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『史記』黥布列伝

2018-03-30 10:16:43 | 四書解読
黥布列伝
黥布は、六の人なり。姓は英氏。秦の時、布衣為り。少年のとき客有り、之を相して曰く、「當に刑せられて王たるべし。」壯に及びて、法に坐し黥せらる。布欣然として笑いて曰く、「人、我を相し、當に刑せられて王たるべしとす。幾んど是れか。」人、聞く者有り。共に之を俳笑(索隠:衆共に俳優の輩を以て之を笑うを謂う。からかい笑う意)す。布已に論ぜられて麗山に輸らる。麗山の徒數十萬人。布、皆其の徒の長豪桀と交通す。廼ち其の曹偶を率い(索隠:曹は、輩なり、偶は、類なり、徒輩の類を謂う)、亡げて江中に之き群盜を為す。陳勝の起こるや、布廼ち番君に見え、其の衆と秦に叛き、兵數千人を聚む。番君、其の女を以て之に妻わす。章邯の陳勝を滅ぼし、呂臣の軍を破るや、布乃ち兵を引きて北し、秦の左右校(校尉)を撃ち、之を清波に破り、兵を引きて東す。項梁が江東の會稽を定め、江を渉りて西するを聞き、陳嬰、項氏が世々楚の將為るを以て、廼ち兵を以て項梁に屬し、淮南を渡る。英布・蒲將軍も亦た兵を以て項梁に屬す。項梁、淮を渉りて西し、景駒・秦嘉等を撃つ。布、常に軍に冠たり。項梁、薛に至り、陳王定(まさに)に死せりと聞き、迺ち楚の懷王を立つ。項梁號して武信君と為り、英布を當陽君と為す。項梁敗れて定陶に死す。懷王、都を彭城に徙す。諸將英布も亦た皆彭城に保聚す。是の時に當り、秦急に趙を圍む。趙數々人をして救いを請わしむ。懷王、宋義をして上將と為し、范曾を末將と為し、項籍を次將と為し、英布・蒲將軍皆將軍と為り、悉く宋義に屬し、北のかた趙を救わしむ。項籍、宋義を河上に殺すに及び、懷王因りて籍を立てて上將軍と為す。諸將皆項籍に屬す。項籍、布をして先づ河を渡り秦を撃たしむ。布數々利有り。籍迺ち悉く兵を引き、河を渉りて之に從い、遂に秦の軍を破り、章邯等を降す。楚の兵常に勝ち、功、諸侯に冠たり。
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『呂氏春秋』巻第十九離俗覧

