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『孟子』巻第五藤文公章句上 四十七節

2017-03-31 10:11:08 | 四書解読
四十七節

藤の文公がまだ太子であったとき、楚に行こうとして途中宋の国に立ち寄り、そこで孟子と会見した。そのとき孟子は人間の本性は善であると説き、説くたびに聖天子の堯・舜を引き合いに出した。太子は楚よりの帰途、再び孟子の言を聞きたく思い、宋に立ち寄り孟子と会見した。孟子は言った。
「太子は私の言葉をお疑いなさいますか。天下の道は唯一つ、善を行うだけです。昔、勇者の成覸(ケン)は齊の景公に、彼は一個の男、私も一個の男、同じ一個の男どうし、どうして彼を恐れましょうか、と言い、孔子の弟子の顔淵も、舜はどんな人間なのか、私はどんな人間なのか、同じ人ではないか、為そうとする意志があれば私でも舜のようになれるのだ、と言い、昔の魯の賢人である公明儀は、文王は私の師匠である。文王を称える周公の言葉は信ずるに足る、と言っている。今、藤の国土の長い所を切り取り短い所に足して方形にすれば、五十里四方の国土になるでしょう。たとい小国と雖もあなたの決心次第では立派な国にすることが出来ます。『書経』にも、めまいを起こさせるほどの劇薬でなければ、其の病は治らない、とありますように、それにはよほどの決心が必要でございましょう。」

滕文公為世子、將之楚、過宋而見孟子。孟子道性善、言必稱堯舜。世子自楚反、復見孟子。孟子曰、世子疑吾言乎。夫道一而已矣。成覸謂齊景公曰、彼丈夫也。我丈夫也。吾何畏彼哉。顏淵曰、舜何人也。予何人也。有為者亦若是。公明儀曰:、文王我師也。周公豈欺我哉。今滕絕長補短、將五十里也。猶可以為善國。書曰、若藥不瞑眩、厥疾不瘳。

滕の文公、世子為りしとき、將に楚に之かんとし、宋に過ぎりて孟子を見る。孟子、性善を道い、言えば必ず堯舜を稱す。世子、楚自り反りて、復た孟子を見る。孟子曰く、「世子は吾が言を疑うか。夫れ道は一のみ。成覸(ケン)、齊の景公に謂いて曰く、『彼も丈夫なり。我も丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんや。』顏淵曰く、『舜何人ぞや。予何人ぞや。為す有る者亦た是の若し。』公明儀曰く、『文王は我が師なり。周公豈に我を欺むかんや。』今、滕、長を絕ち短を補わば、將に五十里ならんとす。猶ほ以て善國と為す可し。書に曰く、『若し藥瞑眩(メン・ゲン)せずんば、厥の疾瘳(いえる)えず。』」

<語釈>
○「世子」、朱注:世子は太子なり。○「性善」、人間の本性は善であること。○「夫道一」、趙注:天下の道は一つ言うのみ、唯だ善を行うのみ。○「有為者亦若是」、この句は顔淵の言葉とする説と、孟子の言葉とする説とがある。安井息軒氏や服部宇之吉氏らは孟子の言葉とするが、文章の流れから、私は顔淵の言葉とする方がよいと思うので、そのように解釈した。○「公明儀」、朱注:魯の賢人なり。○「書曰」、『尚書』の説命上篇にこの句は在るが、趙注でも、逸篇なりと述べているように、この篇は後世の偽作である。○「瞑眩」、我が師白川静先生の「字通」に、毒薬などで目がくらむことを瞑眩という、とある。

<解説>
この節は孟子の持論である「人間の本性は善である」という性善説を述べているが、私はまだ最後まで読んでいないので分からないが、「性善」と言う言葉が出てくるのはこの節だけらしい。だがその内容については、この先の離婁章句や告子篇に出て来るので、そこで更に理解を深めることが出来るだろう。

『呂氏春秋』十二紀 巻第一孟春紀

2017-03-26 11:40:00 | 四書解読
十二紀は同じ概念の文章が多く出て来るので、それらを本文中で解説していると、煩雑であり読みづらくなるので、『十二紀を読むための予備知識』を最初に紹介しているので、本文の注釈で予備参照とあれば、これを見てください。

