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『史記』韓長孺列伝

2019-11-25 10:46:16 | 四書解読
御史大夫韓安國は、梁の成安の人なり。後、睢陽に徙る。嘗て韓子・雜家の說を騶の田生の所に受く。梁の孝王に事えて中大夫と為る。呉楚反する時、孝王、安國及び張羽をして將と為し、呉の兵を東界に捍(ふせぐ)がしむ。張羽は力戰し、安國は持重(自重に同じ。慎重にする)す。故を以て呉、梁を過ぐること能わず。呉楚已に破れ、安國・張羽の名此れ由り顯わる。梁の孝王は、景帝の母弟なり。竇太后之を愛し、自ら請いて相二千石を置くを得しむ。出入游戲、天子に僭す。天子之を聞きて、心に善しとせざるなり。太后、帝の善しとせざるを知るや、乃ち梁の使者を怒りて、見ず。王の為す所を案責す。韓安國、梁の使いと為り、大長公主に見えて泣きて曰く、「何ぞ梁王は人子為るの孝あり、人臣為るの忠あるに、太后曾て省みざるや。夫れ前日呉・楚・齊・趙の七國反せし時、關自り以東皆合從して西に鄉う。惟だ梁のみ最も親しく艱難を為す。梁王、太后と帝との中に在りて(正義:關中を謂うなり)、諸侯擾亂するを念い、一言して泣數行下る。跪きて臣等六人を送り、兵に將として撃ちて呉楚を卻く。呉楚故を以て兵敢て西せずして、卒に破亡するは、梁王の力なり。今太后小節苛禮を以て梁王を責望す(索隠:案ずるに、苛細小禮以て之を責むるを謂う)。梁王の父兄は皆帝王なり。見る所の者は大なり。故に出づるに蹕を稱し(「蹕」(ヒツ)は天子が出かける時の先払い)、入るに警(蹕に同じ、先払いの意)を言う。車旗は皆帝の賜う所なり。即ち以て鄙縣に侘(ほこる)り、國中に驅馳して、以て諸侯に夸り、天下をして盡く太后と帝との之を愛するを知らしめんと欲するなり。
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『孫子』巻十二火攻篇

2019-11-19 10:42:37 | 四書解読
巻十二 火攻篇
孫子言う。およそ火攻めには次の五つの方法がある。第一は敵の営舎を焼いて人に損害を与えることであり、第二は食糧などの物資の集積所を焼くことであり、第三は武器や食料などを積んでいる輜重車を焼くことであり、第四は武器や食料を蔵めている営舎の庫を焼くことであり、第五は敵の兵器を焼くことである。火攻めを行うにはその時々に応じた適切な条件があり、その為の道具や材料は必ず準備しておかねばならない。敵に放火するには適切な時があり、日がある。適切な時とは、天候が乾燥している時であり、適切な日とは、月が箕・壁・翼・軫の四星座に宿る日のことである。およそ月がこの四星座に在るときは風が起こりやすい日である。およそ火攻めは先に述べた五つの方法の変化に適切に応じなければならない。敵陣で火の手が上がればそれに乗じて速やかに攻撃すべきである。しかし火の手が上がっているにもかかわらず敵陣が静かな時はしばらく様子を見て、むやみに攻めてはいけない。その火力が最高になるのを待って、敵の動きに合わせて攻めるべき時は攻め、退くべきときは退く。敵陣の外側が火を放つのに適していれば、敵の内部の対応などを待たずに、適当な時期を選んで火を放てばよい。風上から敵に向かって火を放てば、風下から敵を攻めてはいけない。何故なら敵は火を背にするから必死の覚悟で応戦するからである。昼の風は吹き続けるが、夜の風はすぐに止むことを知っておかなければいけない。およそ戦争を行うには、五種類の火攻めの変化を知り、その変化に応じて我が軍を守ることが大切である。だから火攻めを以て敵を攻める一助とすれば明白に敵に勝つことが出来る。水攻めを以て敵を攻める一助とすれば補給路を断つなど敵を分散させ、敵の勢力を弱めこちらの勢力を強くする。水攻めは敵の糧道を絶ち敵を分散させることはできるが、敵が既に貯えているものに損害を与えることはできない。戦いに勝ち攻め取ろうとするなら、それだけ効果のある事、火攻めや水攻めを行ってその条件を作り出すことである。何もせずに有利な条件を待っているのは凶害であり、無駄に国費を費やし軍を衰えさせるだけになる。だから次のように言われている、賢明な君主は戦いの大本を考え、すぐれた将軍は戦功を正しく行う、と。明主賢将は、有利でなければ動かず、勝を得ることが確実でなければ兵を用いず、危険が迫り戦わざるを得なくならなければ戦わない。君主は一時の怒りによって軍を起こしてはいけない。将軍は一時の怒りによって戦いを始めてはいけない。戦いの結果が利益をもたらすのであれば戦い、もたらさなければ戦うべきではない。現れた怒りはやがて喜びに代わり、心中の怒りもやがて心から喜べるようになるが、亡んだ国は二度と存立しないし、死者は二度と生き返ることはできない。だから名君は軍を起こすことは慎重にし、すぐれた将軍は軽々しく戦う事を戒める。これが国を安全にして軍を損なわない方法である。

