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『史記』の解読について

2017-06-30 10:46:02 | 四書解読
私のホームページで、公開している『史記』の解読は、ホームページのタイトルが「春秋戦国の部屋」ということから、『史記』の解読も本紀・世家・列伝ともに始皇帝の時代で終わっている。しかしながら『史記』の存在価値は、史料としても文学書としても中国史の中でも飛び抜けた存在であり、基本史料である。このような『史記』の解読を、そのような理由で中途半端にしておくべきではないと思い、『史記』の完全解読を目指すことにした。
今現在、『孟子』と『呂氏春秋』との解読を進めているが、そこに『史記』の解読を加えることにした。
中国史の中では秦の後の楚漢の時代が一番面白い。項羽と劉邦との闘い、劉邦と共に活躍した英雄たちの胸躍らせる物語が沢山ある。是非多くの方にこれらを『史記』という根本史料により親しんでもらえれば、私の喜びとするところです。
これから解読を終えた所から逐次ホームページにアップしていきたいと思います。その際はブログなどでお知らせします。先ずは『項羽本紀』からです。

『孟子』巻第六藤文公章句下 五十六節

2017-06-25 10:32:42 | 四書解読
五十六節

弟子の萬章が孟子に尋ねた。
「宋は小国ですが、君主は王者の政治を行おうとしています。ところが大国の齊や楚たそれを憎んで攻めてきたとしたら、どうすればよいのでしょうか。」
孟子は答えた。
「殷の湯王がまだ一諸侯として亳にいたとき、隣に葛という国があった。葛の君はわがまま勝手で、祖先の祭をしなかった。そこで湯王は人を使わして、『どうして祖先を祭らないのか』と尋ねさせたら、『供える犠牲がないからだ』と答えた。そこで湯王は祭祀用の牛と羊を送らせると、葛の君はそれを食べてしまい、祭をしなかった。湯王は又使いを遣わして、『どうして祭らないのか』と尋ねさせたら、『供える穀物がない』と答えたので、湯王は自国の民を葛国に使わして祭田を耕させ、老人子供に耕す者の食を運ばせたが、葛の君は自国の民を引き連れて待ち伏せし、酒や肉や食を強奪し、それを拒んだものは殺してしまった。子供が肉と飯とを以て通りかかると、その子供たちまで殺して奪った。『書経』(商書の仲虺之誥篇)に、『葛伯、餉に仇す』と有るのは、この事を言っているのだ。子供まで殺す無道な行いの為に、湯王は葛国を征伐した。天下の人民は皆、『天下の富を手に入れようとしたのではない。罪無くして殺された庶民の仇を討ったのだ。』と言った。湯王が天下の暴虐な君主を征伐したのは葛が最初で、その後十一の暴虐な君主を征伐し、遂に湯王に敵対する国は無くなった。その間、東の敵を征伐すれば、西の異民族が怨み、南の敵を征伐すれば、北の民が怨み、それぞれが、『どうして私たちを後にするのか。』と言ったそうだ。民が湯王待ち望むこと、干ばつの時に雨を待ち望んでいるようであった。だから、湯王の軍が城内に入ってきても、市場に行く者は普段と変わらず市場に行き、農民は普段と変わらず田畑で除草をしていた。湯王はその君主を誅伐して、民を労わったので、恵みの雨が降って来た時のように、湯王がやって来たことを喜んだ。だから『書経』(商書の太甲上篇)にも、『我らが君を待つ、君が来られたら、無法な罰は無くなるだろう。』と記されている。周の始めも亦た同様であった。それについても『書経』(この句は今の書には無い)は、『周の臣になることを快しとしない国があり、東に兵を進めて征伐し、その国の男女の民を安んじた。すると諸侯は黒と黄色の絹布を箱に入れて幤物として、我が周王につてに因り謁見して、その美徳を見て、大周国に臣として帰服した。』と述べている。殷の役人たちが、黒と黄色の絹布を箱に満たして、周の役人を迎え、殷の人民が、竹かごに飯を入れ壺に飲み物を入れて、周の兵士たちを迎えたのは何故か。それは殷の民たちを水火の苦しみから救い出し、残虐な君主を取り除いたからである。『書経』の太誓篇にも、『我が武威は高揚し、殷の国境を侵し、その残虐な君主を取り除き、その功は大いに拡大して、あの殷の湯王よりも栄光に満ちている。』とある。今宋は王政を行いもしていないのに、先の事を心配している。もし宋公が誠に王政を行えば、天下の民は皆首を伸ばして宋公を仰ぎ見て、我が君としてお仕えしたいと願うだろう。そうなれば齊や楚が大国だとしても、何の恐れることがあろうか。」