巻第一 孟春紀

一 孟春

一に曰く。孟春の月(旧暦の一月)。日は營室に在り、昏に參中し、旦に尾中す(營室・參・尾は予備の二十八宿参照。高注:是の月、昏旦時皆南方に中る。暮れには參が正南に見え、夜明けには尾が正南に見ゆ)。其の日は甲乙、其の帝は太暤(甲乙は十干の一番目と二番目で五行説では木に當る。高注:甲乙は木日なり、太暤は伏羲氏、木徳の王を以て、天下の號とす、死して東方に祀り、木徳の帝と為す)、其の神は句芒、其の蟲は麟、其の音は角、律は太蔟に中る(予備の音と十二律参照))。其の數は八(予備の五行の生成順を参照、三番目なので、五行の五と足して八になる)、其の味は酸、其の臭は羶(セン、生臭いにおい)。其の祀は戸(高注によれば、冬の間じっとしていた虫が戸口より出て動き回るので、その戸口を祀るということ)、祭るには脾を先にす(脾は木に属す説と土に属す説とが有る、春の木に属する説を採用し、脾臓を最初に供えると解釈する)。東風、凍を解き、蟄蟲始めて振るう。魚、冰に上り(高注:魚は、鯉・鮒の屬なり、陽に応じて動き、上りて冰を負う)、獺、魚を祭り(獺(ダツ)は、かわうそ、魚を取って供え物のように岸辺に並べる)、候鴈(時節の鴈)北す。天子、青陽の左个に居り(予備の明堂参照)、鸞輅に乘り蒼龍を駕し(「鸞」は鳥、鳳凰の類、「輅」は車、天子の乘る車、前の横木に鸞を象った鈴を吊り下げている、高注:周禮に、馬八尺以上を龍と為す。)、青旂を載(たてる)て、青衣を衣、青玉を服(おびる)び、麥と羊とを食らう。其の器は疏にして以て達す(「疏」は透かし彫り、「達」はそれが裏側まで達している事)。是の月や、立春なるを以て、立春に先立つこと三日、太史、之を天子に謁げて曰く、「某日立春なり。盛徳は木に在り。」天子乃ち齋す。立春の日は、天子親ら三公・九卿・諸侯・大夫を率いて、以て春を東郊に迎う。還りて、乃ち卿諸侯大夫を朝に賞す。相(高注:相は三公なり)に命じて徳を布き令を和らげ、慶を行い惠を施し、下は兆民に及ばしむ。慶賜(功勞に対する賞)遂行して、當らざる有ること無からしむ。廼ち太史に命じ、典を守り法を奉じ、天の日月星辰の行を司り(高注:典は六典、法は八法、日月五星の行、遅速を度るは、太史の職なり)、宿離忒わず(「忒」は“たがう”と訓じ、日月が二十八宿に止まり離れるのが決まり通りである)、經紀を失うこと無く、初めを以て常と為さしむ(「經紀」は『月令』の鄭注に、天文の進退の度数を謂うとある。高注に、星辰の宿度、其の度を知るを司り、牽牛の初めより起くるを以て常と為すとあり、牽牛宿の初点を冬至点として度数を制定した旧来の法を常に守ったということ)。是の月や、天子乃ち元日(高注:「元」は「善」なり。乃ち元日は吉日)を以て穀を上帝に祈る。乃ち元辰を擇び(辰は日を数える十二支、吉日を擇ぶこと)、天子親ら耒耜を載せ(「耒耜」(ライ・シ)は、すき。これを車に載せる)、之を參于の保介と御との間に措き(疑問の多い句である、「于」は「乘」の壊字とする説に従い、「參乘」で、そえのりと解し、「保介」は、護衛の兵士とする月禮の鄭注に従い、「保介之御閒」を「御之閒」と入れ替えて読む明治書院の新編漢文選の説に従っておくが、納得は出来ない。)、三公・九卿・諸侯・大夫を率いて躬ら帝籍田を耕す(高注:天子の籍田は千畝、以て上帝に供うるの粢盛なり、故に帝籍と曰う)。天子、三たび推し、三公、五たび推し、卿・諸侯・大夫、九たび推す。反りて爵を太寝に執り(高注:爵は飲爵、太寝は祖廟なり)、三公・九卿・諸侯・大夫、皆命を御し(高注:御は天子の命を致す)、勞酒と曰う。是の月や、天の気は下降し、地の気は上騰し、天地和同して、草木繁動す。王、農事を布く。田(農業を監督する官)に命じて東郊に舎す。皆封疆を修め、審らかに径術を端し(「径術」(ケイ・スイ)、あぜ道、「端」は“ただす”と訓ず)、善く丘陵(丘陵地)・阪険(高注:阪険は傾危なり。傾斜地)・原濕(湿地)の、土地の宜しき所、五穀の殖する所を相て、以て民を教道し、必ず躬ら之を親しくせしむ。田事既に飭(ととのう)い、先づ準直(準は水準器、直は墨縄、準直で基準を意味する)を定むれば、農乃ち惑わず。是の月や、樂正に命じ、學(國の学校)に入り舞を習わしめ、乃ち祭典を修めしむ。命じて山林川澤を祀るに、犠牲は牝を用いること無からしむ。伐木を禁止し、巣を覆すこと無く、孩蟲(ガイ・チュウ、幼虫)・胎夭(獣の胎内の子と生まれたての子)・飛鳥(『月禮』の孔疏に、初飛の鳥とある。飛びたての鳥)を殺すこと無く、麛(ベイ、高注:鹿の子を麛と曰う)とること無く、卵とること無く、大衆を聚むること無く、城郭を置くこと無く(高注:「置」は「立」なり。城郭を築く事)、骼を揜い髊(シ)を霾めしむ(「揜」は“おおう”と訓ず、「霾」は“うずめる”と訓ず。高注:白骨を骼と曰い、肉有るを髊と曰う)。是の月や、以て兵を稱ぐ可からず。兵を稱ぐれば、必ず天殃有らん(高注:「稱」は「舉」なり、「殃」は「咎」なり)。兵戎起きざれば、以て我自り始む可からず。天の道を變ずる無かれ。地の道を絶つ無かれ。人の紀(高注:「紀」は「道」なり)を亂す無かれ。孟春に夏の令を行えば、則ち風雨時ならず、草木早く槁れ、國乃ち恐有り。秋の令を行えば、則ち民大いに疫し、疾風暴雨數々至り、藜莠蓬蒿竝び興る(「藜」(レイ)は、あかざ、「莠」(ユウ)はぐさ、「蓬」・「蒿」(コウ)は、よもぎの類)。冬の令を行えば、則ち水潦(大雨)、敗を為し、霜雪大いに摯(「至」に通ず)り、首種入らず(高注:春は陽、冬は陰なり、而して其の令を行えば、陰、陽に乘ず、故に水潦、敗を為し、霜雪大いに摯り、五穀を傷害す、春は歳の始めなれば、稼穡之に應じて成熟せざるなり。「首種」は最初に収穫する穀物)。