孫子曰、凡火攻有五。一曰火人、二曰火積、三曰火輜、四曰火庫、五曰火隊。行火必有因。煙火必素具。發火有時。起火有日。時者、天之燥也。日者、月在箕壁翼軫也。凡此四宿者、風起之日也。凡火攻、必因五火之變而應之。火發于内、則早應之于外。火發而其兵靜者、待而勿攻。極其火力、可從而從之、不可從而止。火可發于外、無待于内、以時發之。火發上風、無攻下風。晝風久、夜風止。凡軍必知有五火之變、以數守之。故以火佐攻者明。以水佐攻者強。水可以絶、不可以奪。夫戰勝攻取、而不修其功者凶。命曰費留。故曰、明主慮之、良將修之。非利不動、非得不用、非危不戰。主不可以怒而興師、將不可以慍而致戰。合于利而動、不合于利而止。怒可以復喜、慍可以復悅。亡國不可以復存、死者不可以復生。故明君慎之、良將警之。此安國全軍之道也。

孫子曰く、凡そ火攻に五有り。一に曰く、人を火く(注1)、二に曰く、積を火く(注2)、三に曰く、輜を火く、四に曰く、庫を火く(注3)、五に曰く、隊を火く(注4)。火を行うに必ず因ること有り。煙火は必ず素より具う(注5)。火を發するに時有り。火を起すに日有り。時とは、天の燥けるなり。日とは、月の箕・壁・翼・軫に在るなり。凡そ此の四宿は、風起るの日なり。凡そ火攻は、必ず五火の變に因りて之に應ず。火内に發すれば、則ち早く之に外に應ず(注6)。火發して其の兵靜かなる者は、待ちて攻むる勿れ。其の火力を極めて、從う可ければ之に從い、從う可からざれば止めよ。火外に發す可くんば、内に待つこと無くして、時を以て之を發せよ(注7)。火上風に發すれば、下風を攻むる無かれ。晝風は久しく、夜風は止む。凡そ軍は必ず五火の變有るを知り、數を以て之を守る。故に火を以て攻を佐くる者は明なり(注8)。水を以て攻を佐くる者は強なり(注9)。水は以て絶つ可く、以て奪う可からず(注10)。夫れ戰い勝ち攻め取らんとして、其の功を修めざるは凶なり。命づけて費留と曰う(注11)。故に曰く、明主は之を慮り、良將は之を修む(注12)。利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、危に非ざれば戰わず、と。主は怒を以て師を興す可からず、將は慍りを以て戰いを致す可からず。利に合いて動き、利に合わずして止む。怒りは以て喜びに復る可く、慍りは以て悅びに復る可し(注13)。亡國は以て存に復る可からず、死者は以て生に復る可からず。故に明君は之を慎み、良將は之を警む。此れ國を安んじ軍を全うするの道なり。