萬章問曰、宋小國也。今將行王政。齊楚惡而伐之、則如之何。孟子曰、湯居亳、與葛為鄰。葛伯放而不祀。湯使人問之曰、何為不祀。曰、無以供犧牲也。湯使遺之牛羊。葛伯食之、又不以祀。湯又使人問之曰、何為不祀。曰、無以供粢盛也。湯使亳衆往為之耕、老弱饋食。葛伯率其民、要其有酒食黍稻者奪之、不授者殺之。有童子以黍肉餉。殺而奪之。書曰、葛伯仇餉。此之謂也。為其殺是童子而征之。四海之內皆曰、非富天下也。為匹夫匹婦復讎也。湯始征、自葛載。十一征而無敵於天下。東面而征、西夷怨、南面而征、北狄怨。曰、奚為後我。民之望之、若大旱之望雨也。歸市者弗止、芸者不變。誅其君、弔其民。如時雨降、民大悅。書曰、徯我后、后來其無罰。有攸不惟臣、東征、綏厥士女。匪厥玄黃、紹我周王見休、惟臣附于大邑周。其君子實玄黃于匪以迎其君子、其小人簞食壺漿以迎其小人。救民於水火之中、取其殘而已矣。太誓曰、我武惟揚、侵于之疆。則取于殘、殺伐用張。于湯有光。不行王政云爾。苟行王政、四海之內皆舉首而望之、欲以為君。齊楚雖大、何畏焉。」

萬章問いて曰く、「宋は小國なり。今將に王の政を行わんとす。齊楚惡みて之を伐たば、則ち之を如何せん。」孟子曰く、「湯、亳に居り,葛と鄰を為す。葛伯放にして祀らず。湯、人をして之を問わしめて曰く、『何為れぞ祀らざる。』曰く、『以て犧牲に供する無きなり。』湯、之に牛羊を遺らしむ。葛伯之を食い、又以て祀らず。湯又人をして之を問わしめて曰く、『何為れぞ祀らざる。』曰く、『以て粢盛に供する無きなり。』湯、亳の衆をして往きて之が為に耕やさしめ、老弱、食を饋る。葛伯、其の民を率い、其の酒食黍稻有る者を要して之を奪い、授けざる者は之を殺す。童子有り、黍肉を以て餉る。殺して之を奪う。書に曰く、『葛伯餉に仇す。』此を之れ謂うなり。其の是の童子を殺すが為にして之を征す。四海の內皆曰く、『天下を富めりとするに非ざるなり。匹夫匹婦の為に讎を復するなり。』湯始めて征する、葛自り載(はじめる)む。十一たび征して天下に敵無し。東面して征すれば、西夷怨み、南面して征すれば、北狄怨む。曰く、『奚為れぞ我を後にする。』民の之を望むこと、大旱の雨を望むが若きなり。市に歸く者は止まらず、芸る者變ぜず。其の君を誅し、其の民を弔う。時雨の降るが如く、民大いに悅ぶ。書に曰く、『我が后を徯つ、后來らば其れ罰無からん。』『臣たるを惟わざる攸有り、東征して、厥の士女を綏んず。厥の玄黃を匪にし、我が周王を紹して休を見、惟れ大邑周に臣附す。』其の君子は玄黃を匪に實てて以て其の君子を迎え、其の小人は簞食壺漿して、以て其の小人を迎う。民を水火の中より救い、其の殘を取るのみ。太誓に曰く、『我が武惟れ揚り、之が疆を侵す。則ち殘を取り、殺伐用て張る。湯に于て光有り。』王政を行わずして爾云う。苟くも王政を行わば、四海の內皆首を舉げて之を望み、以て君と為さんことを欲せん。齊・楚大なりと雖も、何ぞ畏れん。」

