分の一存で棄て去ることが出来るものではない。たとえ死んでも立ち去るな、と言う考えもございます。王様、どうかこの二つの中から一つをお選びください。」

滕文公問曰、滕小國也。竭力以事大國、則不得免焉。如之何則可。孟子對曰、昔者大王居邠。狄人侵之。事之以皮幣、不得免焉。事之以犬馬、不得免焉。事之以珠玉、不得免焉。乃屬其耆老而告之曰、狄人之所欲者、吾土地也。吾聞之也。君子不以其所以養人者害人。二三子何患乎無君?我將去之。去邠、踰梁山、邑于岐山之下居焉。邠人曰、仁人也。不可失也。從之者如歸市。或曰、世守也。非身之所能為也。效死勿去。君請擇於斯二者。

滕の文公、問いて曰く、「滕は、小國なり。力を竭くして以て大國に事うるも、則ち免るるを得ず。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「昔者、大王、邠に居る。狄人、之を侵す。之に事うるに皮幣を以てすれども、免るるを得ず。之に事うるに犬馬を以てすれども、免るるを得ず。之に事うるに珠玉を以てすれども、免るるを得ず。乃ち其の耆老を屬(あつめる)めて、之に告げて曰く、『狄人の欲する所の者は、吾が土地なり。吾、之を聞く。君子は人を養う所以の者を以て人を害せずと。二三子、何ぞ君無きを患えん。我將に之を去らんとす。』邠を去り、梁山を踰え,岐山の下に邑して居る。邠人曰く、『仁人なり、失う可からざるなり。』之に從う者、市に歸(おもむく)くが如し。或いは曰く、『世々の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり。死を效すも去る勿れ。』君請う斯の二者を擇べ。」

<語釈>
○「珠玉」、「珠」は真珠等の海から取れるもの、「玉」は玉石などの山から取れるもの。「珠玉」で宝石類。○「耆老」、『禮記』に、六十を耆(キ)と曰い、七十を老と曰う、とある。ここでは「耆老」で一族の長老の意。

<解説>
趙岐の章指を舉げる、
「大王の邠を去るは權なり。死を效して業を守るは義なり。義・權は並ばず。故に擇びて之に處ると曰う。」
この「權」と「義」については、朱子が以下の如く述べている。
「蓋し國を遷して以て存を圖るは權なり。正を守りて死を俟つは義なり。己を審らかにして力を量り、擇びて之に處るは可なり。」

                             第二十三節
魯の平侯が出かけようとした。お気に入りの近臣の臧倉という者が、公に尋ねた。
「これまで殿さまはお出かけになる時は必ず係りの役人に行く所をお告げになりました。ところが今、お車に乗られ、馬も繋がれて出発の準備が整っていますのに、係りの役人は未だどこへ行くのか伺っておりません。是非お聞かせくださいませ。」
平侯は言った、
「孟子に会いに行こうと思う。」
「何ということでございますか。貴い身分でありながら軽々しく一平民にこちらから先にお訪ねになるのは、相手が賢者だと思し召すからでございますか。しかし賢者というのは行いが全て礼儀に適っているものでございますが、孟子の母の葬儀は、以前の父の葬儀よりも立派にするという礼儀に外れたものでございました。とても賢者とは言えませんので、殿様、どうかお会いになるのはお辞めください。」
平侯は言った、
「分かった。」
孟子の弟子で、魯の臣である樂正子が平侯に謁見して言った、
「殿様、どうして孟軻にお会いにならないのでございますか。」
「孟子の母の葬儀を、先に亡くなった父の葬儀よりも立派にするという礼儀知らずの人間だと告げる者がいたので、遇いに行かなかったのだ。」
「殿様の仰せになられる立派とは、どういうことでございますか。前には士の禮を用い、後には大夫の禮を用い、前には供物が三鼎で、後には五鼎であったことをおっしゃておられるのでしょうか。」
「いや、そうではない。棺やそれを入れた外棺、衣類や夜着が父の時以上に立派にしたと言うことだ。」
「それは世に謂う踰えたとは申しません。今と当時とでは貧富の程度が違うのですから。」
樂正子は孟子に会って言った、
「私は、殿さまに先生の事を申し上げ、殿様もお会いになろうとされたのです。ところがお気に入りの近臣の臧倉と言う者が、殿様を止めたのです。その為に殿さまは先生にお会いするのをお止めになられました。」
「人が行くときは、そうさせるものがあり、止まるときも止めさせるものが有る。行くも止まるも人の力で勝手にできるものではない。私が魯侯にお会いできなかったのは、天命なのだ。臧氏の小人ごときが、どうして私が魯侯にお会いするのを妨げることが出来ようか。」
 