<語釈>
○注1、十注:李筌曰く、其の營を焚き、其の士卒を殺すなり。○注2、十注:李筌曰く、積聚を焚くなり。○注3、○十注:杜牧曰く、器械財貨及び軍士の衣装の車中に在り、道の上に未だ止まらざるを輜と曰い、城に在り塁に營し、已に止舎に在るを庫と曰う、其の藏する所は二者皆同じ。○注4、十注:李筌曰く、其の隊の仗兵器を焼く。○注5、十注:曹公曰く、煙火は、燒具なり。火を熾す道具類。○注6、十注:李筌曰く、火勢に乘じて之に應ず。○注7、十注:杜牧曰く、上文に云う、五火の變は内より發するを須つ、若し敵、荒澤草穢、或いは營柵の焚く可きの地に居れば、即ち須らく時に及び火を發す可し。○注8、十注:梅堯臣曰く、明白に勝ち易し。○注9、十注:張預曰く、水は能く敵の軍を分かつ、彼の勢い分るれば、則ち我が勢い強し。○注10、十注:杜牧曰く、水は敵の糧道を絶ち、敵の救援を絶ち、敵の奔逸を絶ち、敵の衡撃(横からの攻撃)を絶つ可きも、以て久しく険要・蓄積を奪う可からず。○注11、十注:梅堯臣曰く、戰いて必ず勝ち、攻めて必ず取らんと欲する者は、時に因り便に乘じて、能く功を作為するに在り、功を作為するとは、火攻水攻の類を修むるなり、坐してその利を守る可からず、坐して其の利を守るは、凶なり、是を費留と謂う。○注12、十注:張預曰く、君は當に攻戰の事を謀慮すべし、将は當に尅捷の功を修舉すべし。○注13、十注:張預曰く、色に見わるる者は之を喜と謂い、心に得る者は之を悦と謂う。これにより怒は顔に顕れた怒り、慍は心中の怒りと解釈する。

<解説>
この篇は火攻めについて述べている。火攻めには五種類があり、その為の道具類を完備しておき、日時を選び、五種類の火攻めによるそれぞれの変化に適切に対応することを要点として挙げている。これらが「故曰」までの内容であり、「故曰」以下は、火攻めの内容とは結び付かないので、錯簡であろうと言われている。

『孟子』巻第十四盡心章句下 二百六十節 最終回

2019-11-12 10:39:58 | 四書解読
今回をもって長きにわたった『孟子』の解読も最終回を迎えることができました。永らくおつきあいくださった皆様方に深く感謝いたします。
『孟子』が終われば、次は当然『論語』と言うことになります。『論語』に関しては多くの書物があり、今更私が解読するようなことは何もないと思うのですが、できる限り多くの人に分かりやすく理解しやすいものにしたいと思っています。引き続きおつきあいのほどをよろしくお願いします。

二百六十節

孟子は言った。
「堯・舜から殷の湯王までは五百年。夏の禹王や舜の家臣であった皋陶などは、堯・舜の徳を直接見て知っており、湯王などは伝え聞いて知ったのである。湯王から周の文王までは五百年。湯王の家臣であった伊尹・萊朱などは、湯王の徳を直接見て知っており、文王などは、伝え聞いて知ったのである。文王より孔子までは五百年。文王の家臣であった太公望や散宜生などは、文王の徳を直接見て知っており、孔子などは、伝え聞いて知ったのである。孔子から今の時代までは百年。聖人孔子の時代からはそれほど遠く経っていない。また孔子が住んでいた魯の地は、私の故郷である鄒とはこんなにも近いのである。それにもかかわらず、私が孔子の徳を知らないとするならば、後世それを伝え聞き知る者もいなくなってしまうだろう。だから私は孔子の徳を述べるのだ。」

孟子曰、由堯舜至於湯、五百有餘歲。若禹皋陶、則見而知之。若湯、則聞而知之。由湯至於文王、五百有餘歲。若伊尹萊朱則見而知之。若文王、則聞而知之。由文王至於孔子、五百有餘歲。若太公望・散宜生、則見而知之。若孔子、則聞而知之。由孔子而來至於今、百有餘歲。去聖人之世、若此其未遠也。近聖人之居、若此其甚也。然而無有乎爾、則亦無有乎爾。

孟子曰く、「堯舜由り湯に至るまで、五百有餘歲。禹・皋陶の若きは、則ち見て之を知る。湯の若きは、則ち聞きて之を知る。湯由り文王に至るまで、五百有餘歲。伊尹・萊朱の若きは、則ち見て之を知る。文王の若きは、則ち聞きて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有餘歲。太公望・散宜生の若きは、則ち見て之を知る。孔子の若きは、則ち聞きて之を知る。孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」

<語釈>
○「皋陶」、舜の家臣、刑罰を司る官になった。○「伊尹・萊朱」、共に湯王の賢臣。○「太公望・散宜生」、共に文王の賢臣。○「聖人之居」、孔子が住んでいた魯の国を指す。○「無有乎爾、則亦無有乎爾」、朱注:林氏曰く、孟子言う、孔子より今に至るまでの時未だ遠からず、鄒・魯相去ること又近し、然り而して已に見て之を知る者無くんば、則ち五百餘歳の後、又豈に復た聞きて之を知る者有らんや、と。これ以外の解釈もあるが、これを採用する。