<語釈>
○「粢盛」、神饌として供える穀物。○「老弱饋食」、服部宇之吉氏云う、老弱饋食は、耕者に食を饋るなり。○「要」、邀に通じ、むかえる、適を待ち伏せする意。○「餉」、前の「餉」は“おくる”と訓じ、後の「餉」は“かれいい”と訓じ、乾飯のこと、弁当を指す。○「載」、趙注:「載」は「始」なり。○「芸」、「芸」は“くさぎる”と訓じ、除草のこと、「芸」は「藝」と同字に扱っているが、本来別字であり。○「匪厥玄黃」、「匪」は箱、動詞に読んで箱に入れる意、「玄」は黒、黒と黃の絹布を幤物として箱に入れた。○「君子、小人」、趙注:其の君子小人は、各々執る所有り、以て其の類を迎う。朱注:君子は位在るの人を謂い、小人は細民()を謂うなり。君子は役人、小人は下級の兵士を指す。

<解説>
この節も孟子の王道論を説いたものになっている。その根幹は王政を行えと云う単純なものであり、さほど解説するほどの事はないが、今の『書経』には無い語句が引用されており、其の語句の範囲がはっきりしない個所もあり、又解読に苦労した箇所も何か所か有るが、本意は大意を理解することに在るので、その点を踏まえて通釈した。

『孟子』巻第六藤文公章句 五十五節

2017-06-18 10:21:46 | 四書解読
五十五節

弟子の彭更が尋ねた。
「何百人の弟子を引き連れ、其の後ろに何十台もの車を従えて、諸侯を渡り歩いて禄を受けられるのは、分に過ぎた贅沢ではありませんか。」
孟子は言った。
「正当な理由がなければ、わずかな食料でも人から受けてはいけない。しかし正当な理由があれば、舜が堯から天下という大きなものを譲り受けたとしても、分に過ぎたことにならない。それともお前はそれを分に過ぎた贅沢と思っているのか。」
「思っていません。ただ士たる者が仕えもせずに禄だけもらうのはよくない事だと思うのです。」
「人は互いの成果を融通し事を交換し、互いに余ったもので足りないところを補ぎなうようにしなければ、農夫は食糧はあるが布がなく、女は布はあるが食糧はないということになる。もしお前が政治を任されたとして、人々の成果を互いに融通し合うような方策を講じてやれば、農夫や女はもちろん、大工や車造りの職人も皆お前のおかげで食料を得られる。さて、ここに一人の男がいて、家にあっては孝、外では年長者に善く仕え、先王の道を守り、後の学者にそれを伝えようとしている。ところが融通し合う生産物がないからと言って、お前のおかげで食料を得られないことになる。お前はどうして大工や車造りの職人などばかり尊んで、仁義の道を行う者を軽んずるのか。」
「大工や車造りの職人は、食を求めることにその志があります。君子が道を行う其の志もやはり食料の為なのですか。」
「お前はどうして何の為にという目的ばかり問題にするのか。やった仕事がお前にとって役に立ち、報酬を与えてもよいと思えば与えればよい。お前は志に報酬を与えるのか、それとも成果に与えるのか。」
「志に対してです。」
「ではここに一人の男がいて、屋根仕事をさせれば瓦を割ってしまうし、壁に飾りを塗らさると一面塗りつぶしてしまう。だが其の志が報酬を得ることであれば、お前は与えるのか。」
「いいえ与えません。」
「それではやはりお前は志に対して報酬を与えるのではなく、その成果に与えるわけだ。」