二 本生

   続きはホームページで、http://gongsunlong.web.fc2.com/

『呂氏春秋』解読 解説

2017-03-22 10:36:18 | 四書解読
『春秋左氏伝』の解読を先日終了した。次は『呂氏春秋』をやることにしました。先づは解説からです。

解 説

一、『呂氏春秋』の成り立ち

 『呂氏春秋』は秦の荘襄王から始皇帝の初期のころまで宰相を務めた呂不韋が、その権力と財力とを総動員して全国から集めた学者たちに著作編纂させたものである。その構成は、十二紀・八覧・六論の三部に分かれ、全二十六巻百六十篇からなっており、内容は多岐にわたり、一種の百科全書的な書であり、同じ性格の書として前漢に編纂された有名な『淮南子』の先駆けとなったものである。この書の成立事情について、『史記』の呂不韋傳は次のように記している。
   不韋の家僮万人あり。是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り。皆士に下り賓客を喜み、以て相い傾く(傾注、熱中すること)、呂不韋、秦の強きを以て、如かざるを羞じ、亦た士を招致し、厚く之を遇し、食客三千人に至る。是の時諸侯に弁士多く、荀卿の徒の如きは、書を著し天下に布く。呂不韋乃ち其の客をして人人の聞く所を著さしめ、集論(編集)し以て八覧・六論・十二紀の二十餘万言を為る。以為らく、天地の万物・古今の事を備う、と。号して呂氏春秋と曰う。
この書の編纂について、呂不韋は相当な自信を持っていたようである。之も有名な話であるが、呂不韋傳に以下の如く記されている。
   咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游子・賓客を延き(招きよせる)、能く一字を増損する者有らば、千金を予えん、と。
この様に自信を持って世に送り出した書であったが、歴代中国における評価は低いもので、清朝になってやっと見直されるようになったのである。