<解説>
『孟子』の最終節である。それにふさわしく、聖人孔子の道を伝える決意を示している。服部宇之吉氏云う、「孟子、孔子に事うるに及ばざりしが、私に孔子に淑し、其の志を継ぎ先王の道を天下に行わんと欲し、東西奔走して而かも遂に其の志を得ず、乃ち弟子萬章等と共に此書を撰し、道を後世に期せんとしたり、此章は道の行われざるを三歎し、以て其の志を示す。」当に『孟子』を締めくくるにふさわしい解説である。私が付け加えることは何もない。

『孟子』巻第十四盡心章句下 二百五十九節

2019-11-08 10:28:11 | 四書解読
二百五十九節

弟子の萬章が孟子に尋ねて言った。
「孔子が陳の国で困窮したとき、故郷の魯に思いをはせて、『さあ、帰ろう。我が故郷の人たちは、志は大きいが、物事に対しては疎略で、大道を行うことを望みながら、道を得ることが出来ずにいる。そんな昔の仲間を忘れることが出来ない。』と言われたそうですが、孔子は陳の国にいながら、どうして魯の疎略な連中に思いを寄せたのでしょうか。」
孟子は言った。
「孔子は、『中庸の道を得た人と共にすることが出来ないなら、せめてがむしゃらに突き進む狂者か、保守的である獧者を選ぼう。狂者は積極的であり、獧者は保守的であるが、不善を為さない者である。』と考えたのだ。孔子がどうして中庸を得た者を求めないことがあろうか。ただそれが必ず見つかるとは限らないから、その次の狂獧の人たちを思ったのだ。」
「是非ともお尋ねしたいのですが、どのような人物を狂者と言うのでしょうか。」
「琴張・曾皙・牧皮のような人物は、孔子が狂者とする所の者だ。」
「どうして彼らを狂者と言うのですか。」
「志は大きいが、言うことも大きく、古の人、古の人、と常に古の聖人を引き合いに出すが、その行いを公平に考察すれば、その言葉通りの行いがなされていない。それが狂者というものだが、こんな狂者でもなかなか見つけることはできない。だから不潔な行いを潔しとしない人を探し出して、行動を共にしたいと願うわけで、これが獧者であり、狂者の次に来る者だ。」
「孔子は、『私の門前を通り過ぎながら、私の部屋に入った来なくとも、いっこうに残念だと思わない人は、郷原だけであろう。郷原は徳を残うものである。』と言われましたが、どういうのを郷原と言ってよいのですか。」
「郷原は、狂者を非難して、『どうしてあのように、志も言葉も大きいだけで、言葉に実行が伴わず、実行に言葉が伴わなず、ただ古の人、古の人と言うだけなのか。』評し、又獧者にたいしては、『どうして人と親しまず、何事も一人で行動するのだ。人としてこの世に生まれたら、人としてこの世に生き、世間から善く思われれば、それでよいのではないか。』と評す。本心を隠して世に媚びる者、それが郷原なのだ。」
萬章が言った。
「村中の人が、あの人は慎み深い言えば、どこへ行っても慎み深い人だと言われるでしょう。それなのに孔子が徳の賊だとされたのは、どうしてでしょうか。」
「これを非難しようとしても非難する所が無く、これを謗ろうとしても謗る所がない。堕落した世俗の流れにのり、汚れた世に合わせ、身の処し方は忠信に似ており、その行動は清廉潔白に見え、人々は皆その人に好感を寄せる。そして自分でもそれが正しいと思い込んでいるが、とてもではないが、この様な人間と堯舜の伝える真の道に入ることは出来ない。だからこれを徳の賊と呼んだのだ。孔子は、『表面上は似ているが、根本は全く異なっているものを憎む。たとえば莠を憎むのは、表面上は似ているのに、その実は苗に害を及ぼすからであり、口先だけの偽善者を憎むのは、それが義との区別を紛らわしくさせるからであり、口先だけが達者な人間を憎むのは、真実を紛らわせるからであり、淫靡な鄭の音楽を憎むのは、正しい古典音楽に紛らわしいからであり、紫色を憎むのは、純粋な朱色との区別を紛らわしくさせるからである。それらと同様に郷原を憎むのは、真に徳のある者との区別を紛らわしくさせるからである。』と言われた。君子たる者は、万世変わることのない常道に立ち返るだけである。常道さえ正しければ、庶民はいっせいに立ち上がる。庶民が立ち上がりさえすれば、郷原のようなまやかしの邪悪は無くなってしまうのだ。」