魯平公將出。嬖人臧倉者請曰、他日君出、則必命有司所之。今乘輿已駕矣。有司未知所之。敢請。公曰、將見孟子。曰、何哉。君所為輕身以先於匹夫者、以為賢乎。禮義由賢者出。而孟子之後喪踰前喪。君無見焉。公曰、諾。樂正子入見、曰、君奚為不見孟軻也。曰、或告寡人曰、孟子之後喪踰前喪。是以不往見也。曰、何哉。君所謂踰者。前以士、後以大夫、前以三鼎、而後以五鼎與。曰、否。謂棺槨衣衾之美也。曰、非所謂踰也。貧富不同也。樂正子見孟子、曰、克告於君。君為來見也。嬖人有臧倉者沮君。君是以不果來也。曰、行或使之、止或尼之。行止所能也。吾之不遇魯侯、天也。臧氏之子焉能使予不遇哉。

魯の平公將に出でんとす。嬖人臧倉なる者請うて曰く、「他日、君出づれば、則ち必ず有司に之く所を命ず。今、輿に乘り已に駕す。有司未だ之く所を知らず。敢て請う。」公曰く、「將に孟子を見んとす。」曰く、「何ぞや。君の為す所、身を輕んじて以て匹夫に先だつとは。以て賢と為すか。禮義は賢者由り出づ。而るに孟子の後喪は前喪に踰えたり。君、見る無かれ。」公曰く、「諾。」樂正子、入り見えて曰く、「君、奚為れぞ孟軻を見ざるや。」曰く、「或ひと寡人に告げて曰く、『孟子の後喪は前喪を踰えたり。』是を以て往きて見ざるなり。」曰く、「何ぞや。君の所謂踰ゆとは。前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、後には五鼎を以てしたるか。」曰く、「否。棺槨衣衾の美を謂うなり。」曰く、「所謂踰ゆるには非ざるなり。貧富同じからざればなり。」樂正子、孟子に見えて曰く、「克、君に告ぐ。君、來たり見んと為す。嬖人に臧倉なる者有り、君を沮む。君是を以て來たることを果たさざるなり。」曰く、「行くも之を使しむる或り、止まるも之を尼むる或り。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇わざるは、天なり。臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」

<語釈>
○「嬖人」、寵愛している近臣。○「後喪・前喪」、前喪は先に亡くなった父の葬儀、後喪は後で亡くなった母の葬儀。○「樂正子」、趙注:孟子の弟子なり、魯の臣と為る。名は克、後文に出てくる。○「孟軻」、孟子の名。○「棺槨」、「棺」は、ひつぎ、「槨」は、棺を入れる外側の棺。○「衣衾」、「衣」は衣類、「衾」は夜着。○「尼」、「止」の義に読む。

<解説>
この章の趣旨は、最後の「天なり。」に尽きる。朱子も、此の章は、聖賢の出處は時運の盛衰に關る、乃ち天命の為す所は、人力の及ぶ可きに非ずを言う、と述べている。
最後の、「臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」という言葉は、孟子の人間性を表しているような気がする。

『孟子』巻二梁惠王章句下 第二十節、二十一節

2016-07-25 10:19:08 | 漢文解読
第二十節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「我が滕の国は小国で、齊と楚の二大国に挟まれており、どちらかに頼らなければ、國を保つことが出来ない。齊に仕えたものだろうか、楚に仕えたものだろうか。」
孟子は答えた、
「その問題は私の考えの及ぶ所ではありません。どうしてもと言うのであれば、ここに一つの考えが有ります。このお城の堀を深くし、この城壁を高くし、一旦事が有れば人民と共にこの城を守り、たとい死が迫っていても王様を見捨てて逃げださぬというようにすることはできます。」

滕文公問曰、滕小國也。間於齊楚。事齊乎、事楚乎。孟子對曰、是謀非吾所能及也。無已、則有一焉。鑿斯池也、築斯城也、與民守之、效死而民弗去、則是可為也。

滕の文公問いて曰く、「滕は、小國なり。齊・楚に閒す。齊に事えんか、楚に事えんか。」孟子對えて曰く、「是の謀は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば、則ち一有り。斯の池を鑿ち、斯の城を築き、民と與に之を守り、死を效すも民去らざるは、則ち是れ為す可きなり。」