二、呂不韋について

 呂不韋については、『史記』の呂不韋傳と『戦国策』の秦策五とに見える。両書の記述には若干の相違があるが、呂不韋傳を主として、その人物像を紹介しておく。呂不韋傳の冒頭に次のように記されている。
   呂不韋は陽翟の大賈人なり。往来して賤(値段が安いこと)に販(買う)い貴(値段が高いこと)に賈り、家に千金を累ぬ。
諸国を往来して商売をし、巨万の富を築いた豪商である。趙の国に行った時、秦の太子である安國君の子供で人質として趙に住んでいた子楚に出会った。呂不韋傳は記す、呂不韋、邯鄲に賈(商用で赴く)しに、見て之を憐れみ、曰く。「此れ奇貨なり居く可し。」と。これが有名な「奇貨居く可し」の出所である。子楚に投資して、安國君の太子にさせ、将来王位につければ、巨額の富を得られると読んで、資金をつぎ込み、それを実現させた。秦の宰相となり、富と権力を手に入れた。しかし秦王政、後の始皇帝が長ずるにつれて、疎んぜられて遂に嫪毐の亂に連座して罪を得て服毒自殺をする。詳細は私のホームページ、http://gongsunlong.we¬b.fc2.com/から『史記』呂不韋傳を参照してください。

三、テキスト、注釈本について
 注釈としてまず第一に挙げられるのは、後漢の高誘の注である。以後は歴代中国でそれほどの評価を得られなかったことにより、注釈本は現れず、長年の間に本文、注釈共に乱れが生じたが、清朝になって考証学の隆盛により、『呂氏春秋』も幾人かの学者によって校訂が試みられれるようになった。その中でも特筆すべきは、清朝乾隆帝時代の学者である畢沅が乾隆五十四年(1789年)に著した『呂氏春秋新校正』である。この書は元・明・清の諸本を参照して校訂を施し、高誘注に補注を加えたものである。これ以後『呂氏春秋』の研究は畢沅本を中心にして進んでいき、1933年に許維遹撰の『呂氏春秋集約』が刊行され、1984年に陳奇猷撰の『呂氏春秋校釈』が刊行された。この二書は共に畢沅の足らざる所を補注した優れた書である。
 今回、『呂氏春秋』の解読にあたっての底本は、台湾中華書局印行による畢沅の『呂氏春秋新校正』である。この本は去年の四天王寺の古本市で300円で購入したものである。台湾中華書局の本は、大陸の中華書局のような句読点や固有名詞の横線などがなく、全くの白文であり、解読にかなり苦労すると思われる。既に解読を終えている『戦国策』も白文だったが、恐らく『呂氏春秋』の方がかなり難物ではないかと思っている。
最後に、この解説を書くに当たって、明治書院の新編漢文選の『呂氏春秋』を参考にさせてもらった。

『孟子』巻第四公孫丑章句下 四十四節、四十五節、四十六節

2017-03-14 10:26:20 | 四書解読
四十四節

孟子は齊を去った。齊の尹士という者がある人に語った、
「うちの王様が殷の湯王や周の武王のような名君になれないことが分からずに来たのだとすれば、人を見る目がないと言えるだろう。なれないことが分かっていながら来たのならば、それは俸禄を目当てに来たのだ。千里もの遠くからわざわざ王にお目にかかりに来て、意見が合わないからと言ってすぐに立ち去り、それでいて晝の町に三日も滞在している。未練がましく何をぐずぐずしているのだ。私はどうも気に入らない。」
それを聞いた弟子の高子が孟子に告げると、孟子は言った、
「あの尹士にどうして私の心が分かるものか。千里の遠くから王様にお会いするためにやって来たのは、私が望んだからだ。しかし意見が入れられないからと言って去るのは、私が望んでしたのではない。しかたがなかったのだ。晝に三日間も滞在したが、それでも私にとっては短すぎると思うくらいである。それというのも、どうか王様に改心してもらいたい。もし王様が改心されたなら、必ず私を呼び戻すために使者を遣わすだろうと思ったからだ。ところが晝を出発してからも追いかけてはこなかった。そこで私はすっきりと帰国する気持ち になったのだ。だがそうだといっても、私にはどうしても王様を見限ることが出来ない。王様はやはり善をなすに足る人物だ。もし王様が私を用いてくださるなら、齊の民が安らぎ得るだけでなく、天下の民が皆安らかに暮らせるようになるだろう。王様、どうか改心して下さいますように。私は日々それを願っているのだ。私はあの小人物のような振る舞いをどうして出来ようか。仕える君を諫めても、聞き入れられないとすぐに怒り、それを顔にあらわし、去るとなると、日の出から日没まで足の続く限りひたすらに歩いてやっと宿をとる。そんなことは私にはとてもできない事だ。」
尹士はこれを伝え聞いて言った、
「いかにも私は小人物だ。」