萬章問曰、孔子在陳曰、盍歸乎來。吾黨之士狂簡進取。不忘其初。孔子在陳、何思魯之狂士。孟子曰、孔子不得中道而與之、必也狂獧乎。狂者進取、獧者有所不為也。孔子豈不欲中道哉。不可必得。故思其次也。敢問何如斯可謂狂矣。曰、如琴張曾皙牧皮者、孔子之所謂狂矣。何以謂之狂也。曰、其志嘐嘐然。曰古之人、古之人、夷考其行、而不掩焉者也。狂者又不可得。欲得不屑不潔之士而與之。是獧也。是又其次也。孔子曰、過我門而不入我室、我不憾焉者、其惟鄉原乎。鄉原、德之賊也。曰、何如斯可謂之鄉原矣。曰、何以是嘐嘐也。言不顧行、行不顧言。則曰古之人、古之人。行何為踽踽涼涼。生斯世也、為斯世也。善斯可矣。閹然媚於世也者、是鄉原也。萬子曰、一鄉皆稱原人焉。無所往而不為原人。孔子以為德之賊、何哉。曰、非之無舉也、刺之無刺也。同乎流俗、合乎汙世。居之似忠信、行之似廉潔。衆皆悅之、自以為是、而不可與入堯舜之道。故曰德之賊也。孔子曰、惡似而非者。惡莠、恐其亂苗也。惡佞、恐其亂義也。惡利口、恐其亂信也。惡鄭聲、恐其亂樂也。惡紫,恐其亂朱也。惡鄉原、恐其亂德也。君子反經而已矣。經正、則庶民興。庶民興、斯無邪慝矣。

萬章問いて曰く、「孔子、陳に在りて曰く、『盍ぞ歸らざる。吾が黨の士は、狂簡にして進取なり。其の初めを忘れず。』孔子、陳に在りて、何ぞ魯の狂士を思うや。」孟子曰く、「孔子は、『中道を得て之に與せずんば、必ずや狂獧か。狂者は進んで取り、獧者は為さざる所有るなり。』と。孔子豈に中道を欲せざらんや。必ずしも得可からず。故に其の次を思うなり。」「敢て問う何如なれば斯に狂と謂う可き。」曰く、「琴張・曾皙・牧皮の如き者は、孔子の所謂狂なり。」「何を以て之を狂と謂うや。」曰く、「其の志嘐嘐(コウ・コウ)然たり。古の人、古の人と曰うも、其の行いを夷考すれば、焉を掩わざる者なり。狂者又得可からず、不潔を屑(いさぎよし)しとせざるの士を得て、之に與せんと欲す。是れ獧なり。是れ又其の次なり。」「孔子曰く、『我が門を過ぎて我が室に入らざるも、我焉を憾みざる者は、其れ惟だ鄉原か。鄉原は、德の賊なり。』」曰く、「何如なれば斯に之を鄉原と謂う可き。」曰く、「『何を以て是れ嘐嘐たるや。言は行いを顧みず。行いは言を顧みず。則ち古の人、古の人と曰う。行い何為れぞ踽踽(ク・ク)涼涼たる。斯の世に生まれては斯の世を為す。善せらるれば斯に可なり。』と。閹然として世に媚ぶる者は、是れ鄉原なり。」萬子曰く、「一鄉皆原人と稱す。往く所として原人為らざる無し。孔子以て德の賊と為すは、何ぞや。」曰く、「之を非るに舉ぐべき無く、之を刺(そしる)るに刺るべき無し。流俗に同じくし、汙世に合す。之に居ること忠信に似、之を行うこと廉潔に似たり。衆皆之を悅び、自ら以て是と為すも、而も與に堯舜の道に入る可からず。故に德の賊と曰う。孔子曰く、『似て非なる者を惡む。莠(ユウ)を惡むは、其の苗を亂るを恐るればなり。佞を惡むは、其の義を亂るを恐るればなり。利口を惡むは、其の信を亂るを恐るればなり。鄭聲を惡むは、其の樂を亂るを恐るればなり。紫を惡むは、其の朱を亂るを恐るればなり。鄉原を惡むは、其の徳を亂るを恐るればなり。』君子は經に反るのみ。經正しければ、則ち庶民興る。庶民興れば、斯に邪慝無し。」