彭更問曰、後車數十乘、從者數百人、以傳食於諸侯。不以泰乎。孟子曰、非其道、則一簞食不可受於人。如其道、則舜受堯之天下、不以為泰。子以為泰乎。曰、否。士無事而食、不可也。曰、子不通功易事、以羡補不足、則農有餘粟、女有餘布。子如通之、則梓匠輪輿皆得食於子。於此有人焉。入則孝、出則悌、守先王之道、以待後之學者。而不得食於子、子何尊梓匠輪輿而輕為仁義者哉。曰、梓匠輪輿、其志將以求食也。君子之為道也、其志亦將以求食與。曰、子何以其志為哉。其有功於子、可食而食之矣。且子食志乎。食功乎。曰、食志。曰、有人於此。毀瓦畫墁、其志將以求食也、則子食之乎。曰、否。曰、然則子非食志也。食功也。

彭更問いて曰く、「後車數十乘、從者數百人、以て諸侯に傳食す。以だ泰ならずや。」孟子曰く、「其の道に非ざれば、則ち一簞の食も人より受く可からず。如し其の道ならば、則ち舜、堯の天下を受くるも、以て泰なりと為さず,子は以て泰なりと為すか。」曰く、「否。士、事無くして食むは、不可なり。」曰く、「子、功を通じ事を易え、羡(あまる)れるを以て不足を補わずんば、則ち農に餘粟有り、女に餘布有らん。子如し之を通ぜば、則ち梓・匠・輪・輿、皆食を子に得ん。此に人有り。入りては則ち孝、出でては則ち悌、先王の道を守り、以て後の學者を待つ。而るに食を子に得ずとせば、子何ぞ梓・匠・輪・輿を尊んで、仁義を為す者を輕んずるか。」曰く、「梓・匠・輪・輿、其の志は將に以て食を求めんとするなり。君子の道を為すや、其の志も亦た將に以て食を求めんとするか。」曰く、「子何ぞ其の志を以て為さんや。其の子に功有らば、食ましむ可くして之に食ましめんのみ。且つ子、志に食ましむるか、功に食ましむるか。」曰く、「志に食ましむ。」曰く、「此に人有り。瓦を毀ち墁に畫するも、其の志は將に以て食を求めんとすれば、則ち子之に食ましむるか。」曰く、「否。」曰く、「然らば則ち子は志に食ましむるに非ざるなり。功に食ましむるなり。」

<語釈>
○「後車」、服部宇之吉氏云う、後車とは、孟子の諸侯へ出入する行列の後ろに随う車なり。○「傳食」、服部宇之吉氏云う、傳食とは、諸侯より諸侯へと禄を受けて移り行く」なり。○「泰」、趙注:「泰」は「甚」なり。朱注:「泰」は「侈」なり。朱注を採用する。○「子不通」、子は彭更を指し、以下の文を彭更が政治を司ったとしたらと云う前提で解釈するのが一般的であるが、服部宇之吉氏はここでは広く人の義と見るしと述べている。私もこの解釈の方がよいと思うので、これを採用した。○「梓匠輪輿」、「梓匠」は、大工、「輪輿」は車造り。○「毀瓦畫墁」、朱注:「墁」(マン)は牆壁の飾りなり、「毀瓦畫墁」とは、功無くして害有るを言うなり。

<解説>
後車數十乘、從者數百人という孟子の陣容に驚かされる。之だけの者を引き連れて諸国を巡り歩いていたとしたら、相当な収入があったのだろう。それだけ当時孟子が世に入れられていたということだろう。そうなると諸侯にとっても孟子を招いてその話を聞くことは、たとえその王道論が実践不可能であっても、己自身のステータスをあげる為に必要としたのではなかろうか。