孟子去齊。尹士語人曰、不識王之不可以為湯武、則是不明也。識其不可然且至、則是干澤也。千里而見王、不遇故去。三宿而後出晝。是何濡滯也。士則茲不悅。
高子以告。曰、夫尹士惡知予哉。千里而見王、是予所欲也。不遇故去、豈予所欲哉。予不得已也。予三宿而出晝、於予心猶以為速。王庶幾改之。王如改諸、則必反予。夫出晝而王不予追也。予然後浩然有歸志。予雖然、豈舍王哉。王由足用為善。王如用予、則豈徒齊民安。天下之民舉安。王庶幾改之。予日望之。予豈若是小丈夫然哉。諫於其君而不受、則怒、悻悻然見於其面。去則窮日之力而後宿哉。尹士聞之曰、士誠小人也。

孟子、齊を去る。尹士、人に語りて曰く、「王の以て湯・武為る可からざるを識らざれば、則ち是れ不明なり。其の不可なるを識りて然も且つ至らば、則ち是れ澤を干むるなり。千里にして王に見え、遇わざるが故に去る。三宿にして而る後に晝を出づ。是れ何ぞ濡滯なるや。士は則ち茲に悅ばず。」高子以て告ぐ。曰く、「夫の尹士は惡くんぞ予を知らんや。千里にして王に見ゆるは、是れ予が欲する所なり。遇わざるが故に去るは、豈に予が欲する所ならんや。予、已むを得ざるなり。予、三宿して晝を出づるも、予が心に於いては猶ほ以て速かなりと為す。王、庶幾わくは之を改めよ。王如し諸を改めば、則ち必ず予を反さん。夫れ晝を出でて、而も王、予を追わざるなり。予然る後浩然として歸志有り。予然りと雖も、豈に王を舍てんや。王由ほ用て善を為すに足れり。王如し予を用いば、則ち豈に徒に齊の民安きのみならんや。天下の民舉な安からん。王庶幾は之を改めよ。予日々に之を望めり。予豈に是の小丈夫の若く然らんや。其の君を諫めて受けられざれば、則ち怒り、悻悻然として其の面に見れ、去れば則ち日の力を窮めて、而る後に宿せんや。」尹士之を聞きて曰く、「士は誠に小人なり。」

<語釈>
○「干澤」、趙注:尹士は齊人なり、「干」は「求」、「澤」は「禄」なり。○「濡滯」、久しく留まる、ぐずぐずしていること。○「浩然」、広大な貌、中井履軒云う、拘束無き意。○「悻悻然」、怒りの現れる貌。○「窮日之力而後宿」、服部宇之吉氏云う、日出より日没まで、日いっぱい行き得るだけ行きて宿泊する義、去るの速やかなるを云う。

<解説>
孟子は齊を去ることに未練があったのだろう。晝に三日間も滞在したのは、齊王が呼び戻すことを期待していたからである。ただ孟子が齊を去り難かったのは何の故かということだ。孟子の言葉をそのまま信ずれば、この当時諸国の王に比べれば齊の宣王はまだましな方で、王道に基づいた政治が出来るのではと期待していたからである。それは本音であろう。いくら何でも孟子が俸禄目当てに齊に来たとは思えない。多少狭小で狡い所があるとしても、それは信じたい。