<語釈>
○「狂簡進取」、朱注:「狂簡」は、志大にして事に略なるを謂う、「進取」は、求望高遠を謂う。○「不忘其初」、趙注:「不忘其初」とは、孔子、故舊を思うなり。○「狂獧」、服部宇之吉氏云う、「狂は過、獧(ケン)は不及、共に中道を逸す。○「嘐嘐然」、趙注:「嘐嘐」(コウ・コウ)は、志大、言大なる者なり。○「夷考」、趙注:「夷」は平なり。公平に考察すること。○「屑」、趙注:「屑」は、絜なり。○「過我門而不入我室」、趙注:人、孔子の門を過りて、入らざれば、則ち孔子之を恨む、獨り郷原の入らざる者は、恨むの心無きのみ、其の徳を賊うを以ての故なり。○「鄉原」、朱注:「原」は「愿」と同じ、謹愿の人を謂う。「謹愿」は謹み深いことだが、『字通』に洗練されない田舎者の頑固さを郷愿と謂うとある。こちらの意味が強い。○「踽踽涼涼」、朱注:「踽踽涼涼」は、親厚する所無し。踽踽(ク・ク)は、独行の意、ひとりで歩み、人と親しまないこと。○「閹然」、本心を隠して世に媚びること。○「莠」、音はユウ、はぐさ、苗を害する草。○「利口」、朱注:「利口」は、多言にして實あらざる者なり。○「經」、朱注:「經」は常なり、萬世不易の常道なり。

<解説>
この節から、孔子の人間性がよく分かる。教条主義に捉われることなく柔軟性に富んだものの考え方。ここに孟子には無い孔子の優れた特性がある。中庸の道を貴びながらも、現実問題として、そのような人物は極めて少ないので、その次に在る狂獧の者を大切にするのである。狂獧とは根本は似ているが、表面は異なっている者で、「似而非者」は表面は似ているが、根本は異なっている者である。孔子はこの「似而非者」を徳を乱す者として最も憎んだ。このことは『論語』でも述べられている。このことは又何事も根本が大切で、ここさえ押さえていれば、表面上のことは何とかなるものであるということをも教えている。

『孟子』巻第十四盡心章句下 二百五十七節、二百五十八節

2019-11-02 10:28:26 | 四書解読
二百五十七節
孟子は言った。
「心を養うには、欲を少なくするに勝るものはない。その人が欲の少ない性格であれば、たとえ徳が備わっていなくとも、それはほんのわずかで、大したことではない。その人が欲の多い性格であれば、たとえ徳を備えていても、それはほんのわずかなものである。」

孟子曰、養心、莫善於寡欲。其為人也寡欲、雖有不存焉者、寡矣。其為人也多欲、雖有存焉者、寡矣。

孟子曰く、「心を養うは、寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も、寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も、寡し。」

<解説>
無欲である必要はないが、欲に目を奪われてはいけないということである。老子などは無欲を主張している。

二百五十八節
曾子の父の曾皙は黒棗が好きだった。父の死後、曾子は黒棗を見ると父を思い出すので、それを食べるのに忍びなかったと言う。それについて公孫丑は尋ねた。
「膾や焼き肉と黒棗とはどちらが美味しいでしょうか。」
孟子は言った。
「膾や焼き肉だよ。」
公孫丑は言った。
「それならば父の曾皙も膾や焼き肉を食べていたはずなのに、どうして黒棗だけが父を思い出して食べるのに忍びなかったのでしょうか。」
「膾や焼き肉は誰もが好物とするものだが、黒棗は曾皙一人が好んだものだ。それは君や親の名は忌んで口にしないが、姓は忌まないのと同じである。姓は多くの人が共有するが、名は特定の人だけのものだからである。」

曾皙嗜羊棗。而曾子不忍食羊棗。公孫丑問曰、膾炙與羊棗孰美。孟子曰、膾炙哉。公孫丑曰、然則曾子何為食膾炙而不食羊棗。曰、膾炙所同也、羊棗所獨也。諱名不諱姓、姓所同也、名所獨也。

曾皙、羊棗を嗜む。而して曾子、羊棗を食らうに忍びず。公孫丑問いて曰く、「膾炙と羊棗とは孰れか美き。」孟子曰く、「膾炙なるかな。」公孫丑曰く、「然らば則ち曾子は何為れぞ膾炙を食らいて、羊棗を食らわざる。」曰く、「膾炙は同じうする所なるも、羊棗は獨りする所なればなり。名を諱みて姓を諱まざるは、姓は同じうする所なるも、名は獨りする所なればなり。」

<語釈>
○「曾皙」、曾子の父。○「羊棗」、棗の一種で黒棗。○「膾炙」、膾と焼き肉。

<解説>
特に解説することはない。