<語釈>
○「鑿斯池」、池は城の堀、それを深くすること。○「築斯城」、築くとは、城壁を高くすること。

<解説>
解説の代わりに趙注を挙げておく、
「孟子、二大国の君、皆禮に由らざるを以て、我、誰か事うる可き者かを知ること能わず。已むを得ざれば一謀有り。惟れ徳義を施して以て民を養い、民と與に城池を堅守し、死するに至るも、民をして畔去せしめずんば、則ち為す可し。」

第二十一節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「齊の国が、国境近くの薛に城を築こうとしている。私は甚だこれを心配しているのだが、どうしたらよいだろうか。」
孟子は答えた、
「昔、周の大王古公亶甫は邠に居られましたが、狄人が侵入してきたので、ここを去って、岐山の麓に移り住みました。これは自分でこの地を選んだ訳ではありません。難を避けるためにやむを得ずこの地に来たのです。しかし故郷を追われ地を失っても、善い政治を行ってさえいれば、周のように必ず子孫に天下の王者となる者が現れてまいります。君子と言われる者は、事業を起こし、其の進むべき道を指し示し、子孫がそれを継承できるようにします。それが成功するか否かは、天命に因るのです。あの齊のやることに対して、王様は今更どうすることもできません。唯だ務めて善い政治を行う努力をするだけでございます。」

滕文公問曰、齊人將築薛。吾甚恐。如之何則可。孟子對曰、昔者大王居邠。狄人侵之。去之岐山之下居焉。非擇而取之。不得已也。苟為善、後世子孫必有王者矣。君子創業垂統、為可繼也。若夫成功、則天也。君如彼何哉。彊為善而已矣。

滕の文公問いて曰く、「齊人、將に薛に築かんとす。吾甚だ恐る。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「昔者、大王、邠(ヒン)に居る。狄人、之を侵す。去りて、岐山の下に之きて居る。擇びて之を取るに非ず。已むを得ざればなり。苟くも善を為さば、後世子孫、必ず王者有らん。君子、業を創め統を垂れ、繼ぐ可きを為す。若し夫れ功を成さば、則ち天なり。君、彼を如何にせんや。彊めて善を為すのみ。」

<語釈>
○、「大王」、周の文王の祖父、古公亶甫。

<解説>
趙岐の章指を挙げておく。
「君子の道は、己を正し、天に任ず。強暴の來たるは、己の招く所に非ず。窮すれば、則ち獨り其の身を善くする者を謂うなり。」

『孟子』巻二梁惠王章句下第十八節、十九節

2016-07-11 10:15:56 | 漢文解読

                         第十八節
齊は燕を攻めて、占領したので、諸侯は相談して燕を救おうとした。そこで齊の宣王は孟子に相談した、
「私を討とうと相談している諸侯が多数いる。之に対処するにはどうすればよいだろうか。」
孟子は答えた、
「私は国土がわずか七十里四方の小国でありながら天下を治めた者がいると聞いております。それは殷の湯王でございます。国土が千里四方の大国でありながらよその国を恐れるということは聞いたことがございません。『書経』にも、湯王は無道の国を征伐するに当たって、先ず隣国の葛より始めたと書かれておりますが、天下の人々は、湯王の征伐が人民の苦しみを救う正義の戰であることを信じていたので、湯王が東を伐てば、西の民が怨み、南を伐てば、北の民が怨んで、どうして我々を後回しにするのかと申したそうです。人民が湯王の来るのを待ち望むのは、日照り続きの中で、雨雲を待ち続けるのと同じふうでした。ですので湯王の軍隊が城に入ってきても人々は普段と変わらず、商人は市場に行き、農民は田畑を耕している。城に入った湯王は、無道の君主を誅伐して、その民を哀れみ慰めました。それは時期を得た雨のように恩沢がもたらされたので、人々は大変喜びました。『書経』にも、我らの君がおいでになるのをお待ちしています。おいでになれば我らは息を吹き返すであろう、とその気持ちが述べられております。今、燕の国は、君主が民を虐げております。そこへ王様が軍をお進めになられたので、人々は王様が水火の苦しみからお救いくださるだろうと思い、竹製の器に飯を入れ飲み物を壺に入れて持参し、王様の軍隊を歓迎したのでございました。ところがその期待に反して、長老たちを殺し、若者たちを捕らえ、先祖の廟を壊し、大切に保存されている宝器を持ち帰るようなことすれば、どうしてよいことだと申せましょうか。天下の諸侯は当然齊の強さを恐れております。そこへ又燕を併合して領土を倍加して益々強くなり、しかも仁政を行わなければ、諸侯たちはやがて自分たちの国を攻めて来るのではないかと恐れて、天下の兵を齊に向けてくることになります。王様、どうか速やかに命令を下して、連れ去った老人子供を返し、持ち出した宝器を元の場所に止めさせ、燕の人々と相談して、しかるべき君主を立て、その上で燕の国から齊の兵を引き上げさせれば、諸侯が兵を動かすことを止めさせるのに、まだ間に合いましょう。」