四十五節

孟子が齊を去った。弟子の充虞がその道の途中で孟子に尋ねた、
「先生は何か面白くない顔つきをしておられますが、以前、私は先生から、『君子はどんなときでも天を怨んだり人を咎めたりしないものだ。』とお聞きしておりますが。
「昔、殷の湯王や周の武王が出現したあの時はあの時、今は今だ。長い歴史を顧みれば大体五百年ごとに王者が現れ、その間には必ず一世に名だたる名臣が出て、王者を補佐するものだ。今、周王朝が興って以来、七百年余りであり、五百年はとうに過ぎている。その年数から考えても、今こそ王者を助けて王道を説く者が現れてしかるべき時だ。しかし天は未だこの乱れた天下に平和をもたらそうとは思っていないようだ。もし天がこの世に平和をもたらそうと思っているなら、今の時代、私以外で誰が王者を補佐してこの乱世に平和をもたらすことが出来ようか。それを思えば、どうして不機嫌になることなどあろうか。」

孟子去齊。充虞路問曰、夫子若有不豫色然。前日虞聞諸夫子。曰:、君子不怨天、不尤人。曰、彼一時。此一時也。五百年必有王者興。其間必有名世者。由周而來、七百有餘歲矣。以其數則過矣。以其時考之則可矣。夫天、未欲平治天下也。如欲平治天下、當今之世、舍我其誰也。吾何為不豫哉。

孟子、齊を去る。充虞、路に問いて曰く、「夫子、不豫の色有るが若く然り。前日、虞、諸を夫子に聞けり。曰く、『君子は天を怨まず、人を尤めず。』」曰く、「彼も一時なり。此も一時なり。五百年にして必ず王者の興る有り。其の間、必ず世に名ある者有り。周由り而來(このかた)、七百有餘歲なり。其の數を以てすれば、則ち過ぎたり。其の時を以て之を考うれば、則ち可なり。夫れ天、未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治せんと欲せば、今の世に當りて、我を舍きて其れ誰ぞや。吾何為れぞ不豫ならん。」

<語釈>
○「不豫色」、「豫」は、楽しむ、悦ぶ。「不豫色」で面白くない顔つきをしていること。○「彼一時。此一時」、趙注は、「彼一時」を昔の聖賢王が出現した時、「此一時」を今の乱れた時代とする。朱注は、「彼一時」を前日、充虞に語った時、「此一時」を今日亦た別に一時なりとする。どちらの説でもよいが、取り敢えず趙注に従って解釈しておく。

<解説>
孟子の自信はたいしたものだ。この時代これぐらいの自信がないと、天下を渉り歩くことはできなかったであろう。特に難解な個所もないので、趙旨を紹介しておく、
「聖賢の興作は、時と與に消息す。天、人に非ずんば因らず、人、天に非ずんば成らず。是の故に命を知る者は、憂えず懼れざるなり。」

四十六節
孟子が齊を去って、休という町に滞在していたとき、弟子の公孫丑が尋ねた。
「君に仕えていながら、禄を受けないというのは、昔からの正しい道なのでしょうか。」
「そうではない。祟という所で、私は齊王にお会いしたが、どうも善政を行うことが出来そうに思えなかったので、退いてからすぐに齊を去る気持ちになった。その意思を変えるつもりはなかったので、禄をお受けしなかったのだ。ところがすぐに去るつもりが、戦争がはじまりそうになって、ごたごたしていた為に、暇乞いすることが出来ず、つい長居してしまったが、それは私の本意ではなかったのである。」

孟子去齊、居休。公孫丑問曰、仕而不受祿、古之道乎。曰、非也。於崇、吾得見王。退而有去志。不欲變。故不受也。繼而有師命。不可以請。久於齊、非我志也。

孟子、齊を去り、休に居る。公孫丑、問いて曰く、「仕えて祿を受けざるは、古の道か。」曰く、「非なり。崇に於いて、吾、王に見ゆるを得たり。退いて去る志有り。變ずるを欲せず。故に受けざるなり。繼いで師命有り。以て請う可からず。齊に久しきは、我が志に非ざるなり。」

<語釈>
○「師命」、趙注:師旅の命。軍隊を動かす命令の意で、戦争を始めようとしている事。

<解説>
この節と前節とでは、孟子の齊王に対する評価が違っている。前節の齊王は宣王であるが、この節の齊王は宣王ではないのかもしれない。
内容的に特に解説することはないので、趙旨を紹介しておく。
「禄は以て功に食み、志は以て事に率う。其の事無くして、其の禄を食むは、君子由らざるなり。」