2018-03-26 14:45:14 | 四書解読

巻十九 離俗覽

一 離俗

一に曰く。世の足らざる所の者は、理義なり。餘り有る所の者は、妄苟(理義を尊ばないこと)なり。民の情、足らざる所を貴び、餘り有る所を賤しむ。故に布衣人臣の行い、潔白清廉にして繩に中れば(高注:縄は正なり)、愈々窮し愈々榮え、死すと雖も、天下愈々之を高しとするは、足らざる所なればなり。然れども理義を以て斲削(タク・サク、きりけずる、つきつめる意)すれば、神農・黃帝も猶ほ非とす可き有り。獨り舜・湯のみに微ず(高注:「微」も亦た「非」なり)。飛兔・要褭(チョウ)は古の駿馬なるも、材は猶ほ短なる有り。故に繩墨を以て木を取れば、則ち宮室成らず。舜、其の友石戶之農に讓る。石戶之農曰く、「棬棬(勤苦する貌)たるかな、后の人と為りや。葆力の士なり(「葆力之士」は、力を用い、努力する人のことで、人に頼らないことを暗に非難している)。」舜の德を以て未だ至らざると為す。是に於てか、夫は負い、妻は戴き、子を攜えて以て海に入り、之を去りて、終身反らず。舜、又其の友北人無擇に讓る。北人無擇曰く、「異なるかな、后の人と為りや。甽畝(ケン・ポ、田のみぞとうね、の意から、民間を意味する)の中に居りて、游んで堯の門に入る。是の若くにして已まず。又其の辱行を以て我を漫さんと欲す。我之を羞づ。」而して自ら蒼領の淵に投ず。湯將に桀を伐たんとし、卞隨に因りて謀る。卞隨辭して曰く、「吾が事に非ざるなり。」湯曰く、「孰か可ならん。」卞隨曰く、「吾知らざるなり。」湯又務光に因りて謀る。務光曰く、「吾が事に非ざるなり。」湯曰く、「孰か可ならん。」務光曰く、「吾知らざるなり。」湯曰く、「伊尹は何如。」務光曰く、「彊いて力め詬を忍ぶ(「詬」は「恥」、努力家で我慢強い)。吾其の他を知らざるなり。」湯遂に伊尹と夏を謀り桀を伐ち、之に克ちて、以て卞隨に讓る。卞隨辭して曰く、「后の桀を伐つや、我に謀るは、必ず我を以て賊と為すなり。桀に勝ちて我に讓るは、必ず我を以て貪と為すなり。吾、亂世に生まれ、無道の人再び來たりて我を詬しむ。吾數々聞くに忍びざるなり。」乃ち自ら潁水に投じて死す。湯又務光に讓りて曰く、「智者之を謀り、武者之を遂げ、仁者之に居るは、古の道なり。吾子胡ぞ之に位せざる。請う吾子に相たらん。」務光辭して曰く、「上を廢するは、義に非ざるなり。民を殺すは、仁に非ざるなり。人、其の難を犯し、我、其の利を享くるは、廉に非ざるなり。吾之を聞く、『其の義に非ざれば、其の利を受けず。無道の世には、其の土を踐まず。』況んや我を尊くするに於いてをや。吾久しく見るに忍びず。」乃ち石を負いて募水に沈む。故に石戶之農・北人無擇・卞隨・務光の如きの者は、其の天下を視ること、六合の外の若く、人の察する能わざる所なり。其の富貴を視るや、苟も已むことを得可ければ、則ち必ず之に賴らず。高節厲行(節義を高くし行いを磨く)、獨り其の意を樂しみて、物之を害する莫し。利に漫(けがす)されず、埶に索かれず、而して濁世に居ることを羞づ。惟れ此の四士者の節なり。夫の舜・湯の若きは、則ち苞裹(ホウ・カ、つつむ)覆容し、已むことを得ざるに縁りて動き、時に因りて為し、愛利を以て本と為し、萬民を以て義と為す。之を譬うれば、釣者の魚に小大有り、餌に宜適有り、羽(うき)に動靜有るが若し。齊・晉相與に戰うや、平阿(齊の邑)の餘子、戟を亡い矛得たり。卻きて去り、自ら快からず。路の人に謂いて曰く、「戟を亡い矛を得たり。以て歸る可きか。」路の人曰く、「戟も亦た兵なり。矛も亦た兵なり。兵を亡い兵を得たり。何為れぞ以て歸る可かざらん。」行を去りて、心猶ほ自ら快からず。高唐(齊の邑)の孤叔無孫に遇い、其の馬前に當りて曰く、「今者戰いて、戟を亡い矛を得たり。以て歸る可きか。」叔無孫曰く、「矛は戟に非ざるなり。戟は矛に非ざるなり。戟を亡い矛を得たる、豈に責めに亢たらんや(高注:「亢」は「當」なり)。」平阿の餘子曰く、「嘻。還反りて戰わん。趨れば尚ほ之に及ばん。」遂に戰いて死す。叔無孫曰く、「吾之を聞く、君子、人を患いに濟るれば(高注:「濟」は「入」なり)、必ず其の難に離る。」疾驅して之に從い、亦た死して反らず。此をして衆を將いしむれば、亦た必ず北げじ。此をして人主の旁に處らしめば、亦た必ず義に死せん。今死して大功無きは、其の任、小なるが故なり。任、小なる者は、大を知らざるなり。今焉くんぞ天下の平阿の餘子と叔無孫と無きことを知らんや。故に人主の廉士を得んことを欲する者は、求むることを務めざる可からず。齊の莊公の時、士有り、賓卑聚と曰う、夢に壯子有り、白縞(しろぎぬ)の冠、丹繢の䘩(底本は「丹績」に作るが、畢沅により「丹繢」に改める、高注:「䘩」は「纓」なり。「繢」(カイ)は色模様。赤い色の冠の組みひも)、東布の衣、新たなる素履、墨き劍室、從にして之を叱し、其の面に唾す。惕然(おそれる貌)として寤むれば、徒に夢なり。終夜坐して自ら快からず。明日、其の友を召して之に告げて曰く、「吾少きより勇を好み、年六十にして挫して辱しめらるる所無し。今夜辱しめらる。吾將に其の形を索めんとす。期して之を得れば則ち可、得ずんば將に之に死せんとす。」毎朝其の友と俱に衢に立ち、三日得ず。卻きて自ら歿す。此を務に當れりと謂うは、則ち未だしきなり。然りと雖も、其の心の辱しめられざるは、以て加う可き有らんや(高注:「加」は「上」なり。尊ぶ意)。