齊人伐燕、取之。諸侯將謀救燕。宣王曰、諸侯多謀伐寡人者。何以待之。孟子對曰、臣聞七十里為政於天下者。湯是也。未聞以千里畏人者也。書曰、湯一征、自葛始。天下信之。東面而征、西夷怨、南面而征、北狄怨。曰、奚為後我。民望之、若大旱之望雲霓也。歸市者不止、耕者不變。誅其君而弔其民。若時雨降。民大悅。書曰、徯我后、后來其蘇。今燕虐其民。王往而征之。民以為將拯己於水火之中也。簞食壺漿、以迎王師。若殺其父兄、係累其子弟、毀其宗廟、遷其重器、如之何其可也。天下固畏齊之彊也。今又倍地而不行仁政、是動天下之兵也。王速出令、反其旄倪、止其重器、謀於燕衆、置君而後去之、則猶可及止也。

齊人、燕を伐ちて、之を取る。諸侯將に謀りて燕を救わんとす。宣王曰く、「諸侯、寡人を伐たんと謀る者多し。何を以て之を待たん。」孟子對えて曰く、「臣、七十里にして政を天下に為す者を聞く。湯是れなり。未だ千里を以て人を畏るる者を聞かざるなり。書に曰く、『湯一(はじめて)めて征する、葛自り始む。』天下之を信ず。東面して征すれば、西夷怨み、南面して征すれば、北狄怨む。曰く、『奚為れぞ我を後にする。』民の之を望むこと、大旱の雲霓(ウン・ゲイ)を望むが若きなり。市に歸(おもむく)く者は止まらず、耕す者は變ぜず。其の君を誅して、其の民を弔う。時雨の降るが若し。民大いに悅ぶ。書に曰く、『我が后(「君」に同じ)を徯(まつ)つ、后來たらば其れ蘇らん。』今、燕、其の民を虐ぐ。王往きて之を征す。民以て將に己を水火の中より拯(すくう)わんとすと為す。簞食壺漿して、以て王の師を迎う。若し其の父兄を殺し、其の子弟を係累し、其の宗廟を毀ち、其の重器を遷さば、之を如何ぞ其れ可ならんや。天下固より齊の彊きを畏るるなり。今又地を倍して、仁政を行わずんば、是れ天下の兵を動かすなり。王速かに令を出だし、其の旄倪を反し、其の重器を止め、燕の衆に謀り、君を置きて而る後に之を去らば、則ち猶ほ止むるに及ぶ可きなり。」

<語釈>
○「書曰、湯一征~」、この句は現代の『書経』の仲虺之誥篇に在るが、この篇は晉代の偽作とされており、後漢の学者である趙岐は見ていない、故に趙注では逸篇の文とされている。○「雲霓」、「霓」は虹の意であるが、ここでは二字で雨雲の意味に解しておくのがよいと思う。○「后」、趙注:「后」は「君」なり。○「徯」、趙注:「徯」は「待」なり。○「簞食壺漿」、前節の語釈参照。○「父兄」、年配者、長老の意。○「子弟」、若者の意。○「重器」、宝器。○「旄倪」、「旄」は老人、「倪」は子供。

<解説>
難しい箇所はないので、范氏の言葉を紹介しておく。
 「孟子、齊・梁の君に事う。道徳を論ずれば、則ち必ず堯・舜を稱す。征伐を論ずれば、則ち必ず湯・武を稱す。蓋し民を治むるに、堯・舜に法らざるは、則ち是を暴と為す。師を行るに湯・武に法らざるは、則ち是を亂と為す。」