『孟子』巻第四公孫丑章句下 四十二節、四十三節

2017-03-03 12:57:08 | 四書解読
四十二節

孟子は齊の卿を辞任して屋敷に戻ってきた。齊王は出来れば引き留めたいと思い、わざわざ孟子の屋敷まで訪ねて行き、言った、
「以前から先生にお目にかかりたいと思いながらかないませんでしたが、それもかない朝廷で先生に侍すことが出来るようになり、大変喜んでおりました。それなのに今、先生は私を見捨ててお帰りになる。どうだろうか、この先もお目にかかることが出来るのだろうか。」
答えて言った、
「敢て私からお願いしなかっただけのことで、当然私もその事を願っております。」
後日、王は臣下の時子に言った、
「私は都の中央に孟子に屋敷を授け、弟子を養い教育するために萬鍾の禄を与え、大夫たちや人民が先生を敬い模範とするようにさせたいのだ。お前はこの事を私に代わって孟先生に告げてくれぬか。」
時子は孟子の弟子の陳臻に、王の言葉を孟子に伝えてもらった。陳臻は時子の言葉を孟子に伝えた。孟子は言った、
「そのとおりだろう。だがあの時子などには、私がどうして齊を去るのか分からないだろう。私が富を欲しているとでも思っているのだろう。私は大道を以て王様に政を説いてきたが行われることがなかった。それで十萬鍾の俸禄を辭して去るのだ。今新たに一萬鍾の禄を得てお仕えしようとは思わない。だから私が富を欲しているとは言えまい。曾て季孫が言ったことがある、『子叔疑はおかしな男だなあ。始め主君に執り上げられて政治に参与したのだから、用いられなくなれば、辞職すればよいのだ。それを又自分の子弟を後任に据えてしまった。人は誰でも富貴を望まない者はいないだろう。ただ彼の行いは富貴に留まって、個人的に利益を独り占めにする者だ。』昔の市場というものは、自分の持っている物と持っていない物とを交換する場所であり、役人はそれを監督するだけであった。ところが貪欲で卑しむべき男があらわれて、利益を独占しようとして高台に登り、右に左に市場を見渡し、儲かりそうな所が有れば、飛んでいって利益を独り占めした。人々はその貪欲さを卑しみ、役人も遂にその男から税を徴収した。商人に課税するようになったのは、この下劣な男から始まったという。」

孟子致為臣而歸。王就見孟子、曰、前日願見而不可得。得侍同朝甚喜。今又棄寡人而歸。不識、可以繼此而得見乎。對曰、不敢請耳。固所願也。他日王謂時子曰、我欲中國而授孟子室、養弟子以萬鍾、使諸大夫國人皆有所矜式。子盍為我言之。時子因陳子而以告孟子。陳子以時子之言告孟子。孟子曰、然。夫時子惡知其不可也。如使予欲富、辭十萬而受萬。是為欲富乎。季孫曰、異哉子叔疑。使己為政。不用、則亦已矣。又使其子弟為卿。人亦孰不欲富貴。而獨於富貴之中、有私龍斷焉。古之為市也、以其所有易其所無者。有司者治之耳。有賤丈夫焉。必求龍斷而登之、以左右望而罔市利。人皆以為賤,故從而征之。征商、自此賤丈夫始矣。

孟子、臣為るを致して歸る。王就いて孟子を見て曰く、「前日、見んことを願いて得可からず。同朝に侍するを得て甚だ喜べり。今、又寡人を棄てて歸る。識らず、以て此に繼いで見るを得可きか。」對えて曰く、「敢て請わざるのみ。固より願う所なり。」他日、王、時子に謂いて曰く、「我、中國にして孟子に室を授け、弟子を養うに萬鍾を以てし、諸大夫國人をして、皆矜式する所有らしめんと欲す。子盍ぞ我が為に之を言わざる。」時子、陳子に因りて以て孟子に告げしむ。陳子、時子の言を以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「然り。夫の時子惡くんぞ其の不可なるを知らんや。如し予をして富を欲せしめば、十萬を辭して萬を受く。是れ富を欲すと為さんか。季孫曰く、『異なるかな子叔疑。己をして政を為さしむ。用いられざれば則ち亦た已まん。又其の子弟をして卿為らしむ。人亦た孰か富貴を欲せざらん。而して獨り富貴の中に於いて、龍斷を私する有り。』古の市為るや、其の有る所を以て其の無き所に易う者なり。有司は、之を治むるのみ。賤丈夫有り。必ず龍斷を求めて之に登り、以て左右望して市利を罔せり。人皆以て賤しと為す。故に從って之を征す。商を征するは、此の賤丈夫自り始まる。」