二 高義

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『孟子』巻第八離婁章句下 百節、百一節、百二節、百三節

2018-03-18 10:18:17 | 四書解読
百節

孟子は言った。
「大人物は、言った言葉を必ず実行するとは限らない。やり始めたことも必ず結果を得られるまでやり通すとは限らない。ただ義に従って言動をなしているのだ。」

孟子曰、大人者、言不必信。行不必果。惟義所在。

孟子曰く、「大人なる者は、言必ずしも信ならず。行い必ずしも果ならず。惟だ義の在る所のままなり。」

<解説>
服部宇之吉氏云う、「大人は達人なり、言必ず信、行必ず果なるは小人なり、大人は言行一に義を以て度と為す、故に言必ずしも信ならず、行必ずしも決ならざることあり、されど信果を輕んずべしと云うに非ず、大義を全うせんが為に小節を顧みざる場合あるをいう、子が父の罪を隠す如き之なり。」

百一節

孟子は言った。
「大人物は、赤子のような純粋な心を失わないものである。」

孟子曰、大人者、不失其赤子之心者也。

孟子曰く、「大人なる者は、其の赤子の心を失わざる者なり。」

<語釈>
○「大人」、趙注:大人は君を謂う。これに因れば、「大人」は国君を指しているが、前節に続き、広義に大人物と解釈し、具体的には国君であると解釈しておくのがよいだろう。

<解説>
「赤子の心」を、大人の心とする説と、民の心とする説がある。趙注に云う、「大人は君を謂う、君、民を視ること、當に赤子の如くし、其の民心を失わざるの謂なり、一説に曰く、赤子は嬰児なり、少小の心は、專らにして一に未だ変化せず、人能く其の赤子の時の心を失わざれば、則ち貞正の大人と為る。」どちらを採用してもよいと思うが、私は後説の大人の心に解釈した。大人物は大人になっても赤子のような純粋な心を失わないという意味である。

百二節

孟子は言った。
「生存中の親に孝養を尽くすのは、当然の行いであって、特に大事な事とするほどものではない。ただ親の死に際しての葬儀だけは、真に重大な事だと言ってよかろう。」

孟子曰、養生者、不足以當大事。惟送死、可以當大事。

孟子曰く、「生を養うは、以て大事に當つるに足らず。惟だ死を送るは、以て大事に當つ可し。」

<語釈>
○「養生者~」、趙注:孝子の親に事え養いを致すは、未だ以て大事と為すに足らず、終わりを送るに禮の如くするは、則ち能く大事を奉ずと為すなり。

<解説>
日頃親に孝を尽くすのは、当然の事であって、取り立てて言うほどの事ではないが、葬儀に関しては、最後の孝養であるので、その重要性を認識すべきことを言っている。

百三節

孟子は言った。
「君子が、深く道に達する為に、それぞれの道、方法で追及するのは、自ら会得したいからである。自ら会得すれば、その道に安らかに居ることが出来る。安らかに居れば、それを頼りにより深く追求することが出来る。そうしてより深い道を会得することが出来れば、身近などんな出来事に対しても、その根本に行く就くことが出来る。だから君子は道を自得しようと思うのである。」

孟子曰、君子深造之以道、欲其自得之也。自得之、則居之安。居之安、則資之深。資之深、則取之左右逢其原。故君子欲其自得之也。

孟子曰く、「君子の深く之に造(いたる)るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に居ること安し、之に居ること安ければ、則ち之に資ること深し。之を資ること深ければ、則ち之を左右に取りて其の原に逢う。故に君子は其の之を自得せんことを欲するなり。」

<語釈>
○「造之以道」、趙注:「造」は「致」なり。服部宇之吉氏云う、「之道」の二字同格、道に至るに道を以てするなり。○「資之」、趙注:「資」は「取」なり。朱注:「資」は猶ほ籍なり。この二注を取り入れて、由りて取る意に解す。○「左右」、朱注:左右は、身の兩旁、至近にして一處に非ざるを言う。○「原」は、「源」に通じ、みなもと。