『呂氏春秋』巻第五仲夏紀

2017-06-13 10:16:19 | 四書解読
巻第五 仲夏紀

一 仲夏

一に曰く。仲夏の月。日は東井に在り、昏に亢中し、旦に危中す。其の日は丙丁、其の帝は炎帝、其の神は祝融、其の蟲は羽、其の音は徵、律は蕤(スイ)賓に中る。其の數は七、其の味は苦、其の臭は焦、其の祀は竈、祭るには肺を先にす。小暑至り(小暑について、高注は、夏至の後六月の節としているが、五月紀に六月の節を記すのは不自然であることから、節の小暑でなく、単に夏の始め的な意味だろう)、螳蜋(トウ・ロウ、かまきり)生じ、鶪(ゲキ、高注:伯勞なり)始めて鳴き、反舌(もず)聲無し。天子、明堂の太廟に居り、朱輅に乘り、赤駵(セキ・リュウ、栗毛の馬)を駕し、赤旂を載て、朱衣を衣、赤玉を服び、菽と雞とを食らう。其の器は高にして以て觕(ソ、「粗」に通じ、粗大の意)なり。壯狡(高注:壯狡は多力の士)を養う。是の月や、樂師に命じて、鞀・鞞鼓を修め(「鞀」(トウ)、ふりつづみ、「鞞鼓」(ヘイ・コ)、祭祀用の太鼓)、琴瑟管簫を均え、干戚戈羽を執り(高注:「干」は楯、「戚」は斧、「戈」は戟、長さ六尺六寸、「羽」は以て翿(トウ、かざし)為り)、竽笙壎箎を調え(高注:「竽」は笙の大なる者、竽は三十六簧、笙は十七簧、「壎」(ケン)はつちぶえ、「箎」(チ)は竹製の横笛)、鍾磬(ケイ、石のかね)柷(シュク、木箱の中に木椎をつるし、左右に振って音を出す)敔(ギョ、木で作った虎の背に筋目を刻み、それをこすって音を出す)を飭(ととのえる)えしむ。有司に命じて、民の為に山川百原に祈祀し、大いに帝に雩(ウ、雨乞いの祭)するに、盛樂を用いしむ。乃ち百縣に命じて(高注:百縣は、畿内の百縣の大夫なり)、雩して百辟(君の意)卿士の民に益有りし者を祭祀して、以て穀實を祈らしむ。農は乃ち黍を登む(高注:「登」は進)。是の月や、天子、雛を以て黍を嘗め、羞(高注:「羞じ」は進)むるに含桃(ゆすらうめ)を以てし、先づ寢廟に薦む。民をして藍を刈りて以て染むること無く、炭を燒くこと無く、布を暴すこと無からしむ。門閭は閉づること無く、關市は索むること無からしむ。重囚を挺め(高注:「挺」は緩なり)、其の食を益す。游牝は其の群を別ち(春に放牧していた牝馬は懐妊しているので別にする)、則ち騰駒(発情した馬)を縶ぎ、馬正を班ぐ(高注:「班」は告なり。畢沅云う、馬正は月令は馬政に作る、と。馬に関する政令を告げること)。是の月や、日の長きこと至り、陰陽爭い、死生分かる。君子齋戒し、處るには必ず揜くし(高注:「揜」は深。屋敷の奥に居ること)、身は靜かにして躁ぐこと無く、聲色を止め,進むること或る無く(高注:「進」は御なり。「御」は寝所に侍ること)、滋味を薄くし、和を致すこと無く(高注:「和」は齊和なり。「齊和」は調味の事で、味を求めない事)、嗜慾を退け、心氣を定めんことを欲す。百官は靜かにし、事は刑すること無く(高注:「事無刑」とは、當に精詳にして後に行うべし。善く調べてから実行すること)、以て晏陰の成す所を定む(高注:「晏陰」は、微陰。かすかな陰の気、それがもたらすものを安定させる)。鹿角は解(おちる)ち、蟬は始めて鳴き、半夏生じ、木堇榮く(「半夏」はからすびしゃく、「木堇」はむくげ、共に薬草に用いる、「榮」は“はなさく”と訓ず)。是の月や、火を南方に用うること無かれ。以て高明(高くて見晴らしの良い所)に居る可く、以て眺望を遠くす可く、以て山陵に登る可く、以て臺榭に處る可し(「臺」は土を築いたもの、「榭」は其の上に築いた木造の建物)。仲夏に冬の令を行えば、則ち雹霰(ハク・サン、ひょうとあられ)、穀を傷ない、道路通ぜず、暴兵來たり至る。春の令を行えば、則ち五穀晚く熟し、百螣(トク、いなごの類)時に起り、其の國乃ち饑ゆ。秋の令を行えば、則ち草木零落し、果實早く成り、民、疫に殃いせらる。