<語釈>
○「致為臣而歸」、趙注:齊の卿を辭して其の室に歸る。○「王就」、「就」は訪問する意。○「中国」、本来は中原の諸国を指すが、ここでは都の中央の意。○「萬鍾」、朱子云う、鍾は量の名なり。○「矜式」、朱注:矜は敬なり、式は法なり。敬って模範とすること。○「孟子曰、然。夫時子惡知其不可也。~」、この孟子の語は、解釈の分かれる所である。私は趙注の、「我往き、十萬鍾の禄を饗く、大道行われざるを以ての故に去る。」を重視して、通釈のように解釈した。○「異哉子叔疑」、趙注は、異なるかな、子叔疑うと読み、季孫・子叔は孟子の弟子とするが、朱注は、異なるかな子叔疑と読む。朱注に從う。○「龍斷」、利益を壟断するという言葉の出典である。「龍」は、「壟」に通じ、高い所、丘、「斷」は断崖、小高い丘で左右が見渡せる場所、利益を独り占めにする意味に使われるが、それは下文に因るものである。○「賤丈夫」、趙注:賤丈夫は、貪人にして卑しむべき者。○「罔」、「網」に同じ、網羅する意。○「征」、「税」に同じ。

<解説>
「壟断」という言葉は、ここから始まった。それ以外特に解説する余地はない。

四十三節

孟子は齊の都を去り、それほど遠くない晝という町に泊まった。すると王の為に孟子を引き留めようとする者がやってきた。孟子の前に座り込んで説得した。ところが孟子は答えもせずに、脇息にもたれて居眠りの態であった。客は気分を悪くして立ち上がって言った、
「私は一晩齋して身を清めて、先生にお願いを申し上げました。ところが先生は居眠りをして聞こうともして下さいません。もう二度とお目にかかりますまい。」
孟子は言った、
「まあ座りなさい。はっきりとあなたに説明しましょう。昔、魯の繆公は常に自分の代わりに人を子思の下ににつかわせた。そうしないと子思を安心させることが出来なかったのであり、賢人で知られる泄柳・申詳も繆公の側に信用のできる取次ぎの人がいたからこそ、安心しておられたのである。あなたは、この年寄りの為に気を使って下さるが、子思の為に繆公に説いた時の賢人に及ばない。これはあなたがこの老人と縁を絶つのか、それともこの年寄りがあなたと縁を絶つのか、どちらでしょうか。」

孟子去齊、宿於晝。有欲為王留行者。坐而言。不應。隱几而臥。客不悅曰、弟子齊宿而後敢言。夫子臥而不聽、請勿復敢見矣。曰、坐。我明語子。昔者魯繆公無人乎子思之側、則不能安子思。泄柳申詳無人乎繆公之側、則不能安其身。子為長者慮、而不及子思。子絕長者乎、長者絕子乎。

孟子、齊を去り、晝に宿す。王の為に行を留めんと欲する者有り。坐して言う。應えず。几に隱りて臥す。客悅ばずして曰く、「弟子齊宿して後敢て言う。夫子臥して聽かず。請う復び敢て見ゆること勿らん。」曰く、「坐せよ。我明らかに子に語げん。昔者、魯の繆公は、子思の側に人無ければ、則ち子思を安んずる能わず。泄柳・申詳は、繆公の側に人無ければ、則ち其の身を安んずる能わず。子、長者の為に慮りて、子思に及ばず。子、長者を絶つか、長者、子を絶つか。」

<語釈>
○「弟子」、本当の弟子で無く、相手を敬い、自分の事を謙遜して言っている言葉。○「齊宿」、趙注は、「齊」は「敬」、「宿」は「素」として、平素から尊敬しておりますと解し、朱注は、「齊」は「戒」、「宿」は「越」として、齋して一晩過ごしたと解す。尚『礼記』には、三日宿す、という言葉が有り、三日齋したと解する説もある。朱注と一晩を採用する。○「子思」、孔子の孫。○「不及子思」、服部宇之吉氏云う、不及子思は、子思の時の賢人が、繆公に説いて子思を信ぜしめたるに如かずとの意。

<解説>
この節もどうも釈然としない。孟子がへそを曲げて難癖をつけているような気がする。次節とも関係があるようなので、詳しくは次節の解説で述べたい。