<解説>
何事においても、根本を理解することが要であることを説いているのだが、これは非常に大事な事である。人間は限られた時間の中で、知ることのできることは限られている。今の時代、マニュアルが無ければ何もできない人が増えている。そんなことは考えれば分かるだろうと言いたいことが沢山ある。一を聞いて十を知る能力を培うべきである。

『孟子』巻第八離婁章句下九十六節、九十七節、九十八節、九十九節

2018-03-12 10:14:44 | 四書解読
九十六節

孟子は言った。
「中和の徳を具えた賢者が、徳の至らぬ人々を教え導き、才能ある者が、無能な人々を教え導く。だからこそ人は才徳すぐれた賢父兄がいて、導いてくれることを喜ぶのだ。もし徳ある者が、不徳の者を見捨て、才能ある者が、不才の者を見捨てたとしたら、徳ある者も徳無く、才ある者も才無しとなり、賢と不肖との隔たりは一寸の開きもないことになる。」

孟子曰、中也養不中、才也養不才。故人樂有賢父兄也。如中也棄不中、才也棄不才、則賢不肖之相去、其閒不能以寸。

孟子曰く、「中や不中を養い、才や不才を養う。故に人、賢父兄有るを樂しむなり。如し中や不中を棄て、才や不才を棄てるなば、則ち賢不肖の相去ること、其の閒、寸を以てすること能わず。」

<語釈>
○「中」、趙注:中は、中和の気を履み、生ずる所、之を賢と謂う。○「養」、教え導くこと。

<解説>
徳ある者は、不徳の者を、才ある者は不才の者を、それぞれ教え導く義務があるということだが、今の我々からすれば、大きなお世話ということだ。

九十七節

孟子は言った。
「人は不義を決して行わないという決心があってこそ、大きな事を成し遂げることが出来るのだ。」

孟子曰、人有不為也、而後可以有為。

孟子曰く、「人為さざる有り、而る後以て為す有る可し。」

<解説>
この節の趣旨について、服部宇之吉氏は云う、「不義を為さざる人にして、其の才始めて用に立ち、為すところあるを得べし。」

九十八節

孟子は言った。
「人の善くない点を言いふらせば、それによる患難がわが身に及ぶことになる。そうなればどう対処するつもりなのか。」

孟子曰、言人之不善、當如後患何。

孟子曰く、「人の不善を言わば、當に後患を如何すべき。」

<解説>
服部宇之吉氏云う、「君子は人の惡を言わず、蓋し人自ら惡有れば、他人の之を言うを惡む、人の惡を言わば、後に患難我が身に及ばんとするを思うべし。」

九十九節

孟子は言った。
「孔子は中庸の精神を重んじて、極端な事をしない人だった。」

孟子曰、仲尼不為已甚者。

孟子曰く、「仲尼は已甚だしきを為さざる者なり。」

<解説>
特に解説することはない。

『史記』魏豹彭越列伝

2018-03-07 10:16:58 | 四書解読
『史記』魏豹彭越列伝

魏豹は、故の魏の諸公子なり。其の兄魏咎、故の魏の時、封ぜられて寧陵君と為る。秦、魏を滅ぼし、咎を遷して家人(庶人)と為す。陳勝の起こりて王となるや、咎往きて之に從う。陳王、魏人周市をして魏の地を徇えしむ。魏の地已に下り、相與に周市を立てて魏王と為さんと欲す。周市曰く、「天下昏亂し、忠臣乃ち見わる。今天下共に秦に畔く。其の義必ず魏王の後を立てて乃ち可ならん。」齊・趙、車各々五十乘を使わして、周市を立てて魏王と為す。市辭して受けず、魏咎を陳より迎えんとし、五たび反る。陳王乃ち遣り、咎を立てて魏王と為す。章邯已に陳王を破るや、乃ち兵を進めて魏王を臨濟に撃つ。魏王乃ち周市をして出でて救いを齊・楚に請わしむ。齊・楚、項它・田巴を遣りて兵に將として市に隨い魏を救わしむ。章邯遂に撃破して周市等の軍を殺し、臨濟を圍む。咎、其の民の為に降を約す。約定まりて、咎自ら燒殺す。魏豹亡げて楚に走る。楚の懷王、魏豹に數千人を予え、復た魏の地を徇えしむ。項羽已に秦を破り、章邯を降す。豹、魏の二十餘城を下す。豹を立てて魏王と為す。豹、精兵を引きいて項羽に從いて關に入る。
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