二 大樂

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『孟子』巻第六藤文公章句下 五十四節

2017-06-05 09:51:04 | 四書解読
五十四節

周霄が言った。
「古の君子は仕官したのでしょうか。」
孟子は答えた。
「当然仕えた。言い伝えでは、孔子は三か月も仕える主君がいなければ、心が落ち着かずおろおろし、辞職してその国を出るときは、必ず次に仕える君主への進物を用意したそうだ。又賢者の公明儀も、『古の人は、三か月も君主を持たないでいると、心配して見舞ってくれたものだ。』と言っている。」
「三か月仕える君主を持たないと見舞ってくれるとは、あまりにせっかちではありませんか。」
「士が位を失うのは、諸侯が國を失うようなものだ。礼の書物に、『諸侯は自ら公田を耕し、後を民が引き継ぎ、収穫した穀物を宗廟の祭りの供え物にする。夫人も自ら少し養蚕を行い繭から糸を取り、後は侍女が引き受け、得た糸で宗廟の祭りの衣服を作る。』とあるが、國を失えば、犠牲の獣もととのわず、けがれのないお供え用の穀物もなく、祭服も無いので、祖先を祭ることも憚られる。士も同じ事で、官職を失って祭祀の費用に充てる耕地がなければ、祭ることもできない。犠牲の獣・祭器・祭服の用意が出来ず祭祀を行うことが出来ないのだから、当然その後の一族を饗する宴も行えない。これでも見舞うには及ばないというのか。」
「辞職してその国を出るときは、必ず次に仕える君主への進物を用意したというのは、どういうことですか。」
「士が主君に仕えるということは、農夫が耕作をするのと同じことだ。農夫も國を出るからと言って、鋤やくわを棄てて行ったりはしないだろう。」
「私も魏の国に仕えておりますが、仕えるということがこれほど急な事だとは知りませんでした。仕官することがこれほど差し迫った大事であるなら、先生ほどの方がなかなか仕官なさらないのは、どうしてでしょうか。」
「男の子が生まれると、よい嫁を持たせてやりたいと願い、女の子が生まれると、よい夫に嫁がせたいと願う。これは人としてみんなの願いである。それなのに子供が親の許しや仲人の言葉を待たずに、竊かに壁に穴をあけて覗き合ったり、垣をのり越えて密会したりすれば、父母を始め人々は皆これを蔑むだろう。昔の賢人たちは仕官することを望まなかったのではない。ただそれ相当の正当な筋道によらないことを嫌ったのだ。正当な筋道に因らずに仕官さえ出来ればよいと思うのは、壁に穴をあけて覗き合う類の卑しい行いである。」

周霄問曰、古之君子仕乎。孟子曰、仕。傳曰、孔子三月無君、則皇皇如也。出疆必載質。公明儀曰、古之人三月無君則弔。三月無君則弔、不以急乎。曰、士之失位也、猶諸侯之失國家也。禮曰、諸侯耕助、以供粢盛、夫人蠶繅、以為衣服。犧牲不成、粢盛不潔、衣服不備、不敢以祭。惟士無田、則亦不祭。牲殺器皿衣服不備、不敢以祭、則不敢以宴。亦不足弔乎。出疆必載質、何也。曰、士之仕也、猶農夫之耕也。農夫豈為出疆舍其耒耜哉。曰、晉國亦仕國也。未嘗聞仕如此其急。仕如此其急也、君子之難仕、何也。曰、丈夫生而願為之有室、女子生而願為之有家。父母之心、人皆有之。不待父母之命・媒妁之言、鑽穴隙相窺、踰牆相從、則父母國人皆賤之。古之人未嘗不欲仕也。又惡不由其道。不由其道而往者、與鑽穴隙之類也。