                         第十九節
鄒と魯が戦った。鄒の穆公は孟子に尋ねた、
「我が軍では部隊長となった役人たちが三十三人も戦死した。それなのにその配下の兵たちは一人も死んでいない。そこで罪をただそうと思っているのだが、数があまりに多くて、手の出しようがない。かと言って処刑しなければ、隊長の死をいい気味だと思って見殺しにした罪をただすことが出来ない。どうしたらよいものだろうか。」
孟子は答えた、
「凶作飢饉の歳には、王様の人民は、老幼の弱者は、溝や谷間に転がり落ちて死に、壮年の者は家を棄て食を求めて四方に行く者が数千人に及びました。ところが王様の倉庫は穀物で充ちており、お藏は財宝で一杯です。それなのにお役人でこの事を王様に告げる者は誰一人おりませんでした。即ち上の者の怠慢で、下の者を見殺しにしたのでございます。孔子の門人であった曾子は、『戒めよ、戒めよ、汝から出たものは、みな汝の身に返ってくるぞ。』と申しました。即ち今、民たちは、役人たちから受けた仕打ちの仕返しが出来たのでございます。王様、彼らをお咎めになってはいけません。王様が思いやりのある政治を行えば、民は自然とその上の者に親しみ、上の者の為には死をも辞せぬようになりましょう。」

鄒與魯鬨。穆公問曰、吾有司死者三十三人。而民莫之死也。誅之、則不可勝誅。不誅、則疾視其長上之死而不救。如之何則可也。孟子對曰:「凶年饑歲,君之民老弱轉乎溝壑,壯者散而之四方者,幾千人矣;而君之倉廩實,府庫充,有司莫以告,是上慢而殘下也。曾子曰:『戒之戒之!出乎爾者,反乎爾者也。』夫民今而後得反之也。君無尤焉。君行仁政,斯民親其上、死其長矣。」

鄒と魯と鬨う。穆公問いて曰く、「吾が有司の死する者三十三人。而るに民之に死する莫きなり。之を誅せんとせば、則ち勝げて誅す可からず。誅せざれば、則ち其の長上の死を疾視して救わず。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「凶年饑歲には、君の民、老弱は溝壑(コウ・ガク)に轉じ、壯者は散じて四方に之く者、幾千人ぞ。而るに君の倉廩は實ち、府庫は充ち、有司以て告ぐる莫し。是れ上慢にして下を殘うなり。曾子曰く、『之を戒めよ、之を戒めよ。爾に出づる者は、爾に反る者なり。』夫れ民今にして後、之を反すことを得たるなり。君尤むること無かれ。君仁政を行わば、斯に民は其の上に親しみ、其の長に死なん。」

<語釈>
○「鬨」、本来は戰の時に上げる鬨の声の意であるが、ここでは動詞に読んで、“たたかう”と訓ず。○「有司」、役人の意、戰の時は部隊長となって出陣する。○「疾視」、惡みて視る意から、部隊長の死をいい気味だと思っていること。○「溝壑」、「溝」は、みぞ、「壑」は、たにま。○「轉」、転倒の意で、転がり落ちて死ぬこと。○「曾子」、孔子の門人の曾參、それ孝は徳の本なりと述べ、孝を重視した。著書に『孝經』がある。

<解説>
趙岐の章指を挙げておく
「上、其の下を恤まば、下、其の難に赴く。惡、己より出づれば、害、其の身に及ぶ。影響、自ずから然るが如し。」

『春秋左氏伝』巻第十昭公一

2016-07-04 09:58:38 | 漢文解読
『春秋左氏伝』巻第十昭公一の解読をホームページにアップしました。
                        
                        昭公一
『經』
 ・元年(前541年)、春、王の正月、公、位に即く。
 ・叔孫豹、晉の趙武・楚の公子圍・齊の國弱・宋の向戌・衛の齊惡・陳の公子招・蔡の公孫歸生・鄭の罕虎・許人・曹人に虢に會す。
 ・三月、鄆を取る。
 ・夏、秦伯の弟鍼(ケン)、晉に出奔す。
 ・六月丁巳、邾子華、卒す。
 ・晉の荀呉、師を帥いて狄を大鹵に敗る。
 ・秋、莒の去疾、齊自り莒に入る。莒の展輿、呉に出奔す。
 ・叔弓、師を帥いて鄆の田を疆す(春、鄆を取り、今、其の封疆を正す)。
 ・邾の悼公を葬る。
 ・冬、十有一月己酉、楚子麇(キン)、卒す。
 ・楚の公子比、晉に出奔す。

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