周霄(ショウ)問いて曰く、「古の君子は仕うるか。」孟子曰く、「仕う。傳に曰く、『孔子は三月君無ければ、則ち皇皇如たり。疆を出づれば必ず質を載す。』公明儀曰く、『古の人は三月君無ければ則ち弔す。』」「三月君無ければ則ち弔すとは、以だ急ならずや。」曰く、「士の位を失うや、猶ほ諸侯の國家を失うがごときなり。禮に曰く、『諸侯は耕助し、以て粢に供し、夫人は蠶繅(サン・ソウ)して、以て衣服を為る。』犧牲成らず、粢盛潔からず、衣服備わらざれば、敢て以て祭らず。惟だ士は田無ければ、則ち亦た祭らず。牲殺器皿衣服備わらずして、敢て以て祭らざれば、則ち敢て以て宴せず。亦た弔するに足らずや。」「疆を出づれば必ず質を載すとは、何ぞや。」曰く、「士の仕うるや、猶ほ農夫の耕やすがごときなり。農夫は豈に疆を出づるが為に、其の耒耜を舎てんや。」曰く、「晉人(國)も亦た國に仕う。未だ嘗て仕うること此の如く其れ急なるを聞かず。仕うること此の如く其れ急ならば、君子の仕うることを難しとするは何ぞや。」曰く、「丈夫生まれては之が為に室有らんことを願い、女子生まれては之が為に家有らんことを願う。父母の心は人皆之れ有り。父母の命、媒妁の言を待たずして、穴隙を鑽りて相窺い、牆を踰えて相從わば、則ち父母國人皆之を賤しまん。古の人未だ嘗て仕うること欲せずんばあらざるなり。又其の道に由らざるを惡む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑽(きる)ると之れ類するなり。」

<語釈>
○「皇皇如」、朱注:皇皇は、求むる有りて得ざるの意有るが如し。求めることが得られず、心が落ち着かない状態をいう。○「質」、「質」音はシで、この時代、仕官する時は礼物を送ることになっており、これを「質」という。○「禮曰」、今の『禮経』にはこれと同じ文章はない。○「耕助」、井田制の中央の一画が公田で、籍田という。服部宇之吉氏云う、君主先づ少しく躬ら耕し、後民力を籍(かりる)りて耕を終う、故に之を耕助と云う。○「粢盛」、趙注:「粢」は稷、「盛」は稲なり。朱注:黍稷を粢と曰い、器に在るを盛と曰う。○「蠶繅」、「蠶」は、養蚕、「繅」は繭から糸をくり取ること。○「惟士無田」、「惟」は“ただ”と読む説もあるが、“おもうに”と読む方がよい。「田」は、趙注は圭田とする、田猟に解する説もある。圭田のほうがよい。「圭田」とは、卿・大夫・士に祭祀の料として賜う田。○「晉國亦仕國也」、趙注に、魏は本晉なり、周霄曰く、「我晉人なり、亦た仕うること、其の急なること此の若きを知らず。」とあることから、「國」は「人」の誤りとする説がある。通常は「仕國」を仕えるに値する国であると解釈し、晉國も亦た仕國なりと読む、前説に従えば、晉人(周霄)も亦た國に仕う、と読む。前説を正しいとする根拠はないが、文意からすると、この方がよいので、これを採用する。

<解説>
五十二節と同じく、孟子が仕官しない事を弟子が憂えている。五十二節では、己を曲げて相手に媚びをうってまで仕官はしないと述べ、この節では、正当な筋道を強調している。師匠が仕官しないと弟子も不安であろう。